第三章:黄金の肥溜め、そして泥ブタの導き
翌朝、冷たい霧が晴れきらぬうちに、村長と数人の村人たちが粗雑な足音を立てて檻へとやってきた。
彼らの鋭い目は、パラが藁の下に隠そうとしていた泥ブタの存在を、すぐさま見咎めた。
「おいパラ! この汚ねえブタをどこから持ってきた!」
村長が怒鳴り声を上げ、鉄格子越しに太い腕を突っ込むと、泥ブタの首根っこを掴んで力任せに引きずり出そうとした。
その瞬間だった。
「やめてっ!」
パラの口から、自分でも信じられないほど大きな声が飛び出していた。
気がつけば、パラは泥ブタの上に覆い被さるようにして、村長たちの前に立ちはだかっていた。
いつもなら、村人たちに逆らうことなど絶対にしない。殴られれば石のように丸くなり、蹴られれば嵐が過ぎるのを待つだけの、ただの「土を掘る道具」だった。
しかし、自分のわずかな食事を美味しそうに食べ、昨夜の凍えるような檻の中で、ストーブのように温かく寄り添ってくれたこの不器用な生き物を、どうしても彼らの手で切り刻ませたくなかった。
「この子はダメだ! 食べちゃダメだ!」
「……おいおい、ただの『道具』が、持ち主に口答えするのか?」
パラの必死の抵抗に、村長の顔からスッと怒りの表情が消え、代わって氷のように冷ややかな侮蔑の色が浮かんだ。
村長が指先を鳴らし、パラの首に刻まれた奴隷紋に魔力を流し込む。途端に、パラの首を、見えない焼け焦げた鋼の糸がギリリと食い込むように締め上げた。
「がっ、あ……ッ!」
パラは喉を激しくかきむしりながら、泥の床を転げ回った。気管が完全に塞がれ、肺の空気が一滴残らず絞り出される。視界が真っ赤に明滅し、窒息の苦しみでのたうち回るパラを、村人たちは「生意気なスコップだ」「壊れちまえばいい」と嘲笑いながら、容赦なくその細い腹や背中を蹴り飛ばした。
パラの身体の下敷きになっていた泥ブタが、その様子を見て「ブフォ……」と、今までとは違う、地鳴りのような低く怒りを孕んだ声を漏らした。
「明日の祭りの晩御飯は、この泥ブタの丸焼きで決まりだ。パラ、貴様は三日飯抜きだ。道具に食わせる余剰な肉など、この村にはない!」
村人たちが満足げに去った後、パラは口の中の血と泥を吐き出しながら、ピクピクと痙攣する身体をどうにか起こした。
蹴り飛ばされた拍子に、ボロ布のポケットから何かがこぼれ落ちていた。昨日、畑の泥の中から拾い上げた、硬くて重い、黄金色に光る塊だ。
パラは、ひび割れた指先でそれを拾い上げた。
これが何なのか、知る由もない。ただの硬い石ころか、あるいは何かの鉱石の欠片だろう。そんなものよりも、全身の骨が軋むような痛みと、三日間も食事が与えられないという絶望的な事実の方が、何倍も切実だった。
「……こんなの、何の役にも立たない」
パラは、ゴミを捨てるような無関心さで、その黄金の塊を檻のすぐ外にある肥溜めの汚水の中へと放り投げた。
ボチャン、と濁った音が響く。誰にも気づかれることなく、この村の運命を、いや、国の運命すら変えうる至宝は、悪臭の漂う肥溜めの底へと静かに沈んでいった。
その日の深夜。
村人たちが広場に集まり、明日の祭りに向けて酒を飲み交わし、村全体がどんちゃん騒ぎで浮かれている隙のことだった。
檻の隅でじっと丸くなっていた泥ブタが、不意に立ち上がり、パラの服の裾を強く引っ張った。
「……え? どうしたの?」
痛む身体を引きずって顔を上げたパラの前で、泥ブタは「ブフォ」と短く鳴き、パラの首筋――昼間、自分を庇って痛めつけられた少年を縛る黒い『奴隷紋』をじっと見つめた。
次の瞬間、泥ブタの額にこびりついた大きな泥の塊の奥から、チカッと、目も眩むような鋭い赤い光が漏れた。
「えっ……?」
熱を感じる間もなかった。その赤い光がパラの首筋を射抜いた途端、村の境界線を越えれば窒息するという絶対の呪縛だったはずの黒い紋章が、まるで薄氷が砕けるようにパチンと甲高い音を立てて弾け飛び、光の粒子となって闇に溶けて消滅したのだ。
「僕の、首輪が……消えた……?」
呆然と自分の首を触るパラ。その瞬間、信じられないほど大量の空気が肺に流れ込んできた。今まで、自分がいかに浅い呼吸しか許されていなかったかに、呪縛が解けて初めて気がついた。
パラが戸惑うのをよそに、泥ブタは鍵の掛かった鉄格子の扉に鼻先を向けた。再び泥の奥から赤い光が閃くと、頑丈なはずの鋼の錠前が、まるでボロボロの砂のように崩れ落ち、扉がキーキーと音を立てて開いた。
逃げるの? とパラが問う間もなかった。泥ブタはパラの背中を硬い頭で強く押し、有無を言わせぬ勢いで檻の外へと突き出した。
ヤギとアヒルも、泥ブタのただならぬ気配に押されるようにして続く。
しかし、彼らに隠密行動などという高度な技は無理難題だった。
ヤギは外に出た途端、道端に干されていた冬用の干し草を見つけるやいなや、喉を鳴らして「ムシャッ、ムシャッ」と豪快な音を立てて食べ始め、アヒルに至っては深夜の散歩に興奮を抑えきれないのか「グワッ! グワァーッ!」と夜の闇を引き裂くような大音量で鳴き始めたのだ。
「おい、檻の方で変な音がしたぞ!」
案の定、酒宴を抜け出していた警備兵の一人が騒ぎに気づいた。松明の赤い火が、こちらへ向かって揺れながら近づいてくる。
パラは恐怖で凍りついた。だが、泥ブタは迷わなかった。パラの服の襟首を牙でしっかりと咥えると、彼を半ば背中に引き上げるような体勢になり、信じられないほどの力で大地を蹴った。
「うわっ……!?」
それはもはや、重たい泥ブタが走る速度ではなかった。飛ぶような速さで駆け出す泥ブタ。パラは咄嗟に、騒ぎ続けるアヒルを小脇に抱え込んだ。その横を、ヤギもまた口いっぱいに干し草を咥え、交易品としてのプライドなど微塵も感じさせない凄まじいスピードで並走してくる。
「待て! 逃がすな! 貴重な肉が!」
逃亡に気づいた村人たちの怒号が夜空に響く。松明の火がいくつも灯り、追手が殺到する。しかし、泥ブタの放つ圧倒的な脚力は、酔っ払った人間の足で到底追いつけるものではなかった。
パラは風を切って走り抜ける泥ブタの背中で、必死にしがみついていた。振り返れば、自分を一生縛り付けるはずだったあの薄暗く閉鎖的な村が、あっという間に夜の闇の中へと溶け込み、見えなくなっていく。
自分があの悪臭の肥溜めに投げ捨てた石ころが、一体何だったのか。なぜ急に絶対の呪縛が外れたのか。そして、今まさに自分を乗せて疾走しているこの泥だらけの生き物が、本当は何者なのか。パラにはさっぱり分からなかった。
けれど、今はそれでよかった。
首筋を締め付けていたあの冷たい呪縛はもうない。代わりに、肺の奥まで吸い込める夜の空気と、頬を打つ風の匂いが、パラにとっては何よりも温かく、自由の味そのものだったのだ。




