黎明の書
一行が招き入れられたサーマンダ宮殿の最上段にある石造りの半球の中は、窓がないのにも関わらず、明るい光に満たされていた。部屋の内周からは五本の木製の柱が生え出ており、その間には大量の魔導書が収蔵されている。半球の天井には天球図が描かれ、それぞれの星が僅かにではあるが動いている。
超常的な空間、その中心にある机のところに、二人の人間がいる。一人は、恰幅のいい、優しげな中年の女性。そしてもう一人は、薄い水色の髪を流した、気だるげな目の若い女性である。その身なりから察するに、前者が公国の統治者であるサーマンダ公、後者が五人目の大魔導師なのだろう。
来客に気づいたサーマンダ公は、椅子からゆっくりと立ち上がり、その巨体を揺らしながら歩み寄ってきた。
「あらあら、わざわざこんな辺境にまで来てくださって……。はじめましてお二人とも。私がサーマンダ公国公女の、アレキサンドラよ。よろしくねぇ」
公女、アレキサンドラは、小さな目をキュッと細めて、人懐っこい笑みを浮かべたのだった。その表情からは、誰にでも分け隔てなく、愛情を持って接する懐の深さを感じる。初対面の人の観察を常とするヒカルは、この人柄のよさそうな淑女から、悪意や邪気といった類いの感情を感知することができなかった。
一方、アレキサンドラの傍らに侍る人物は、素っ気なく名前だけを伝えた。彼女は、名をシレーヌという。そのよそよそしい他人行儀な態度は、敵意というより、自己紹介という作業を、単に面倒に思っているというような印象であった。
「ほらほら、貴女もちゃんと挨拶なさいな」
「…………まぁ、御婆様がそういうなら……。よろしく……」
どうやら大魔導師たちが度々口にしてきた御婆様というのは、アレキサンドラを指すらしかった。しかし、このシレーヌの、いかにも興味のないといった風な言動は、ヒカルの怒りの琴線に触れかけたが、彼はぐっとこらえた。
「それで、御婆様。この子たちにあの話をなさるんですよね?」
意を決したように、そう尋ねるジェームに、アレキサンドラは真剣な表情でもって応えた。先程の柔和な表情は消え、彼女の口角が結ばれる。その緊張は、ヒカルやアテナにも伝播していった。
「それしかないでしょう、時がきたのですからねぇ……」
やや諦念を孕んだ言葉の響き。アレキサンドラは、一同を取り囲む魔導書の群の中から、黒ずんだ木の箱を取り出した。その傷み様は、箱が計り知れない程に長い歴史を旅してきたのだということを意味していた。
箱の中には、また箱があり、その箱の中にも別の箱があるというように、箱は厳重に密閉されていた。幾度もそれを繰り返したアレキサンドラは、力を込めて、一番小さい箱の蓋を開けた。
その中には、ところどころに破れたり、黄変した跡がある、古びた一冊の本があった。中身は手書きで書かれているようで、インクの文字はかすれたり、震えたりと、一目見ただけでは到底読めないものであった。何か、黒魔術のような良からぬものではあるまいかと、ヒカルは勘ぐった。
「それは……」
アテナの疑問には、アレキサンドラが直接答えた。
「これは、『黎明の書』。隠された神話、知られてはいけない物語、原初の炎が燈されてから吹き消されてしまうまでを描いた実録……」
神話、ヒカルにとっては馴染みのない言葉だ。というのも、倭国にもワルハラにも、神の子孫とされる皇帝や国王がいる。しかし、それらの始祖が生きたのであろう、神代に関する伝承はほとんどない。いきなり王室の『歴史』が始まり、現在まで興亡を繰り返しながら、連綿とそれが受け継がれてきている。それに違和感を感じたことはなかったが、確かに神に等しいと形容される王族がいながら、その神がいないのはおかしい。
「じゃあ、その本には、皇帝や王の祖先の根源が書かれているってことですか?」
ヒカルもアテナも、状況を飲み込むので精一杯であった。ワルハラを始め、世界の人間のほとんどが知らないであろうこと、常識を根底から覆してしまうような、人々の精神の木を掘り起こしてしまうようなことが、目の前で起きているのだから、それも仕方ないことだった。
そして、アレキサンドラの次の一言は、二人をさらに喫驚させた。
「それどころじゃないわぁ。貴方たちが巻き込まれた失踪事件、その解決への糸口になるようなことが、ここには記されているのよ」
「な、何で……」
その一切が謎に包まれた失踪事件。ヨハンの故郷での失踪事件は、実地調査こそできなかったものの、その資料は、二人で穴が開く程に調べ上げた。しかし、有力な手がかりは見つからず、ただただ、一夜にして人々が消えたということが分かっただけであった。その謎の真相の端緒が、そこに書き下されているという――。
「何でそんな大事な情報を、今まで隠していたんですか!? それがあったら、助かった人もいたはずなのに!」
ヒカルの心情を、アテナが代弁してくれた。だが、アレキサンドラは、自分も、できればそうしたかったのだが、と前置きしてから、おずおずと語り始めた。
「これは禁忌なの。これが外部に漏れ出せば、確実にあの者たちに狙われるでしょうし。貴方たちに話すのも、本当は避けるべきなのですけれども……」
アレキサンドラも恐れる何か、魔術立国の統治者すらも脅かすその正体に、ヒカルは心当たりがあった。その、耳慣れない単語を、舌の上に乗せかけたとき、いきなり扉が開いた。
「邪魔してゴメン、御婆様。カリスの襲撃だ!!」
扉を開けた人物、顔中に汗をかいた大魔導師のアルジェンタは、逼迫した表情で、そう告げたのだった。




