2・夜②
「──ところで狩人。ボクらが向かう、その……"ヨウコという女の靴屋"には、あと何日で着くのだ?」
一転して、赤ずきんは尋ねた。
「もしかして、〈陽光の岩窟〉の事を言っているのですか?」
クスリと狩人。
「岩穴の事ですよ。靴屋ではありません。──目的地は、今日明日でつくような場所ではないようですよ」
狩人は畳んでいた地図を広げた。縮尺が大きいもので、〈ベルドモンガロウ〉はすみっこの方に記されている。ぽつりぽつりと町や村と川もあるが、地図の大半は森が占めていた。
「川を渡って〈バードンホール〉手前の道を通り、〈タタンの森〉を抜ければ、目的地へ辿り着く事が出来ます。〈ベルドモンガロウ〉と〈バードンホール〉の中間……現在私達がいるところは、この辺りでしょうか。キロにして、三、四十は歩いたと推測されます。ですから、三日ないし、五日ばかりはかかるでしょうね」
地図に引かれた道を指でなぞりながら赤ずきんに教えた。話に耳を傾けていたハンスは、明日も半日ずっと歩かなければならないんだと知ると、ため息をついた。森の中は危険だという事もあるだろう。だが、自分らで行かずに、今回の仕事をこうして赤ずきんみたいな人達に任せるのは、岩窟に行くまでが大変で、骨が折れるから、という理由も含まれそうだ。
ハンスは改めて旅の辛さを痛感した。
「ばーどんほーる? たたん? なんだかおいしそうな名前だな」
「〈バードンホール〉は町みたいですよ、赤ずきん。地図に太字の書体で名前が記されているあたり、きっと大きいところなんでしょうね」
「町? 町か! ああいうところはたくさん種類が置いてある立派なパン屋があるから、ボクは大好きだ。早く行きたいなあ」
「なりません。〈バードンホール〉は道から少し外れたところにあります。行くならば、仕事が終わった後です」
狩人はすっぱりと断って、赤ずきんの期待をへし折った。赤ずきんは頬をふくらませて、何でだ! とか、行きたい行きたい! だとか、狩人の言い分をまるで聞いていなかったように駄々をこねた。
「〈タタンの森〉に関しては、こちらには有力な情報がありませんね。ハンスくん、あなたは何か聞いてますか?」
「いえ……。僕らがもう少し小さかった頃は、『悪い事をすると、〈タタンの森〉へ連れて行くぞ!』って両親にきつく言われてたんですけど、実際のところは、両親も、村の人達もよく分かってないみたいなんです。昔から子供を躾ける為の脅し文句として使われているんですが、いやに怖いところっていうイメージが強いだけで、具体的な事はさっぱりなんです」
それに加えて、ハンス自身、村を出るのはこれが初めてだった。朝、まだ夜が明け切らないうちに起きて、朝食を食べ、自分の体より大きな牛にエサを与える。それが終わったら、小屋を掃除し、食事を与え、ハンスも昼食をとる。頼まれれば、図書館の番もした。そして日が暮れてくると、叔父さん叔母さんと一緒に夕食をすます。食事を与え、ハンスは早くに床につく。──
これがハンスの日常だった。傍目からすれば、つまらないものだと思うかもしれない。だけれども、ハンスはこれ以上のものを知らなかった。こうして村を離れるまでは、視界いっぱいに木が埋め尽くす事があるんだっていうのを知らなかったし、村や町は、全部真っすぐ一本の道で繋がっていると思っていた。コイの群れが川の中を泳いでる姿だって、初めて見た。
目に飛び込んでくる情報の一つ一つが新鮮で、心の奥底に息づいている悲嘆とは裏腹に、喜んでいる自分がいる。
ハンスは矛盾を抱える自分に腹を立てた。
「脅し文句として使われているのですか……。タタンという言葉には『成長』という意味がありますが、これだけでは何の事やら」
狩人は難しい顔をして、地図をポケットの中に収めた。
「答えが出そうにない事を必死こいてまで考えて、何が楽しいんだよ」
オオカミは口を大きく開けて、最後に残った肉を放り込んだ。
「要は気を抜かなけりゃあいいって事だろうが。簡単なこった。──それよりも、俺としちゃあ、何だって"本を捨てなきゃいけないのか"ってところが気になるな」
オオカミはチラリと荷車に乗った木箱を見た。木箱はたき火の炎の色が届くか否かの場所に置いてあるので、いくつにも張り付けてある札のせいもあってか、少々不気味に見えた。
「ボクはちゃんと話を聞いていたぞ。あの中には、ハンス達が怖がるようなものが入っているのだろう?」
「そういう意味じゃねえよ。俺が言ってんのは、処理方法の事だ。何で塩で清めて燃さない。何で除霊師を呼ばない。実体のない奴が相手なら、そっちの方が穏やかに済むだろ。事情を知らない奴が拾ったら、どうすんだ」
それともう一つ、オオカミが気になっていた点があった。それは、災厄が例の本のせいだと知り得たのはなぜか、という事だった。故人が大事にしていた装飾品や絵画などに念が乗り移り、災いをもたらしているといった噂話が流れてくる事はある。だが本の例は聞いた事がない。仮に事例があったとしても、多くの物品から一冊の本に着目し、原因があると結論付けるのは、途方もなく難しい事だ。
疑問に対して、ハンスは何と答えれば良いか迷った。赤ずきん達は他所から買い取ったものだと見ている。だけど、それは違う。元々はハンス家のものだ。
しかし、ハンスはその事を黙っていた。他人に話すわけにはいかなかった。塩で清めて済む問題じゃない。除霊師を呼ぶ必要もない。事はもっと複雑なのだから……。
「オオカミ、部外者が首を突っ込むのではありませんよ」
狩人が、口を閉ざしているハンスの肩を持った。
「私達はただ、任を果たせば良いのです。事情の委細を知る必要はありません。……それともオオカミは、災いが自分達にも及ぶのではないかと考え、恐れているのですか?」
「んなわけあるか」
オオカミは苦い顔をして言った。狩人はふっと笑うと、ネックレスの飾りを胸に当て、
「大地と実りの神マングブラに感謝を。そして農作に携わりし人々に、この胸の謝意が届きますよう」
と、食後の挨拶を述べた。
「──さて、夜も深まってきましたし、明日に備えて早々に休むとしましょうか」
狩人はキャリーバッグの中から平たい桶を取り出すと、そこに水を入れ、食器類を沈めた。赤ずきんも手伝うよう促す。赤ずきんはたどたどしく狩人のマネをすると、狩人に渡されたタオルを受け取って、ゆすいだ食器を拭いた。
「ええっと? 大地と実りの……?」
初めて聞く挨拶に、必ず言わなければならないのかと思い、自分もマネようと試みるのだが、よく覚えていない。
ハンスはオオカミに救いを求めた。が、「言いたい奴が言ってりゃあいいんだよ」とあしらわれてしまった。仕方なく、ハンスはごく一般的な祈りの仕草をするのだった。
「見張り番はどうしましょうか」
水に濡れた手をタオルで拭きながら、狩人は言った。
「今回はハンスくんが一緒です。せっかくですから、ハンスくんにも任せたいのですが……一人では、万が一獣が襲ってきた際、分が悪いですよね」
「見張り番って?」
てっきり揃って寝るものだと思っていたハンスは、慌てて赤ずきんに聞いた。
「順番こに起きるんだ。一人が番をしている間に、他は寝ておくんだぞ。森は危ないから、誰かが起きてないとな」
いつもは赤ずきん、オオカミ、狩人の順で交代するという。赤ずきんはあっ!と何か思いついたように声を上げた。
「そうだ! ハンスはボクと一緒に番をすればいい! なあ狩人、どうだろう?」
赤ずきんは名案とばかりに興奮して言った。このはしゃぎようは、番をするというより、何か別の目論見がありそうだ。
「……頼まれてくれますか?」
狩人はひかえめな口調で窺う。
ハンスは戸惑いながら頷いた。女の子に守ってもらうなんて、男がすたる──と豪語したいところだが、日中のブルーノーズべアとの対峙で、赤ずきんの方が実力は上だというのは明白だった。情けない話だが、自分よりもずっと頼りになるだろう。
ハンスは赤ずきんに笑いかけた。赤ずきんは喜んだ。
「それじゃあハンス、トランプやろう! トランプ! ボク、持ってるんだ。ババ抜きと、七並べを知っているぞ! それから、この間"しんけんしゅいじゃく"を教えてもらったから、それも出来るぞ!」
「それを言うなら、"神経衰弱"じゃない?」
ハンスはチラッと木箱を見た。
「ババ抜きは二人でやるとすぐ終わっちゃうから、他の二つをやろうか」
赤ずきんが浮かれているのを余所に、狩人はハンスに銀の懐中時計を渡した。何時間後に番を交代するのかを説明して、狩人は眠りにつく準備に取りかかる。オオカミは荷車からマントを引っ張り出し、毛布代わりに纏って、大木に背中を預けた。
ハンスと赤ずきんは、話し合いによってゲームを神経衰弱に決めて、トランプを地面に並べていった。




