第87話 ……書いちゃったんだよねえ
第1回定期学科考査が終わったその日のうちに、学院側では採点が始まっていた。
回収された答案はすぐに職員たちの手へ渡り、担当ごとに振り分けられていく。
ただし、最後の七環術式だけは扱いが違った。
解答欄に何かしら記述のある答案だけが抜き出され、別の束にまとめられていく。そうして出来上がった束は、全体から見ればかなり薄い。
氏名は伏せられ、残っているのは管理番号だけ。
その束は、通常の採点が行われている部屋とは別の場所へと運ばれた。
「思ったより少なかったね」
学院長が湯気の立つ茶を片手に、机へ置かれた答案を眺める。
「はっはっは! そりゃそうだろう。あれを見て何か書こうと思っただけでも大したもんだ」
向かいに座るエスト・リバーが楽しそうに笑った。
「君がそういう問題を出すからだよ」
「面白そうだったんだから仕方ないだろう」
七環術式を担当したのはエストだが、外部の人間であることに変わりはない。彼が確認するのは担当した問題だけで、学院側からは学院長が同席している。
もっとも、学院長は採点へ口を挟む様子もなく、のんびり茶を飲んでいた。
エストはまた笑いながら答案の束へ手を伸ばした。
何枚かずつ答案をずらしていく。途中まで続いた式や崩れた術式図、大半が余白のまま残されたものが続く。
その中に、1枚だけ明らかに様子の違う答案があった。
描き直された七環術式から何本もの式が伸び、場合ごとの計算と説明が広い解答欄を埋めている。その少し下には、大きな余白を残した答案も混ざっていた。
やがてエストは、びっしりと書き込みで埋められた1枚を束から抜き取り、自分の手元に引き寄せた。
◇
七環術式が解かれるのは、本来なら3年後だった。
自室の机で、エリルは問題冊子の最後のページを見つめていた。
問題も条件も間違いない。
そして今日エリルが答案に書いたものは、今から3年後に確立されるはずの解法だった。
解法そのものに迷いはなかった。
迷ったのは、それを今ここで書いていいのかどうかだった。
「……書いちゃったんだよねえ」
指先でページの端を軽く叩く。
答案には、その解法を証明まで含めて最後まで書いた。
書かないという選択肢もあった。
それでも、この問題が今ここにある理由を確かめる材料になるかもしれないと思い、結局ペンを動かした。
(……あれでよかったのかなー)
答えは出ない。
エリルは問題冊子を閉じかけて、もう1度開いた。
当然、そこにある七環術式は何も変わっていない。ページの端を叩いていた指だけが、いつの間にか止まっていた。
そもそも、なぜ今これが学院の考査問題として出されているのかすら分からない。
偶然で片づけるには出来すぎているが、それ以上を考える材料もなかった。
今すぐ答えの出ないことを考え続けても仕方がない。
エリルは今度こそ問題冊子を閉じた。
「……こっちは、先にやっといた方がいっか」
レニアがプライムフォーラムへ持ち込もうとしている研究。
その先には、エリルの知っている名前がある。
モニカ・ソラリー。
レニアと同じく1年生で、別の学院に通うエルフの少女だ。彼女はレニアより先に、同じ核心へ辿り着いていた。
このまま放っておけば問題になることも、エリルは知っている。けれど、知っているだけではレニアに話せない。
「なら、証拠があればいいよね」
何を調べ、どこを辿ればいいのかは分かっていた。
その夜、エリルはいくつかの伝手を使い、正式な研究登録の日付や、その後に提出された途中成果、研究内容を確認できる資料を集めた。
やはり、モニカの研究は数か月前には正式に登録されていた。
空が白み始める頃、ようやく最後の資料がエリルの手元に揃った。
◇
翌日、昼食前。
「レニア姫、ちょっといい?」
教室を出ようとしていたレニアが振り返る。
エリルはまとめていた資料を、そのまま差し出した。
「はい、これ」
「……何かしら?」
「必要だと思って」
レニアは受け取ると、すぐに一番上の紙を開こうとした。
「あ、ここじゃなくて部屋で読んだ方がいいよ」
その手がぴたりと止まる。
赤い瞳が資料からエリルに戻り、しばらくじっとその顔を見つめた。
「読めば分かると思うよ」
エリルはそれ以上説明しなかった。
レニアはもう1度手元の資料に目を落とすと、やがて静かに閉じる。
「分かったわ」
「うん。そゆことで」
用件を終えたエリルが踵を返した。
「……ふぁ」
途中で出た欠伸を、慌てて片手で隠した。
「……あなた、寝てないの?」
「そんなことないよ?」
明らかに誤魔化すような返事を残して、エリルは片手を振った。
「じゃ、またあとでね。レニア姫」
そのままエリルは逃げるように教室を出た。
◇
「ご褒美?」
「そ。ご褒美」
少ししてキュルと合流したエリルは、菓子の並んだ棚を指した。
「考査、頑張ったでしょ?」
「頑張った」
「最後は寝てたけどね」
「もえつきた」
「はいはい」
エリルが小さく肩をすくめる頃には、キュルの視線はもう菓子の棚へ戻っていた。
銀灰色の瞳が、並んだ菓子を端から端まで追っていく。考査中に難問を見ていた時より、よほど真剣だった。
「好きなの選んでいいよ」
「ほんと?」
「頑張ったご褒美だからね」
キュルの手がすぐに伸びた。
1つ。
すぐに2つ目。
少し迷って、3つ目。
「……キュル?」
「ご褒美って言った」
「いやー、確かに言ったけど」
「あと1つ」
「今ので3つ目じゃない?」
「あと1つ」
「……ま、いいけど」
許可が出た瞬間、キュルの手が隣の菓子へ伸びた。
会計を終える頃には、キュルは菓子の入った袋を大事そうに抱えていた。普段とほとんど変わらない顔なのに、銀灰色の瞳だけはいつもより少し明るい。
そんな様子を見ていたら、エリルの眠気もいつの間にかどこかへ吹き飛んでいた。




