第92話 問題は、そのすぐ隣だ
その頃、キュルは授業をサボっていた。
学院の中庭。木陰と日向の境目に寝転がり、両手を頭の後ろで組んで空を眺めている。年頃の女子としては少々あられもないくつろぎ方だったが、本人はまるで気にしていなかった。
定期考査は終わった。エリルのおかげで、少なくとも自分ではほぼ完璧にできたと思っている。
なら、頑張った者には休む権利がある。授業を1つくらい抜けたところで、きっと罰は当たらない。
キュルはそう結論づけ、流れていく雲をぼんやりと目で追った。
白い塊が風に押され、少しずつ形を変えていく。
そのうちの1つが妙な具合に歪んだのを見て、なぜかエリルの怒った顔が頭に浮かんだ。
「…………」
もし今、授業を抜けてこんなところで寝ているのを見つかったら。
想像しただけで、背筋に冷たいものが走る。
キュルは上半身だけ起こし、念のため辺りを見回した。
当然、エリルの姿はない。
「……よかった」
小さく呟いて、もう1度寝転がろうとした。
その時、視界の端を誰かが横切った。
どこかで会ったような気がする男子生徒だった。だが、どこだったかまでは思い出せない。
何枚かの紙を手にし、険しい顔でその内容を確かめながら歩いている。時折、周囲まで気にしていて、妙に落ち着きがない。
「……あやしい」
一瞬そう思ったが、わざわざ追いかけるほどの興味は湧かず、キュルは再び目を閉じた。
怪しいと評された当のセドリックは、実際、ここ数日ある疑念に頭を占められていた。
頭にあるのは、やはりキツキのことだ。
以前調べた入学試験の結果だけでも不自然な点は多かった。それからさらに入学以前の経歴を探ってみたが、目立ったものはほとんど出てこない。
それどころか、調べれば調べるほど空白ばかりが増えていく。
そこでセドリックは、今度はダンジョン実習についても話を集めていた。
キツキを含む5人の生徒が実習中に一時行方不明となり、帰還した時には複数人が負傷していたという。
そこまでは、いくつもの話が一致している。
だが、肝心の中身が分からない。
何が起き、キツキがどう帰還に貢献したのか。実習に参加した生徒や、その周囲から話を聞いても、核心に近づくほど曖昧になっていく。
それなのに、レニアはキツキがいなければ帰還できなかったという趣旨のことまで口にしている。
セドリックは手元の紙を見下ろした。
おかしな点なら、いくつもある。だが、どれも疑う理由にはなっても、不正を示す証拠にはならない。
何もないのなら、自分の見立てが間違っていたのか。そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
けれど、セドリックには逆に思えた。
これだけ調べても何も出てこないこと自体が、おかしいのではないか。
出身も分からない。異質な結果ばかりを残す。それでいて、その背景に繋がるものだけが見つからない。
これほどのことを、キツキ1人で隠し通せるものなのだろうか。
(もし、背後に誰かいるとしたら……?)
素性も知れない人間が第三王女のすぐそばにいる。それを、何も分からないまま見過ごしていいわけがない。
そう考えれば、レニアの態度にも説明がつく。
第三王女である彼女が、自ら進んで素性の知れない男をあれほど庇うとは、セドリックにはどうしても思えなかった。
何者かから圧力をかけられているのではないか。
あるいは、何か弱みを握られているのではないか。
そう考えれば考えるほど、胸の奥に怒りが込み上げてきた。
もし本当にそうなら、許せるはずがない。
何も知らずに見過ごすなど、できるはずもなかった。
だが、怒りに身を任せたところで証拠が増えるわけではない。
ただ、もう1つ、近いうちに結果が出るものがあった。
今回の定期考査で出された最終問題。
七環術式。
長く未解決とされてきた問題が、なぜ考査に出されたのか。それだけでも1年生の間では十分な話題になっていた。
結果はまだ発表されていない。
だが、もしもキツキがあの問題でも異常な結果を残していたなら。
セドリックは手元の紙を握り直した。
疑う材料なら、もう十分すぎるほどある。それがさらに増えたところで、証拠になるわけではない。
足りないのは、決定的な何かだ。
そして、学院の中だけを探っていても、これ以上は進まない。
なら――。
◇
「一度、見せてもらえるかしら」
キツキはすぐに頷いた。
「ああ。……あ、でもノート、部屋なんだよな」
「……そう」
返事が、ほんの少しだけ遅れた。
キツキもその間には気づいたが、特に深く考えず、教室とは反対の方向へ視線を向けた。
「取ってくるよ。そんなにかからないと思うし」
「……なら、ノートは後でいいわ」
「え?」
思わずレニアを見る。
「見たいんじゃなかったのか?」
レニアはすぐには答えず、ほんの一瞬、言葉に詰まった。
「……別に、今すぐでなくてもいいでしょう」
キツキは思わず首を傾げた。
ついさっきまで自分から見せてほしいと言っていたのに、ずいぶん急な話だった。
けれどレニアは、それ以上ノートには触れず、何か別の話題を探すようにわずかに視線を動かした。
「それより――」
その時だった。
レニアの足元に、なにか柔らかいものが触れた。
「……ホンペク?」
視線を落とすと、白い毛並みの獣がいつの間にかそこにいた。
キツキも目を見開く。
「お前、どこにいたんだ?」
ホンペクは答えず、2人を順に見上げた。
それから当然のように2人の間に入り込むと、レニアの靴に前脚をぺたりと置いた。
その一方で、キツキの足には後ろ脚をぽすっと蹴りつけた。
前脚をレニアへ、後ろ脚をキツキへ伸ばしたその姿勢は、さながらツイスターゲームをする中型犬のようだった。
「……お前、何やってんだ?」
呆れたように言ってから、キツキはふと眉を寄せた。
(いや、待て。)
この流れには覚えがある。
前にも、こいつにこうして触れられた直後、ろくなことにならなかった。
「……おい、まさかお前――」
「え?」
珍しく間の抜けた声を漏らしたレニアが、目を丸くする。
その姿が見えた次の瞬間、ふっと足元が抜けるような浮遊感に襲われ、視界が切り替わった。
目に入ったのは、見慣れた机だった。
その上には、今朝まで眺めていたノートが置かれている。
(……どう見ても、俺の部屋だ。)
目的のノートは、確かに目の前にあった。
それはいい。問題は、そのすぐ隣だ。
視線を向けると、突然のことにまだ目を見開いていたレニアと、ぱちりと目が合った。
レニアがいる。
俺の部屋に。




