第88話 10点じゃ足りない
「これはじっくり見たいな。ちょっと取っておくか」
エストは、解答欄をびっしりと埋めた1枚を脇へ置いた。
束の中でも明らかに様子の違う答案だったが、中身を確かめるのは後にして、残りの束へ手を戻した。
そうして、残った答案を順に確かめていく。条件を破っているもの。計算の途中で崩れているもの。原因の一部までは正しく捉えているもの。未完成だからと切り捨てることはせず、使える分析には相応の評価をつけていく。
その中で、2枚だけ明らかに出来のいい答案があった。
どちらも1年生としては十分すぎるほど深く干渉を追っている。そのうち1枚は、さらにもう1段先まで分析を進めていた。
「ほお、ここまで見るか」
「……楽しそうだね、エスト」
「そりゃなあ。若者が何を考えたのかを見るのは面白いだろ?」
エストは評価を書き込み、紙を横へ送る。
次の答案へ手を伸ばした拍子に、束の中から1枚が滑った。
「あっと」
エストが拾い上げたその答案は、広い解答欄の大部分が余白のまま残っていた。
ざっと目を走らせた限りでは、小さく描き直された七環術式と数行の式、それに短い説明があるだけだ。
「……さすがに難しかったか」
それ以上じっくり見ることはせず、エストは答案を束へ戻した。
ただ、描き直された術式図だけは、なぜか妙に目に残った。
その後も何枚か答案をめくり、途中までの式や分析に目を通していく。
しばらくして、残っていた答案を一通り見終えると、エストは最初に脇に置いておいた1枚を引き寄せた。
「さて、お楽しみといくか」
改めて見れば、解答欄は式や場合分け、補助仮定でびっしりと埋まっている。描き直された七環術式からも、いくつもの式が伸びていた。
「どれどれ」
楽しそうに読み始めた声は、ほどなく消えた。
1度、最後まで読む。最初へ戻り、今度は式を1つずつ確かめながら、先ほどよりゆっくり追う。
途中で手が止まった。
エストは机の端にあった白紙を1枚引き寄せ、自分でも式を書き始める。
置かれた仮定に穴はないか。別の条件から崩せないか。経路を追い、干渉の変化を計算し直す。
いつしか、その白紙を新しい式が埋めていた。
「……エスト?」
「待ってくれ」
顔は上げない。
答案に書かれていたのは、術式を乱していた干渉を消すのではなく、逆に安定させるために利用する方法だった。しかも、問題で示された条件は何1つ破っていない。
エストは何度も計算し直した。どこかに間違いがあるはずだと思って探した。
だが、見つからなかった。
「……成立してるな」
「……本当かい?」
「ああ」
短く答えたきり、エストは答案から目を離さなかった。
普段なら絶えない軽い笑い声も、今はどこにもなかった。
それだけのものが、目の前にあった。
現在まで完全な安定化に至る解法が示されていなかった七環術式を、最後まで成立させる答えが、この1枚には書かれている。
しばらく、部屋には紙を擦る音さえなかった。
やがて、その沈黙を破ったのは学院長だった。
「……これは、考査の採点で済ませていいものなのかい?」
「済むわけないだろ」
実際に術式を組んでも同じように成立するのか。それは、これから確かめなければならない。
だが少なくとも、紙の上では完全に成立している。あとは実証さえ通れば、七環術式は未解決ではなくなる。
「まいったな……」
エストはようやく息を吐いた。
今すぐにでも術式を組んで確かめたい。そんな衝動をひとまず抑え、目の前の答案に意識を戻す。
今はまだ、考査の採点中だ。まずは、この答案に相応の評価をつけるのが先だった。
エストは評価欄へ目を落とし、10点と書き込んだ。
「……10点しかつけられんのか、これ」
「それが満点だからね」
学院長の穏やかな返事に、エストは苦笑した。
その視線が、答案の最後に描かれている術式図で止まる。
「……ん?」
反転した経路。接続先。
どこかで見た覚えがある。
「さっきの……」
エストは束を引き寄せた。数枚めくり、大きな余白の残った答案を引き抜く。
「あった」
今度は最初から読む。
術式図と数行の式。その下の短い説明を、順番に追っていく。
「…………」
同じだ。
最初は、そう思った。
「……いや」
先ほどの答案を隣へ置き、2枚を見比べる。
視線を何度か往復させてから、もう1度、短い方へ戻る。
「なぜ……これで足りている?」
先ほどの答案は、いくつもの条件を確かめ、長い計算を積み重ねた末に七環術式を安定させていた。
だが、こちらにはその過程がほとんどない。
必要な変更と、その理由。それだけで答えが成立している。
エストは新しい白紙を1枚取り、もう一度、自分で計算を始めた。先ほどの答案とも見比べながら、条件を変えて何度も確かめる。
それでも、崩れない。
やがてエストは気づいた。
この答案は、長い証明を省いているのではない。そもそも、そこへ至るまでの複雑な手順を必要としていなかった。
エストは何も言わなかった。
短い答案を見る。隣の、びっしり埋まった答案を見る。自分で書き足した検算にも目を落とす。
もう1度、短い答案へ戻った。
「……はは」
そこでようやく、笑いが漏れた。
「どうしたんだい?」
「こいつ……さっきの答案より、さらに先にいるぞ」
学院長が目を瞬く。
「七環術式を解いただけじゃない。この考え方なら、魔力の流れが互いに干渉する別の術式にも応用できる」
「七環術式だけの解法じゃないってことかい?」
「ああ。少なくとも、この答案はそういう形で組まれてる」
エストはもう1度だけ式を追った。それでも結論は変わらない。
評価欄へ10点を書き込む。
「……やっぱり、10点じゃ足りんな」
「さっきも同じことを言っていたね」
「言いたくもなるさ。配点さえ決まってなければ、どっちも10点じゃ済まんぞ」
2枚の答案が並ぶ。
広い解答欄を用意したのは、エスト自身だった。
これほど難解な問題なら、答えもまた複雑で、長いものになる。無意識のうちに、そう思い込んでいたのだ。
「いやあ、歳を取るといかんな。すっかり頭が固くなってたらしい」
「君がそんなことを言うとは珍しいね」
「私だって反省くらいするぞ!」
ようやく、いつもの調子でエストが笑った。
ただ、その目はすぐに2枚の答案へ戻る。
「……まあ、実際に組んでみないことにはな」
「明日は忙しくなりそうだね」
「まったくだ」
そう答えながらも、エストの口元は緩んでいた。
面倒が増えたという顔ではない。未解決だった術式の答えを、それも2つも目の前にして、研究者としての興奮を隠しきれていなかった。
片方は、本来なら3年後に確立されるはずの七環術式の完全解。
そしてもう片方は、少なくとも10年は先の魔術理論に届くものだった。
だが、それを書いたキツキ本人は、自分がそんなものを書いたとは夢にも思っていなかった。




