↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

15/15

新たな仲間

店を出ると、扉の上の小さなベルがちりんと鳴った。


歩道で足を止め、コートの襟を直す。肩にぴたりと合う黒のコート。同じ色のズボンに、石畳の上でも耳障りな音を立てない革のブーツ。この世界で目を覚ましてから初めて、どこも窮屈じゃなかった。

「この世界の服、高すぎだろ……」

思わず独りごちた。


三十ファング。店主は袋の底に残った最後の一枚まで持っていって、にこやかに手を振って俺を見送った。あの笑顔を見れば、値段の理由は聞くまでもない。

「貴賓向けの服、ってやつか」

払う前に誰か教えてくれ。


隣の歩道に目をやる。さっきハンマーが叩きつけられた石畳は、まだ割れたままだった。ハンマーの持ち主はもういない。どうでもいい。

腕立て、腹筋、スクワット。三つは今朝のうちに病院で終わらせた。残るはランニングだけだ。


「走るか」

大通りから走り出し、街の外周をなぞる道へ折れた。

最初の数キロは、ほとんど何も感じなかった。足の下を地面が流れていく。コートが腕の邪魔になるかと思ったが、そんなこともない。


野菜を積んだ荷車を押す老人を抜き、焼きたてのパンの匂いがする店先を抜き、門の脇で槍にもたれてあくびをしている衛兵を抜いた。眠そうな目が、俺の姿が見えなくなるまで追ってきた。


五キロで呼吸が重くなった。八キロで足に来た。

それでも、俺の知っている限界とは違う。数日前まで、病院の庭を数周しただけでベンチに倒れ込んでいたのだ。

出発点に戻ったところで、目の前に画面が浮かんだ。


【システム】

目標

腕立て伏せ ――― [100/100]

腹筋 ――― [100/100]

スクワット ――― [100/100]

ランニング ――― [10/10km]

動けなかった。息はまだ切れている。画面は急かすこともなく、ただそこで待っていた。

やがて消え、別の画面に切り替わる。

【システム】

【任務報酬】

任務を達成しました。

① 完全回復

② 能力ポイント +3

③ ダンジョンチケット ×1

報酬を受け取りますか?

[はい] [いいえ]

「はい」


▽

大通りに戻る途中、脇の路地から声が聞こえた。悲鳴。鈍い打撃音。もう一度、悲鳴。

聞き覚えのある声だった。


無視すればいい。そう思ったのに、気づけば路地に入っていた。

狭い路地には濡れた木箱の臭いが籠っていた。奥に男が二人。足元には、誰かが転がっている。壁際には巨大なハンマー。持ち主の顔を確かめるまでもなかった。


「魔石はどこだ! ダンジョンで三つ集めたはずだぞ! どこやった!」

喋っているのは、髭面の大男だった。一言ごとに地面を踏み鳴らしている。隣には痩せた男。短い刃物を指先で弄んでいた。


「ぬ、盗んでないって! ほんとだ! ちょっと借りただけだ! 一生ものの貸しってやつで!」

「借りただと?」


痩せた男が肩を蹴りつけた。呻き声をあげて、青年が丸くなる。

それから、腫れ上がった顔がこちらを向き、目が合った。


青年の目が丸くなる。顔色が引いていく。そして次の瞬間、俺の予想を裏切って、最悪のことを思いついた顔になった。

「お、おい、あんたら! 後ろを見ろ! あの男が見えるか?」


震える指が、俺を指した。

「あれはオレの子分だ! 今すぐ逃げないと、あんたら殺されるぞ! 親切心で忠告してやってるんだからな!」


二人が振り向いた。大男の視線が、コート、ブーツ、そして俺の白い髪の順に流れる。

「子分?」

大男は鼻で笑った。

「こいつがか?」

それから、ふと眉をひそめた。


「待てよ。お前、ハンターか? 登録証を見せろ」

俺はコートのポケットからカードを出し、無言で渡した。

大男はカードを読み、唇を動かしながら文字を追った。そして、吹き出した。

「黒崎ミナト。ランクE。職業は……荷物持ち!」


痩せた男もげらげら笑う。大男はカードを路地の明かりにかざし、写真を睨んだ。

「で、これは何だ? 黒髪のひょろいガキじゃねえか。ビビらせるために髪でも染めたのか?」

「は? ええ!?」


青年は地面に座り込んだまま、腹を押さえていた。

「待て待て待て。オレをぶん殴った奴がランクE!? ありえねえだろ! 何かの仕掛けか!? 仕掛けなのか!?」

大男がゆっくり振り返る。


「殴られた? さっき子分だって言ったよな?」

「こ、子分ってのはな……たまに親分を殴るもんなんだよ……修行で!」

誰も何も言わなかった。大男は視線を俺に戻すと、手を伸ばし、俺の白い髪を二度ぽんぽんと叩いた。


「いいか、小僧。俺は今日、機嫌がいい。だから生かしといてやる。情けだ。分かったら、とっとと失せろ」


情け。

聞き慣れた言葉だった。

俺は何も言わなかった。考えるより先に、橙色の短剣が手の中にあった。刃が一度、男の顎の下を通る。

笑った顔のまま、頭が石畳にぶつかった。


短い沈黙。それから、体が倒れた。

痩せた男は死体を見て、俺を見た。唇が音もなく動く。そして背を向けて走り出した。

短剣を投げる。


刃は男の顔の横をかすめ、頬を裂き、路地の突き当たりの木戸に突き刺さった。男は悲鳴をあげて顔を押さえたが、足は止めなかった。角を曲がって消える。

路地の奥まで歩き、木戸から短剣を引き抜いた。刃先に、細い血の筋がついていた。


十分だ。

「なんで逃がすんだよ!?」

振り向くと、青年が膝立ちで、男が消えた角を指さしていた。

「あいつ、ギルドに駆け込むぞ! オレたちのことを喋る! 殺される!」

死体の袖で刃を拭う。

「あいつはすぐ死ぬ」


「生きようが死のうが関係ねえよ!」青年の声が裏返った。「あいつら、血染めの鴉の連中だぞ! 分かってんのか!? あんたのやったことがボスに知れたら、オレたち全員殺されるんだよ!」

俺は青年を見た。短剣を収納にしまう。


「だから?」

青年が飛びかかってきて、両手でコートの襟を掴んだ。

「だから!? 『だから』って言ったのか!? オレたち死ぬんだぞ! 死ぬんだ! 『死ぬ』の意味分かってんのか!?」

一本ずつ、襟から手を剥がしていく。このコートは三十ファングもしたのだ。皺をつけたくない。


青年はその場に崩れ落ち、両手で顔を覆った。

「死ぬんだ……オレの夢は全部ここで終わるんだ……汚ねえ路地で……名前も知らねえ死体の隣で……」

俺には言うことがなかった。背を向けて、路地を出た。


▽

青年は、全力で泣いた。

シャツの袖が濡れるまで泣いた。殴られて痛い場所と泣きすぎて痛い場所の区別がつかなくなるまで泣いた。そして、ぴたりと止まった。

よし。落ち着いて考えよう。オレは今にも死にそうだ。でも、落ち着いて考えよう。


さっきの男は、眉ひとつ動かさず首を刎ねた。あれは、ギルド一つで逃げ出すような奴じゃない。血染めの鴉が全員で来ようが、ボスが自分で出てこようが……勝つ。たぶん。多分な。頼む。


それに、あいつはハンターだ。あれだけ強いハンターなら、当然ダンジョンに潜ってる。魔物を倒して、魔石を集めて、売る。

つまり、金持ちだ。


で、オレは何をしてた? 人の魔石を盗んで、人に殴られてた。この二つには明確な違いがある。なんで今まで気づかなかったんだ、オレは。

答えは決まった。あいつにくっつく。


何かカッコいい台詞でも言おうと顔を上げたが、路地には死体しかなかった。路地の入り口の向こうで、黒いコートが遠ざかっていく。


跳ね起きた。ハンマーを掴む。引きずられて二歩前につんのめり、危うく顔から地面に突っ込みかけたが、それでも走った。空いた手をぶんぶん振りながら。


「おーい! 待て! 待ってくれ! まだ自己紹介してないだろ!」

黒いコートは止まらない。

「オレはラグナル! 聞こえたか!? ラグナルだ! すぐ好きになる名前だぜ!」


▽

血染めの鴉ギルドの本部は、ちょうど混み合う時間だった。

広いホールは、ハンターたちでぎっしりだ。戦士たちは酒の杯の横に剣を置き、魔法使いたちは記号の書かれた紙を囲んで言い争っている。


壁際では、ダンジョン帰りの怪我人を待つ治癒師たちが座っていた。

そこへ、痩せた男がふらつきながら入ってきた。片手で頬を押さえている。指の間に細い血の筋。その下の顔は青ざめ、青みがかってさえいる。首の血管が黒ずみはじめていた。


「助け、て……」

言い切れなかった。脚が言うことを聞かない。膝が折れ、入口で床に崩れ落ちる。体が痙攣していた。

どこかで杯が落ちて割れた。それから、椅子が一斉に引かれる音。


「おい、朝の依頼に出た奴じゃないか?」

「相棒はどうした? 一緒じゃなかったのか?」

「治癒師! 治癒師はどこだ!?」

治癒師の女が駆けつけ、男の隣に膝をついた。


「下がって! 場所を空けて!」

両手が白く光り、光が頬の傷をなぞる。それでも、黒い血管は止まらなかった。こめかみへと這い上がっていく。

治癒師が眉を寄せた。


「毒が引かない。治すより広がるほうが速い」

隣に屈んだ魔法使いが傷を覗き込む。

「ただのかすり傷だぞ。こんなかすり傷で、なぜこうなる?」


遠くのテーブルから、大柄な男が立ち上がった。剣の柄に手をかけている。

「誰にやられた」

負傷者の唇が動いた。声は出ない。もう一度。何も出なかった。


治癒師はゆっくりと両手を離した。

「……こんな毒、知らない」

さっきまで騒がしかったホールには、床に横たわる男の、細く途切れていく息の音しか残っていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。