第90話 誰かに聞いてほしかった
翌朝、エリルが教室へ向かっていると、廊下の先にレニアの姿が見えた。
彼女もこちらに気づいたらしい。足を止めることはなかったが、その歩みは少しだけ緩んだ。
「エリル」
「おはよ、レニア姫」
「……昨日のことだけれど」
近くまで来たレニアの顔には、普段なら化粧やら何やらで隠しているはずの疲れが残っていた。背筋こそいつも通り伸びているが、それだけだった。
いつもなら軽口の1つくらい挟んでいたかもしれないが、エリルは黙って続きを待った。
レニアは一拍置いて、わずかに視線を落とした。
「助かったわ」
短い言葉だった。
感謝を伝えるような顔には、とても見えなかったが、その顔を見ればレニアがどんな結論を出したのかはおおよそ分かった。
「……どういたしまして」
エリルもそれだけ返した。からかう気にはならなかった。
レニアは小さく頷くと、そのまま廊下を歩いていった。
いつものように真っ直ぐ前を向いている。それでも、遠ざかっていく背中はいつもよりずっと重く見えた。
その背中を目で追いながら、エリルは自分の知る流れを思い返す。
レニアがモニカ・ソラリーの研究を知るのは、本来ならプライムフォーラムの直前だった。準備もほとんど終わり、周囲にも発表を知られ始めた頃になって、ようやく先行研究が明らかになった。
その先で、レニアもモニカも悲惨な結末を迎えていた。
だから、今この段階で知ったことは、少なくともあのときよりはいい方向に働くはずだ。
ただ、その現実を受け止めて、レニアが立ち上がれるかどうかまでは、エリルにも分からない。
廊下の先へ消えていったレニアを見送り、エリルは小さく息を吐いた。
ここまでの出来事はすでに、エリルの知る流れから大きく外れている。なら、この先が少しでもいい方向へ変わってくれることを、今は期待するしかなかった。
◇
第1回定期学科考査が終わって、2日。
キツキの生活には、ようやく少しだけ余裕が戻っていた。
考査勉強の合間に殴り書きしていた杖の記録も整理した。
内部の構造がどう組み合わさって働いているのかは、少しずつ見えてきた。だが、それを今ある技術でどう形にするのかとなると、さっぱり分からない。
結局、ここから先はメガネを頼ってどうにかなる問題でもなさそうだった。
「……やっぱ、知識が足りないよなあ」
今朝も同じ結論に辿り着き、キツキはノートを閉じた。
考査前よりは確実に進んでいる。焦る必要はない。今日も授業を受けて、放課後に鍛錬して、そのあとまた考えればいい。
そんなことを考えながら教室へ向かっている途中で、キツキは廊下の先を歩いている銀髪に気づいた。
レニアだ。
その姿が目に入った瞬間、さっきまで考えていた杖のことが頭から吹き飛んだ。
代わりに浮かんだのは、レニアの部屋に突然現れたあの一件だった。
あれから何日も経ち、何度か顔を合わせているのに、まだちゃんと謝れていない。
考査も終わった。もう勉強を言い訳にはできない。
なにより、このままレニアとまともに話せないのは嫌だった。
キツキは1度息を吐き、歩幅を広げた。
「レニア」
呼びかけると、レニアが振り返った。
「……何?」
返事は少し遅かった。まだ怒っているのだろうか。
考えてみれば当然かもしれない。レニアの部屋なんていう、完全にプライベートな場所にいきなり現れたのだ。
「その、この前のことなんだけど」
レニアの赤い瞳がこちらを向いた。
「部屋にいきなり入って、その……ちゃんと説明もできないままで悪かった。あれから、ちゃんと謝れてなかったし」
「……別にいいわ。そんなに気にしていないから」
「え」
もっと何か言われると思っていた。けれど、レニアの声には怒っているような響きがほとんどない。
それなら安心していいはずなのに、なぜかそういう感じもしなかった。
改めて見ると、いつもより少しだけ目元が重そうに見える。立ち方も崩れてはいないが、普段のような張りがなかった。
「……なんかあったか?」
「なにもないわ」
返事は早かった。
「いや、その顔で言われても」
レニアの眉がわずかに寄った。
「……少し疲れているだけよ」
「そうは見えないけど」
「あなたが気にすることじゃないわ」
話を切るように、レニアは前を向いた。
いつもの彼女なら、それで本当に終わっていただろう。けれど今日は、言葉ほど声に力がなかった。
放っておいた方がいいのかもしれない。本人が話したくないと言っているのだから、それ以上は余計なお世話だ。
それでも、キツキは引かなかった。
「その……俺が言うのもなんだけどさ」
レニアが振り返った。
「何」
「話くらいなら聞けるぞ」
「……必要ないわ」
「そりゃ、俺じゃ頼りないかもしれないけど」
「そういう問題ではなくて――」
「俺、レニアには結構助けられてるし」
レニアの言葉が止まった。
うまく言葉を選べている気はしない。それでも、ここで引いたら絶対に後悔する。そんな予感がした。
「魔法が怖くなった時もそうだし。あの時、無理に大丈夫だって言わないでいてくれただろ。あれ、結構助かったんだよ」
「それは……」
「他にもあるし。ブロムほど頼りになるかって言われたら分かんないけど、話を聞くくらいなら俺にもでき――」
「どうして!」
不意の強い声に、キツキは思わず目を見開いた。
レニアはそのまま俯く。落ちた銀色の髪に隠れて、その表情は見えなくなった。
「……どうして、あなたは私にそこまでするの?」
その問いには覚えがあった。
キツキが答えようと息を吸ったところへ、レニアが言葉を重ねた。
「……私が王女だから?」
レニアの声に再び硬さが混じった。
「もし、フォルテアの王女という肩書きに何か期待しているのなら、大した意味はないわよ」
そこで一度言葉を切り、小さく息を継いだ。
「少なくとも、私自身には……あなたに返せるものなんて、何もないわ」
言葉を重ねるほど、レニアの声からは少しずつ勢いが失われていった。
キツキはそれを遮らず、最後まで聞いてから短く答えた。
「王女だからじゃない」
その言葉に、レニアの顔がわずかに上がった。
「前にも、似たようなこと聞かれたよな」
「……」
「あの時は、なんとなくそうした方がいいと思っただけで、俺も理由まではよく分かってなかった。でも今は、前よりは分かる」
全部をそのまま口にするつもりはなかった。それでも、今までのように曖昧なまま済ませるのも違う。
「助けてもらったのもある。でも、それだけじゃない。レニアがつらそうなのに、そのまま放っておくなんて嫌なんだ」
レニアから返事はなかった。
少しだけ喉が詰まったが、キツキは誤魔化さなかった。
「俺にとってレニアは、それくらい大事だから」
キツキからは見えない銀色の髪の奥で、赤い瞳がわずかに揺れた。
レニアは何かを言いかけて、やめた。やがて小さく息を吐いたが、次の言葉はなかなか出てこなかった。
誰かに話したいと思わなかったわけではない。むしろ、ずっとそうしたかった。
それでも、苦しいと誰かに話すことを、レニアはこれまで自分に許してこなかった。
伸ばしていた背から少しずつ力が抜けていく。最後まで残っていた迷いを振り切るように、レニアは小さく息を吸った。
「……プライムフォーラムに出す予定だった研究があったの」
それは、レニアという少女が初めて、自分を守ってきた鎧の内側を誰かに晒した瞬間だった。




