第二章:檻の中の住人たち
村の最果て。ひときわ冷たい北風が吹き抜ける荷物置き場の裏手に、パラの寝床である錆びついた鉄格子の檻はあった。
パラは、自分の体重よりも遥かに重い泥の肉塊――泥ブタを、文字通り転がすようにして、どうにか檻の中へと押し込んだ。額に大きくて硬い泥の塊をくっつけたその奇妙な生き物は、「ブフォ」と緊張感の欠片もない声を上げて、冷たい土の床にどさりと転がった。
「ふぅ、ふぅ……。重い、なぁ……君。本当にブタ、なのかな……」
泥まみれになった細い腕をさすりながら、パラが荒い息を整えた、その時だった。檻の奥、パラが寝るためのわずかな藁の山から、ガサゴソと何かが擦れる音が聞こえてきた。
「あ、ちょっと、ヤギさん! またそんなものを隠して!」
パラは血相を変えて、檻の隅へと駆け寄った。
そこにいたのは、本来なら美しい白であるはずの毛並みが、泥と埃で薄汚れた一頭のヤギだった。このヤギは将来、他の村へ「種籾」と交換されるための重要な交易品として育てられている。だというのに、とにかく手癖――いや、口癖が悪く、隙あらば村中から色々なものを盗んでくるトラブルメーカーだった。
ヤギが自慢げに藁の下に隠していたのは、村人が丁寧に洗濯して干していたはずの木綿の手ぬぐい、どこからか拾ってきた欠けた茶碗の破片、そして、まだ青くて酸っぱそうな未熟なトマトが数個だった。
「全部外に出さないとダメだよ。明日の朝、村長が血眼で見回りに来るんだから。これが見つかったら、僕、また首輪を締められて……」
言いながら、パラは自分の首筋にある黒い痣――奴隷紋を無意識に押さえた。激痛の記憶がフラッシュバックし、胃の腑がギュッと縮み上がる。村長に「家畜の管理がなっていない」と見なされれば、あの窒息するような痛みを与えられた上に、ただでさえ少ない食事が完全に抜かれてしまうのだ。
パラは恐怖に身をすくませながら、ヤギの集めた「コレクション」を必死に両手で抱え込み、鉄格子の隙間から外の深い草むらへと見えないように放り投げた。
せっかくの宝物を奪われたヤギは、不満そうに「メェー」と低く鳴き、パラのボロボロの上着の裾を角で小突いて抵抗してきた。だが、パラは怒るどころか「めっ、だよ」と小さな声でこぼし、ヤギの泥まみれの頭を優しく撫でて宥めた。
「グワッ……グワァーッ!」
ヤギの片付けが一段落し、パラが安堵の息を吐いた直後、今度は頭上から実になさけない悲鳴が降ってきた。
檻を支える太い横梁の、一番高いところ。そこに、一羽の白いアヒルがへっぴり腰で立ち往生し、ブルブルと小刻みに震えていた。
このアヒルは、水田の虫を食べさせ、泥を掻き回すための「労働力」として飼われている。なぜか高いところへ登りたがる奇妙な癖があるのだが、村人たちに逃亡防止の処置として、風切羽を根元からハサミでパチンと残酷に切り落とされている。そのため、自力では絶対に飛び降りることができないのだ。
「もう、アヒルさんも。登るのはいいけど、一人じゃ降りられないっていつも言ってるじゃないか」
パラは苦笑しながらつま先立ちになり、痛む背筋を伸ばして細い両腕を思い切り上へ突き出した。
そして、梁の上で怯えるアヒルの、ふっくらとした温かいお腹を下からそっと支え込む。アヒルは観念したようにパラの頼りない手に体重を預け、地面へと無事に着地した。床に降りたアヒルは、ホッとしたように「グワッ」と短く鳴き、パラの泥だらけの足首に黄色いクチバシを何度も擦りつけてきた。
道具として酷使されるパラと、交換の品として扱われるヤギ、そして空を飛ぶ羽をもがれたアヒル。
それぞれが誰かの所有物であり、理不尽に虐げられている。この狭く冷たい鉄格子の檻の中だけが、彼らにとって唯一気を許せる、静かで閉ざされた世界のすべてだった。
「ブフォ」
静まり返った檻の中に、再びあの気の抜けた鳴き声が響き渡った。
真ん中で丸くなっていた泥ブタが、のっそりと首を持ち上げたのだ。
瞬間、檻の空気が変わった。
いつもなら、新入りの家畜や、時には世話をしているパラに対してさえ、不機嫌な時は容赦なく頭突きを見舞う気性の荒いヤギが、その泥ブタを見た途端、ピタリと動きを止めたのだ。彼らは極度のストレス環境に置かれているため、常に神経を尖らせているのが普通だった。
ヤギは警戒するように、しかしどこか引き寄せられるように、静かに泥ブタへと歩み寄る。パラは「喧嘩をしちゃうんじゃ」と肝を冷やし、止めに入ろうと身構えた。
だが、そうではなかった。
ヤギは泥ブタの前に来ると、まるで何か神聖なものを確かめるようにフンフンと鼻先を寄せた。そして次の瞬間、驚くほど大人しく、泥ブタの大きな身体の横にちょこんと寄り添うように座り込んだのだ。
「え……?」
それだけではない。先ほどまで高いところから降りられずに震えていたアヒルまでもが、トコトコと短い足で泥ブタに近づいていった。そして、無惨に切られた羽をパタパタと嬉しそうに動かしながら、泥ブタのふかふかとしたお腹のあたりに自分の身体をすっぽりと埋めるようにして丸くなった。
「みんな……もう仲良くなったの?」
パラは目を丸くして、その信じられない光景を見つめた。
家畜たちはお互いを突き合ったり小競り合いをしたりするのが日常茶飯事だった。それなのに、この薄汚れた、ただの重たい泥ブタがやってきた途端、檻の中に不思議な静寂と、波一つない湖畔のような奇妙な安心感が広がっている。
泥ブタは、ヤギとアヒルに両脇を固められながらも、全く気にする様子もなく「ブフォ、ブフォ」と心地よさそうに喉を鳴らしている。
パラはそっとしゃがみ込み、自分のポケットを探った。指先が触れたのは、今日の夕食であり唯一のご褒美――といっても、家畜の餌の残りにわずかな塩を振っただけの、小さなくず芋の破片だった。ひもじさで胃が痙攣している。だが、パラは迷うことなくそれを取り出した。
「これしかないけど……お腹、空いてるよね」
ひび割れた手のひらに載せて差し出すと、泥ブタは器用に鼻先でそれを転がし、一口で美味しそうに平らげた。そして、ザラザラとした泥のついた額を、パラの細い腕に「ありがとう」と言うかのようにそっと擦りつけてきた。
その瞬間、パラは息を呑んだ。
泥だらけのブタの体温は、驚くほど高かったのだ。ただの動物の熱ではない。まるでお日様の光を直接内側に閉じ込めているかのような、優しくて力強い熱。
秋の夜風が吹き込み、いつもは凍えるように冷たいはずの鉄格子の檻の中が、その夜はなぜか、小さなストーブを置いたかのようにじんわりと温かかった。
パラは冷え切った身体を寄せ合い、動物たちの体温にすっぽりと包まれた。奴隷紋の痛みも、明日の労働の恐怖も、この瞬間だけは遠くに霞んでいく。パラは久しぶりに何かに怯えることなく、泥まみれの穏やかな寝息の中で、泥のように深い眠りへと落ちていった




