赤と黒
背後から、民衆たちのざわめきが聞こえる。無理もない、ワルハラ帝国の皇帝であるイヴァンが、突然現れたのだから。普段は公の場には滅多に姿を現さない彼の登場は、民衆にとっては未曽有の非常事態が訪れたことと同義であった。民衆は、今まで王都で流れていた恐ろしい噂が、現実のものであったと確信しただろう。その後に待ち受けるのは、恐慌、混乱である。その無秩序を抱えながら戦うことはできないと知っていたイヴァンは、ゆっくりと民衆に向き直った。
「皆も知っての通り、ここ数日の間、王都で失踪事件が起きていた。その首謀者による魔術儀式によって、王都は今、事実上外界と隔離された」
王都を取り囲む煙に触れれば、マナの循環に異常を来たし、最悪の場合死に至るであろうという報告は、既になされていた。自分たちは死ぬのかという恐怖が、民衆に蔓延していく……。
「しかし、恐れるなッ!!」
イヴァンの叫びに、民衆はびくりと肩を震わせた。そうして静かになった広場に向かって、イヴァンは声高々に演説する。
「この僕が、君たちのただの一人も殺させないと保証する。必ず黒魔術師の首を上げ、この艱難を乗り越えること、ワルハラのさらなる進展を約束しよう」
民衆の恐怖は、ほぼ完全に拭われた。代わりにイヴァンという男に対する巨大な期待が現出する。これで民衆は、自分たちの置かれた状況をしばしの間忘れることができる、白昼夢の中に誘われた。イヴァンのすべきことは、人々が夢から覚めない内に、黒魔術師を倒すことである。麻酔の効いている内に、病巣を摘出するために、イヴァンは剣を握り締めた。
「……さて、現れたかな」
イヴァンの言葉が聞こえたのか、城壁に沿うように、黒い人影がするすると上ってくる。
この男が黒魔術師か、イヴァンは黒いローブを纏った怪人物を睨めつけた。その様子を嘲笑うかのように、黒魔術師はゆらゆらと上空に浮かび上がる。否、霊のような半透明の何かに、身体を支えられて浮き上がっているのだ。
「さて、君が一連の事件の黒幕ということなんだね。一体何が目的なんだい、僕を殺すことかい?」
イヴァンの問いかけを、まるで聞こえていないかのように、黒魔術師は訥々と語り始める。掠れた小さな声が、煙の絡んだ風に攫われていく。
「――――の名の元に、――に溺れる迷い子に救いを、強欲なる子羊に裁きを与えん――」
ぶつぶつと呪文のように唱えられる言葉を捉えたイヴァンは、一連の事件の裏にある思惑が見えてきたのを感じた。
「裁き、か……。何となく、君が考えていることが分かってきたよ」
王宮は、大魔導師の作り出した結界によって守られている。とはいえ、煙の特性、つまり、魔力を放つものに反応して、そのマナを奪い取る特性によって、結界はいつ食い破られてもおかしくはない。ともすれば、煙が結界に触れる前に、消してしまえばいいのだ。煙を払う方法は、魔力を纏った武器を振るう以外にもある。その一つが、大量の魔力を用いて負荷をかけることで、術式に逆行し、破壊するというもの。テロメアの聖杯による浄化を模倣する、最も単純な手段である。
「覚悟してもらおうか」
イヴァンが手を上げると、空を揺るがすような轟音が響き、直後、彼の目の前に光の柱が出現する。天空から撃ち落とされたそれは、軌道上の煙を全て、マナに還元していく。それはまるで雷のようで……。これこそが、イヴァンの能力、『雷霆』である。ほぼ無作為に落とされる膨大な魔力を伴った光の柱は、全てを焼き尽くす威力である。
しかし、それを目の前にしても、黒魔術師の表情は変わらなかった。まるで、自身の筋書き通りに計画が進行しているのだと示すような、岩のように固いものであった。それが、イヴァンの癪に触った。
「いいねぇその顔! 崩したくて仕方ないなぁ!」
力任せに放つ雷撃は、王都の閉ざされた空気を裂き切った。巨大な光の柱が、煙でできた天井に穴を開けては、それを黒魔術師が塞ぐという、一進一退の攻防が始まった。
凄まじい轟音に、通りを南下するヒカルは思わず足を止めて振り向いた。額に当たっては砕ける風に、戦闘の始まりを告げられる。きっと、皇帝が黒魔術師と遭遇したんだろう、と、横を歩くオーエンは述べた。
「おかげで黒魔術師の注意はこちらから逸れています、今の内に……」
ヒカルの腕を計った細剣を携えたハルシュタインが、近づいてくる煙を振り払う。大魔導師による術式が織り込まれた剣は、煙をすぐに五色のマナへと還元していく。効果は一時的かつ限定的ではあるが、目的の達成には十分である。
「この先だね、その聖杯があるっていう噴水は。騎士団員たちを先行させてるから、道の途中で阻まれることはないだろうけど……」
オーエンの目線の先には、白い隊服を着た騎士団員が、ヒカルたちの露払いをしている。おかげで魔力の消費も少なく、一行は順調に噴水を目指していく――。
しかし、とんとん拍子に進んだのもこれまでであった。黒魔術師の術式は、既に王都全体に張り巡らされていたのであった。




