第一章:泥の道具と、ブフォと鳴く肉塊
「パラ」という名前は、かつてこの大陸で使われていた古い言葉で「土を掘る道具」を意味する。
スコップ、あるいはシャベル。それが彼の名前であり、この村における存在意義のすべてだった。
「おい、パラ! 手が止まってるぞ。日が暮れる前に東の畑の溝を浚っておけ!」
「終わったら共同便所の汲み取りだ。村の財産なんだから、壊れるまでしっかり働けよ」
頭上から降ってくる村人たちの怒声に、パラは言葉を返す代わりに、ただ無言で深く深く頭を下げた。
ひび割れ、泥が擦り込まれて黒ずんだ両手に、もう一度力を込める。
パラには親がいない。温もりをくれた記憶も、優しく名前を呼ばれた記憶もなかった。物心ついた時から、彼は「村の共有財産」として使役されていた。特定の主人がいるわけではない。村人全員が彼の持ち主であり、誰もが彼を便利な「道具」として酷使する権利を持っていた。
「道具」である彼に、まともな食事や休息が与えられることはない。
一日の糧は、家畜の餌の残りカスに、わずかな塩を振っただけの冷え切った麦塊。それすらも、村人たちの機嫌が悪ければ容易く取り上げられた。
逃げ出そうなどという大それた考えは、とうの昔に擦り切れて消えていた。
首筋には、村長が管理する鞭と魔力で繋がった「奴隷紋」が、どす黒い痣のように刻まれている。
村の敷地を囲む古びた防風林、その一定の境界線を越えようとすれば、見えない鋼の首輪が喉を締め上げ、窒息の苦しみでのたうち回ることになる。
かつて一度だけ、飢えに耐えかねて境界線に近づいたとき、パラは世界のすべてが真っ黒に染まるような絶望的な痛みを味わった。あれは、人間が受けていい苦痛ではなかった。
パラの手足は、同年代の子供と比べても痛ましいほどに細く、骨の形が浮き出ている。代わりに、小さな手のひらだけが分厚いタコで覆われ、感覚を失っていた。爪はどれも短く割れ、そこから侵入した泥が皮膚を常に灰色に染めている。
まさに、土を掘るためだけに最適化された、生きた農具そのものだった。
その日の夕暮れも、パラは一人で痩せた畑の土を掘り返していた。
秋の冷たい風が、ボロ切れのような衣服の隙間から容赦なく体温を奪っていく。収穫の終わった芋畑で、地中に残ったわずかなくず芋を、指先の感覚がなくなるまで泥の中から拾い集める作業だ。
クズ芋を見落とせば、今夜の「家畜の残りカス」さえ与えられない。胃の腑がシクシクと悲鳴を上げ、目の前がチカチカと明滅する。それでも、パラの心には怒りも悲しみも湧かなかった。ただ、早くこの作業を終えて、冷たい藁の上が欲しい――それだけだった。
カチリ、と。
指先が、くず芋とは違う、妙に硬くて重い質感の何かに触れた。
最初は、ただの大きな石ころだと思った。しかし、泥を払おうと爪で擦った瞬間、夕闇の迫る畑の隅で、それがほんの一瞬だけ、鈍い黄金色の光を放ったような気がした。
重さは、見た目の倍はある。手のひらに乗せると、凍えるような寒さの中でも、その塊だけはどこか奇妙な、微かな熱を帯びているようだった。
「……これ、なんだろう」
パラの細い呟きは、吹き付ける風にかき消された。
それが何なのか、奴隷の少年が知る由もなかった。価値のある鉱石なのか、あるいはただの珍しい石なのか。だが、そんなものよりも、今にもちぎれそうな身体の節々の痛みと、空腹の方が何倍も切実だった。
「……こんなの、何の役にも立たないや」
パラは、ゴミを捨てるような無関心さで、その黄金色の塊をボロ布のポケットへと押し込んだ。村人に隠れて何かを所有することなど許されないが、なぜかそれをその場に捨てていく気にはなれなかったのだ。
作業を終え、とっぷりと日が暮れた頃、パラは村の最果てにある肥溜めへと足を運んだ。夜の作業である共同便所の汲み取りだ。悪臭が鼻を突き、目に染みる。肥溜めのすぐ横には、パラの寝床である、錆びついた鉄格子の檻がひっそりと佇んでいた。
その時だった。
悪臭の漂う肥溜めの影、どろどろとした泥と汚水が混ざり合う境界に、奇妙な「肉塊」が転がっているのが見えた。
「……ぶた?」
それは、信じられないほど丸々と太った、薄汚れた生き物だった。全身がこってりとした泥に塗れており、毛並みも肌の色も分からない。ただの泥の塊が転がっているようにも見える。息はしているようだが、身動き一つせず、肥溜めの縁でぐったりとしていた。
そして何より奇妙だったのは、その生き物の額に、大きくて硬い「泥の塊」が、まるで頑固な角のようにつびりついていたことだ。
パラは戸惑いながらも、その泥まみれの肉塊に近づいた。
村の家畜なら、こんな場所に放置されているはずがない。どこからか迷い込んできて、肥溜めのぬかるみに足を取られて動けなくなったのだろうか。
放っておけば、夜の冷え込みで凍え死ぬか、あるいは肥溜めに沈んで溺れ死ぬかのどちらかだ。
「道具」であるパラは、他者を助ける余裕などない。自分自身の命の価値さえ、くず芋一つ分にも満たないのだから。
それでも――パラは、その泥ブタの、泥の隙間から覗く小さな瞳と視線が合ってしまった。
その瞳は、怯えるわけでもなく、威嚇するわけでもなく、ただひどく眠たそうに、そしてどこか図太くパラを見つめ返してきたのだ。
「ブフォ」
泥ブタが、緊張感の欠片もない声で、短く鼻を鳴らした。
その瞬間、パラの胸の奥で、いままで感じたことのない奇妙なざわめきが起きた。気がつけば、パラは細い両腕を泥の中に突っ込み、自分の体重よりも遥かに重いその肉塊を、必死になって抱え上げようとしていた。




