物語は始まらない
宮殿の外は、嵐の中のような惨状であった。上空から、次々と放たれる火炎に、住民が逃げ惑っている。アレキサンドラや大魔導師、それにいくらかの魔法使いが応戦しているが、素早く飛行する者たちに、その攻撃はほぼ当たっていない。当たる軌道に乗った光弾も、彼らの出した盾に弾かれてしまう。
魔術立国であるサーマンダ公国の精鋭が、僅か十数人の黒装束の男たちに弄ばれている。その光景を見たヒカルは、改めて黒魔術の強力さを思い知らされた。
マルクも宮殿を出てから、いくらかの時間が経ち、流石のジェームにも不安が芽生えた。
「まずいわね……。フルール、二人をお願いできるかしら」
援護に向かおうとするジェーム、その袖を、フルールが引き止めた。振り払おうにも、幼げな少女の姿に見合わない力で掴まれていて、叶わなかった。
「駄目だよ、御婆様に、命令されたんだから……」
「貴女…………」
ジェームは、フルールの真剣な眼に気圧された。そして、その行動の正しさを証明するかのように、空中の一団は、しばらく暴れ回ったかと思うと、いきなり踵を返して去っていったのだった。
「ふぅ、久し振りにいい汗かいたわぁ」
「……御婆様、また太られましたね」
「それ、僕も思った」
「間違いないです!」
どやどやと声を上げながら、サーマンダ公女と大魔導師たちが部屋に入ってくる。各々が、自由に戦いの感想を語り、まるで秩序というものがなかった。中断していた話の続きが聞きたかったヒカルは、ひたすらにその会話に耳を傾け、そして割り込む隙間を見計らっていた。
だが、その機はいつまで経っても訪れず、ジェームが会話を遮るまで、ヒカルの意識は宙吊りの状態であった。
「御婆様方、もうお話はよろしいでしょうか」
ジェームの呼びかけで、やっと気づいたという風で、アレキサンドラは、あらあら、と困ったような音声を発した。
「そうねぇ……、えぇ、今度こそ、ちゃんとお聞かせしましょう」
皆の注目を浴びながら、アレキサンドラは再び古びた本に手をかける。表紙をめくり、白と黒とで描かれた扉をめくり、序文に入らんとする――。
「いや、度々すみませんね、失礼しますよ」
しかし、その言葉を遮るように、部屋のドアが開き、マルクが乱入してくる。先程のカリスの襲撃といい、この男といい、何故自分の大事な話を遮るのかと、不快感をあらわにしたアレキサンドラは、語気を強めて、闖入者に何があったのかを問い質した。
「いやね、何か女の子がいなくなったって騒ぎになってるんで、ひょっとしたら連れ去られたんじゃないかと。貴女たちに知らせた方がいいかなと思いましてね」
その言葉を聞いた、サーマンダ公女と大魔導師たちの表情に、急迫の色が射す。どうやら彼女たちの中で、少女の連れ去りとカリスの襲撃が、何らかの意味を持って繋がったということらしかった。アレキサンドラは、焦りを隠し切れない様子であったものの、申し訳なさそうに、ヒカルとアテナに向き直った。
「ごめんなさいね、本当に。この話は、誘拐が解決したらゆっくり語って聞かせますから……」
そう断った後で、彼女は配下の大魔導師たちに、矢継ぎ早に指示を出し始める。そのあまりの勢いに、圧倒されていたマルクは、しかしはっと気づいて、誤謬を正そうと声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってくれよおばさん、誘拐と決まった訳じゃないんだぞ。もっとこう、可能性を確かめてだな……」
「黙らっしゃい! カリスが私たちの国を襲撃した理由は、これ以外にあり得ませんよ。手遅れにならない内に、さぁ、早く! 行きなさい!」
その緊急性は、どうやら彼女たちの中で共有されているものであったらしい。五人の大魔導師は、短く返事をした後、すぐに散開していった。後には、頭を抱えるアレキサンドラと、事情を飲み込むことができない、ヒカル、アテナ、マルクが残された。
「一体どういうことなんですか。カリスって黒魔術の秘密組織なんですよね、何で誘拐なんて……」
「あのさ、ヒカル、もしかして人身供儀なんじゃ……」
困惑する中、手探りで言葉を発していたヒカルに、アテナが囁く。彼女の口から、人身供儀という単語が出てきたことには少々驚きはしたが、確かにその可能性はあり得る。強力な黒魔術の儀式には相応の犠牲がつきものだということは、何度も聞かされてきたし、第一、先の王都で起きた事件では、六人の人間、いずれも意識は未だに戻らぬままであるが、それが術式に組み込まれていたのである。あれも一種の人身御供、生贄ということになるのであろう。いくら収拾がついていなかったとはいえ、ヒカルは自分の思考力の乏しさを恥じた。
アテナの発言に頷いたアレキサンドラは、ゆっくりと腰かけていた椅子から立ち上がり、室内をうろつき始めた。そして、ある一冊の本の前で立ち止まると、その本を引っ張り出してきて、机の上に広げた。そうして、三人の顔を見回して、意を決したように切り出した。
「今、サーマンダ公国は、恐らく危急存亡の秋を迎えています。私は、先程見せた、世界の神話を今に伝える書物を守らねばならない義務があります。しかし、大魔導師たちも言っていた通り、私の魔法の腕も落ちてしまいました。もし、この国に危機が迫ったとして、貴方たちは、共に戦ってくれますか……?」
サーマンダ公国を統べる権力者が、祈るような目で見つめてくる。ヒカルとアテナは、どうしたものかと顔を見合わせた。




