大きな危惧
「どういうことなの!? 大魔導師がいないというのは!」
部屋の中に響き渡るのは、サーマンダ公国公女、アレキサンドラの声である。独特の抑揚と高音に、頭の中に銅鑼を持ち込まれて鳴らされているかのような気分になるジェーム。だが、目の前の女性が叫びたくなるのも分かる。この緊急時に、いつもの融通無碍を突き通すとは。
アテナによって背を地面についたフォラムは、修行のために山に、見回りに行ったシレーヌとアルジェンタは、何かしらの手がかりを掴んだのだろうか、アレキサンドラの招集には応じず。そして残るフルールは、目を離した隙に消えてしまっていた。いつもなら、森の動物と戯れていたり、薬草を摘んでいたりするのであるが、呼びかけに答えないのは、些か心配である。
「まぁ、余程のことがなければ、大丈夫だとは思いますが」
「その余程が心配なのよ……」
アレキサンドラは、そう言って手元の紙の束を捲る。この世界におけるマナの脈動の周期や、儀式に関わる気候、天体の動きを記したそれは、俗に魔術暦と呼ばれている。
「分かっているとは思うけど、ジェーム、明日の夜は……」
「月蝕ですね、御婆様」
アレキサンドラの手が、赤い円の描かれたページで止まった。皆既月蝕の発生を示す記号である。古来より、天体の異変と魔術は強いつながりを持っていた。中でも月蝕の間に行われた魔法は、向こう千一年に渡って効力を発揮するという伝承がある。カリスが起こした行動が、何らかの魔術儀式のために他ならない以上、月蝕の夜を目標とする可能性は、大いにあるはずである。
「恐らく、襲撃と、それに伴う誘拐は、術式の核を手中に収めるためだったのでしょう。目的は分かりませんが……」
カリスは過去にも、サーマンダ公国を始めとした白魔術系の勢力に対して、攻撃を仕掛けてきていた。しかし、その目的は同様でも、方法はかなりばらつきがあり、未然に防ぐことは困難である。事態が起こってから行動したために、間に合わなかったことも、敵の思惑を先読みした結果あてが外れて、被害が拡大したこともあった。兎にも角にも、迂闊に動くことはできないのだ。
「それと、気になることが一つ」
「ま、まだあるの……?」
ジェームは、自身の持つ懸念を口にするかどうか、非常に迷った。いたずらに不安を煽るようなことを言って、アレキサンドラが冷静な判断力を失いでもしたらば、それはそのまま、自分たちの危機にもつながる。だが、もし嫌な予感が当たってしまえば、最悪の場合、サーマンダ公国が滅びかねない。意を決して、ジェームは口を開いた。
「ワルハラ鉄道の駅からここまで来る途中、ヒカルが、鹿を見たと言っていました」
「…………ッ!? 鹿、あの鹿なの!?」
アレキサンドラが身体を大きく震わせたのは、ジェームから見てもよく分かった。彼女が取り乱すのもやむなし、サーマンダ公国を取り囲むこの森に、鹿は生息していないはずである。いや、ある時期から消えたというのが正しいか。もし、いないはずの鹿がいたとするならば、それは――。
がたん、と何かが倒れる音がして、黙考に浸っていたジェームは、はたと顔を上げた。机越しに見えていたアレキサンドラの姿がない。そう、あまりの衝撃に、椅子ごと倒れたのだ。
「御婆様!? 大丈夫ですか……?」
心配し、身体を抱き起こそうとするジェームをよそに、アレキサンドラはうわ言のように呟く。
「災厄、終わった……、何もかもが……」
(やはり、正気ではいられなかったのだわ……)
無理もない。それ程に、ジェームが包み隠していたこの情報の与える衝撃は大きかった。かつて、このサーマンダ公国に生まれながら、その力の強さ故に千尋の谷に捨て去られた『怪物』が一匹いた。この事実を知っている人間は、サーマンダ公と、その配下の大魔導師など、両手分程しかいない。もし、それが生きていたとしたらば、確実にサーマンダ公国に対して恨みを持っているはずである。
「まだ、決まった訳ではありませんし、それに、もしかしたらカリスと潰し合ってくれるかもしれないですし……」
あの怪物が戻ってきた、この可能性が正しければ、サーマンダ公国は、二つの敵と戦わねばならないことになる。しかし、あくまで白と黒、相反する二つの性質、互いが害を及ぼし合う存在。もし、それらがサーマンダ公国を標的に定めたとしたら、利権を争って戦うはず。三つ巴の戦況ともなれば、サーマンダの戦力がもっとも高い。
しかし、両者の目的が違っていて、なおかつ両立できるものであれば、合理的に考えれば両者は、多少の反動を無視して連帯するであろう。可能性は限りなく少ないものの、もしそうなってしまえば、サーマンダ公国側は圧倒的に不利になる。
だから、ジェームの口にした言葉は、気休めにしかならない。とはいえ、アレキサンドラがこのままの状態では、来たる戦いには勝てる訳もないのである。
「どうにかしましょう、御婆様。きっと私たちなら、勝てるはずです」
目の前で絶望に打ちひしがれるアレキサンドラに、そして自分自身にも言い聞かせるように、ジェームは力強く言った。




