第89話 今夜だけは
考査が終わった翌日の夜、レニアは自室の机に広げた紙へ、最後の1文を書き足した。書き終えた紙を少しだけ離して眺め、もう一度最初から目を通す。
プライムフォーラムへ持ち込むつもりで進めてきた研究は、すでに大半が形になっている。
考査が終わったからといって急に大きな発見があったわけではないが、直せるところはいくらでもあった。
言葉を変え、式の順序を入れ替え、説明を削る。
ここしばらく、夜になると繰り返してきた作業だった。
「……こんなものかしら」
ペンを置いて、小さく息を吐く。
その時、机の端に置かれていた紙の束が目に入った。昼前、エリルから渡されたものだ。
エリルはその時、妙に真面目な顔で、部屋に戻ってから読んだ方がいいと言った。普段なら、そこに一言か二言は余計なものがついてくるのに、それがなかったことが少しだけ引っかかっていた。
レニアは自分の研究資料を端に寄せ、その束を手元に置いた。いちばん上の紙をめくり、目を落とす。
どうやら、ひとつの研究についてまとめられた資料らしい。
正式な研究登録に関する記録。続いて、途中成果を確認するための資料。研究概要。レニアは順に目を通していく。
「…………?」
途中で、レニアの指が止まった。視線を数行戻し、気になった箇所を読み直す。
目を通していた内容の一部が、どうにも引っかかった。
それを確かめるように、レニアは次の紙をめくる。途中成果。そこまで読み進めると、眉がわずかに寄った。
「……これ」
今度は、机の反対側に寄せたばかりの自分の資料を見た。
どこに何を書いて、どの順番で考え、どこで行き詰まり、何を変えて今の形に辿り着いたか。何度も読み返し、何度も書き直した。内容も、そこに辿り着いた過程も、もう細部まで頭に入っている。
それでもレニアは、自分の研究ノートを引き寄せた。ページを開くと、指は迷わず目当ての箇所で止まった。エリルから渡された資料へ視線を戻し、もう一度、自分のノートを見る。
「…………」
違っていてほしかった。読み違えていてほしかった。
けれど、何度見ても同じだった。
目の前の研究は、自分の研究の核心の1つへ、すでに辿り着いている。
その時、まだ確かめていないことがあるのを思い出した。レニアは最初の紙に戻り、記録に目を落とす。
研究者名。モニカ・ソラリー。
レニアと同じ1年生で、別の学院に在籍する学生だった。
その横には、正式な登録日が記されていた。
「……うそ」
声が漏れた。数か月前。自分より、明らかに早い。
もともと白いレニアの肌から、さらに血の気が引いていく。資料を持つ指先に、わずかに力が入った。
まだ、何かあるかもしれない。
研究の目的をずらせば。重なっていない部分だけを切り出せば。あるいは、ここからさらに先まで進めば。
レニアは資料をめくった。途中成果を読む。もう1枚。
もう十分だった。
分かってしまう。モニカが先に辿り着いている。ただ登録が早いだけではない。自分がプライムフォーラムへ持ち込もうとしていた成果の核は、すでに向こう側にある。
「どうして……」
左手が、右の二の腕を掴んでいた。白い肌に、指の跡が浮くほど強く。
「どうして、今なのよ……」
考査も終わった。ようやく少しだけ余裕ができると思っていた。あとは研究を整えていけばいい。もっと良くできる。もっと詰められる。そう思って、今日まで積み上げてきた。
それが、何も知らないところで、ずっと前に終わっていた。
誰かが悪いわけではない。モニカが何かを盗んだわけでもなく、エリルが何かをしたわけでもない。ただ同じものを追いかけて、向こうが先に辿り着いただけだ。
だからこそ、ぶつける相手もいなかった。
レニアは顔を伏せた。銀色の髪が肩から落ち、顔を隠す。右腕を掴んだ左手だけは、しばらく離れなかった。
どうして、ようやく前に進めると思った時に限って、またこうなるのだろう。
そんなことを考えたのは、一度や二度ではない。けれど、今だけは本気で答えがほしかった。
しばらく、レニアは顔を伏せたまま動かなかった。
やがて、右腕を掴んでいた手をゆっくりと離し、一度だけ長く息を吐いてから顔を上げた。
目の前には、エリルが集めた資料がある。モニカの登録日も。途中成果も。自分より先に辿り着いたことを示すものも。
全部揃っている。
先を越された。
その事実は、もう変わらない。
なら、考えるべきなのは別のことだ。
このまま自分も研究を出すことはできる。同じ研究をしてはいけないというわけではない。独立して同じ場所へ辿り着くことだってある。
そうだ。まだ終わりではない。
先に進んだ方が次の成果を出せばいい。違いを見つけ、新しいものに変えればいい。そうやって競うことだってできる。
――自分とモニカが、ただの学生同士だったなら。
だが、自分が望むかどうかなど関係なく、レニア・フォルテアには第三王女という肩書きがついて回る。
同じような成果を持ち込めば、向こうが先だったと分かっていても、王女である自分を優先する者が出るかもしれない。
もっと悪ければ、先に研究していたはずのモニカの方が、王女の研究に寄せたのだと疑われることさえある。
そんなつもりはない、と言って済む話ではなかった。それに、王女を相手に、自分の方が先だとモニカが自由に主張できるとも限らない。
それでも、ここまで辿り着いたのは自分の力だった。盗んだわけでも、真似たわけでもない。
それなのに、自分が引くしかない。
「…………」
こんなときだけは、自分の名前について回る第三王女という肩書きが、ひどく重かった。
レニアは目を閉じ、長く息を吐いた。それから、机の上に手を伸ばす。
プライムフォーラムへ持ち込むため、何度も整えてきた紙の束。
その1枚を手に取り、もう片方の手の指先に、火魔法の小さな炎を灯す。
一瞬だけ手を止めたが、そのまま紙の端を炎に触れさせる。
火は紙だけを静かに包んだ。書き込まれた文字が黒く潰れて、端から崩れていく。灰になるまで、レニアは目を逸らさない。
次の紙。その次。清書したものも、まとめ直したものも、発表に使うつもりだったものも、1つずつ手に取って燃やしていく。
長い時間をかけて積み上げたものは、思っていたよりもあっけなく灰に変わった。
そうして、最後の1枚が崩れ落ちる。
机の上には、灰と、1冊の研究ノートだけが残った。
「…………」
レニアはノートを見つめた。それも手に取る。他のものと同じように、燃やしてしまえばいい。
もう、この研究を自分の成果としてプライムフォーラムへ持ち込むことはないのだ。だったら――
指先が動かなかった。
どうしても、それだけは燃やせなかった。
しばらくして、レニアはノートを机に戻し、椅子に座り直した。
その1冊だけが、手元に残った。けれど、この研究を自分の成果として出すつもりはもうなかった。
なら、次を探さなければならない。ここで立ち止まっている余裕はない。自分には、まだ何もかも足りない。もっと結果が必要だ。
自分には価値があるのだと示せる新しい何かを、早く見つけなければならない。新しい研究を。今度こそ、自分のものだと言える成果を。
そう考えているのに。
レニアは机に腕を置くと、そのまま顔を伏せた。
もう一度顔を上げ、新しい紙を広げるだけの力は残っていない。
静かな部屋の中に、いつものように背筋を伸ばしたレニアの姿はなかった。




