形あるものは
それは突然の出来事であった。波が打ち寄せるように、地震が大地を貫くように。吹き抜けるような衝撃波と共に電撃のように体を走り回る、何か。何が、と問う間を与えられず、建物も人影も消え、空が見え、城門が見えた時、自分は崩れ落ちる途中なのだと、遅れて理解した。
「危ないッ!!」
誰かの声がする。霞んでよく見えない視界に、フェードアウトしていく視界に、動く影が一つ。全てを失う寸前に見えたその人物に、今、抱きかかえられたことだけは理解している。しかし、それを裏づける感覚がない。すぐ側にある顔を捉えるはずの視覚が、心配の声を認識するはずの聴覚が、駆けだした人が振り絞った汗を感じる嗅覚が、掠れた口内の血の鉄を流し込む味覚が、何より体の温かみを伝える触覚がない。何もない、真っ暗闇か、否、脳内に至るまでの黄金世界である。上も下も、前後左右もない世界に、ぽつんと佇む人影。
「――ぁ」
「アテナッ!! 大丈夫か!?」
突然に解放されたアテナは、視界の眩しさに目を細めた。その拍子に、眦に溜まった涙がこぼれていく。その行きつく先は、彼女を抱く少年の腕だ。腕を辿れば行きつく顔では、真剣な眼差しの中に、後悔と不安とが同居している。
「ヒカル……、私……」
「無理しすぎたんだ……。ごめん、俺がもっとしっかりしてれば……」
「ホントさぁ、私を投げ出すなんていい度胸してるわよね。もっとしっかりしてよ!」
眉間にしわを寄せて、うつむいたヒカルを小突くのは、彼の足元に直立した人形である。ヒカルは慌てて目線を下げ、ごめん、と返した。
「皆で仲良くわちゃわちゃしているところ申し訳ないんだけどさ。……アテナちゃん、大丈夫?」
そう言って声をかけてくるリリアンは、何もただ静観していた訳ではない。アテナが動きを止めた黄金の一団が、再び野に解き放たれないかと警戒していたのである。どうやらアテナが現出させた盾は、一切の綻びなく、そこに立ち続けているらしい。
心配そうなリリアンに、乙女は弱く笑って見せた。
「平気です。……ちょっと立ち眩みしただけで」
そうは言うものの、体の芯に残るような、あのグロテスクな麻痺の感覚は、もう消しようがない。体が、覚えてしまったのである。五感を失い、扉のない牢獄に閉じ込められるような、あの感覚。まさしくそれは、黄金によって監禁されているようで――。
アテナが俯いて、何かを思案しているのは、ヒカルにはよく分かった。彼女が憔悴し、十全の状態ではない今、自分が立たねば、という思いが、真っすぐにヒカルを突き動かしていた。
「リリアンさん、アテナをよろしくお願いします」
「――ッ!? ま、待って、ヒカル!! ……私は大丈夫だから、私も一緒に」
「駄目だ」
必死の叫びも、鎧袖一触に砕かれ、少年の心には届かない。そう悟ったアテナは、倒れる時に同等な、いやむしろ、より大きいショックを受けたようであった。そのまま茫然とするアテナの頭は、ヒカルの胸からリリアンへと移されていく。
「リリアンさん。あの金の軍団は、要は裁き人の能力で動いているってことですよね」
「……そうだよ。でも、君一人で何ができる?」
「――形あるものは、いつかはなくなる、必ず壊れる」
ぽつりと呟いた、その少年の真意を理解できず、当惑するリリアンに、ヒカルは続ける。
「じっちゃんの教えです。それに形さえあれば、断ち切ることはできると……」
リリアンは絶句した。訳の分からない理論を述べ立てるこの男は、最早この戦いから降りたのかとさえ思えたからだ。片や刀、片や能力によって生み出された、不可視性の傀儡糸なのである。接続と離散を繰り返す糸を断ち切ることなど、不可能といっても差し支えないであろう。
「ヒカル君、悪いことはいわないけど……」
そう言いかけたリリアンは、自分の袖口を、アテナが強く握っていることに気づいた。口には出さないが、何かを必死に訴えかけてくる。雄弁な瞳が、二択を突きつける。行かせてあげて欲しい、ここにいて欲しい。果たしてどちらが望まれるのか。この少女は、王都は、皇帝は、裁き人は、世界は、節理は、運命は、自分は――。
「…………分かった、くれぐれも無茶するなよ。何かあったら、私を頼ってくれ」
「ありがとうございます……!」
結ばれた口元が、一瞬の緩みに温まったが、すぐにヒカルは、鋭利な表装を被り直してしまった。靴を履き直し、刀を一度納める。そして、深呼吸を一つ。
「アンタ、私も一緒に行っていいでしょ?」
そんなヒカルに、横から、もとい下から声をかける者がいる。偶然の飛来によって合流した、人形使い、メリアの分身にして、戦う人形、ロロである。彼女もまた、黄金に対する対抗術式を有していた。
「構わないけど……、メリアさんはどうしたんだ?」
ヒカルの問いかけに、ロロの表情が曇った。文字通りの暗転に、ヒカルの脳裏に嫌な想像がよぎる。そういえば、メリアは対抗術式の書入れを、自分が魔法を使えないからと拒否していたが、まさか――。
「もしかして、何かあったのか……?」
「……それを聞くのは、今じゃないとダメなの? できれば私が止まっちゃうまで話したくないんだけど」
そう言う人形の目は、ガラス玉であることを差し引いても、冷たいものであった。血の通わない肩乗りの幼女は、何よりも残酷な目で、これ以上の詮索を拒んでいた。




