第86話 自由になったはずなのに
それからしばらくしても、エリルのペンは止まらなかった。
七環術式を描き直した図からいくつもの式が伸び、その下には場合ごとの計算と説明が続いている。書き始める前に見せた迷いはもうなく、広い答案欄が上から順に埋まっていく。
一方、キツキの手はすでに止まっていた。
答案に描いたのは、小さく描き直した術式図と、向きを変える経路、その接続先。その下にメガネに表示されていた式を数行と、必要な説明を短く添えただけだ。
その先には、まだ大きな空白が残っている。
(……これ以上、書くことないよな?)
もう1度だけ術式図と答案を見比べたが、書き忘れているものはなさそうだった。
少し離れた席では、ブロムがまだペンを動かしている。何度か前の式へ戻っては書き直し、また先へ進む。
レニアも同じだった。赤い瞳は問題冊子と答案を行き来し、最後まで何かを探すように術式図を追い続けている。
やがて、教室の前から声が飛んだ。
「――そこまで」
ガルドの声と同時に、あちこちでペンが止まる。
ブロムがわずかに眉を寄せ、レニアも答案から目を離さないまま手を止めた。
ガルドが片手を上げると、机の上に置かれていた答案が一斉に浮かび上がった。何十枚もの紙が教室の中を流れるように飛び、順番に重なりながらガルドの手元へ収まっていく。
キツキの余白が大きく残った答案も、その中へ消えていった。
「……ん」
すぐ近くから、小さな声がした。
視線を向けると、いつの間にか腕を枕にしていたキュルが、ゆっくりと顔を上げている。
銀灰色の瞳が何度か瞬いた。
「……終わった?」
「終わったぞ」
「ほんと?」
「ああ」
キュルは数秒黙ったあと、ネコのように背筋を伸ばした。
「自由」
「……だな!」
ここ数日ずっと考査対策に追われていたせいか、その一言が妙に胸に染みた。
魔法史には怪しいところがいくつもあるし、術式の問題だってかなりメガネに頼った。どれだけ点が取れているかは、まだ分からない。
それでも考査は終わったし、今はそれだけで十分だった。
肩に残っていた力が一気に抜けていく。
キュルはすでに別の方を向いていた。
その視線の先で、エリルはまだ問題冊子の最後のページを開いたまま、七環術式を見つめていた。
いつもなら何を考えているのか分からない笑みを浮かべている彼女には珍しく、今はその表情に余裕がない。指先をページの端に置いたまま、何かを考え込むようにじっと術式図を見つめている。
「エリル」
「……キュル? どしたの?」
声をかけられ、エリルが少し遅れて顔を上げる。
「すごい」
「何が?」
「教えてもらったの、いっぱい出た」
キュルが珍しく少し弾んだ声で言う。
エリルは一瞬だけ黙った。
けれど、すぐにいつもの笑みを浮かべる。
「ちゃんとやっておいてよかったでしょ?」
「うん」
「途中で逃げたけどね」
「休憩」
「そういうことにしておいてあげる」
いつもの調子に戻った2人を横目に、キツキは小さく息を吐いた。
考査も終わった。ここ数日は勉強して、杖のことをノートに書いて、また勉強しての繰り返しだった。
今日くらいは何もせず、帰って寝てもいいはずだ。
そう思い、荷物をまとめようとしたところで、レニアの視線がキツキの席へ向いた。赤い瞳はすぐには離れず、ほんの少しだけキツキのところに留まっていた。
けれど、キツキがそれに気づかないまま、レニアはやがて視線を外し、別の席へ顔を向けた。
「ブロム。あなた、最後の問題は解けた?」
聞こえてきたレニアの声に、キツキはそこで初めてそちらに意識を向けた。荷物をまとめる手は止めないまま、自然と2人の会話へ耳を傾ける。
「いや。最後までは無理だったよ。殿下は?」
「……私もよ」
短い返事だった。
ブロムはまだ七環術式が頭から離れないのか、問題冊子の最後のページを見ていた。
「途中まではいけた気がするんだけどね」
「私もよ。だから余計に気持ちが悪いわ」
「うん、同感だよ」
「それとブロム」
「ん?」
「いい加減、殿下呼びはやめてちょうだい」
そこまで聞いたところで、キツキは机へ視線を戻した。
ペンをしまい、問題冊子を閉じる。
普段なら、そのまま会話に混ざっていた気がする。
最後の問題について何を書いたのか、2人の話も聞いてみたかった。
けれど今は、何事もなかったようにそこに混ざる気にはなれなかった。
(……まだ、ちゃんと謝れてないんだよな)
ここ数日、レニアとは何度か顔を合わせたのに、結局まともに話せないままだった。
以前なら何も考えずに声をかけられたはずなのに、今はそれができない。そのことが、思っていたよりも気にかかった。
さっきまであれだけ軽かったはずの身体は、いつの間にか少しだけ重くなっていた。
キツキは荷物を持ち、そのまま教室を出た。
廊下に出ると、考査を終えた生徒たちの声があちこちから聞こえてきた。
「最後から3問目、答えなんて書いた?」
「え、そこ違うの?」
「おい、嘘だろ……」
早速問題冊子を広げて答え合わせを始めている者がいた。その横では、友人の答えを聞いた生徒が両手で頭を抱えている。
少し先では、終わったこと自体が嬉しいのか、何人かが声を上げて笑っている。
魔法学院だろうと、考査が終わったあとの学生は、元の世界と似たようなものらしい。
思えば、ここ何日かは魔法を使っている時間より、机に向かっている時間の方がずっと長かった。
せっかく魔法のある世界なのだ。もう少しくらい、魔法使いらしいことをしていてもいいだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、廊下の端で俯いている上級生らしい生徒が目に入った。
片手で顔を覆い、もう片方の手には問題冊子が握られたままだ。隣に立つ友人は何も言わず、ただその肩を何度か叩いている。
詳しい事情までは分からないが、考査がうまくいかなかったのだろう。
キツキはなるべくそちらを見ないようにして、その横を通り過ぎた。ただ、歩調だけは少し遅くなっていた。
それでも、そのまま寮へ向かって歩き続ける。
しばらくして、足が止まる。
「……」
キツキは少しだけ考え、肩にかけた荷物の位置を直すと、再び歩き出した。
帰って寝るつもりだったはずなのに、気づけば足は鍛練区画へ向いていた。




