第85話 潔い撤退だった
「――始め」
ガルドの声と同時に、教室のあちこちで紙をめくる音が重なった。
キツキも問題冊子を開き、最初の問題へ目を落とす。制限時間は120分、100点満点。今回の結果は今後のクラス査定にも影響する以上、手は抜けない。
1度だけ息を吐き、ペンを握り直した。
最初の数問は、思っていたより素直だった。術式の欠けた箇所を補う問題や、提示された魔力量と経路から結果を求める問題は、メガネを使えばそれほど時間はかからない。
逆に、過去の出来事になると途端に頼れなくなる。
ある条約が結ばれた時期を問う問題で手が止まった。メガネ越しに何度見ても、紙に書かれていない過去まで教えてくれるわけではない。
(……これ、やったよな)
何度も見たはずなのに、似たような名前と年代が頭の中で混ざっている。
(こっち……だったはず)
迷った末に1つを書き込み、次へ進んだ。
同じ頃、少し離れた席では、キュルも順調に答案を埋めていた。
いや、順調すぎた。
解いたばかりの問題に妙な見覚えがある。
昨日、エリルに横から見られながら、間違えて、やり直して、もう1度解かされた問題だった。それも少し似ている程度ではなく、ほとんどそのまま。
次も同じ。
さらに、その次も。
キュルの銀灰色の瞳が、ゆっくり問題冊子から離れた。
少し先の席では、エリルがいつも通りの顔で答案を書いている。
キュルはその横顔をしばらく見つめ、不思議そうに首を傾げると、何も言わず問題冊子へ視線を戻した。
◇
キツキが残り時間を確認した頃には、通常問題のほとんどを終えていた。
完璧とは到底言えない。特に魔法史には怪しいところがいくつもあるが、空欄だらけという最悪の事態は避けられた。
(……ついに最後か)
ページをめくったところで、手が止まる。
最後のページには、それまでよりはるかに大きな術式図が載っていた。7つの魔力経路が互いに接続し、いくつもの箇所で流れを交差させている。
総魔力供給量を増加させず、経路の追加や削除も行わない。その条件を維持したまま、七環術式を長時間安定させる方法を示すこと。完全な安定化へ至らない場合も、考察過程は評価対象となる。
配点は10点。
(最後だけ急に難しくないか?)
もう1度問題文を読み返す。
前の問題までは、少なくとも授業や考査対策の延長にあった。だがこれは、何から手をつければいいのか、その入口すらすぐには見えない。
ふと、入学試験の第1問を思い出した。
あの時も、普通の試験問題だと思って解いたものが、実際にはほとんどの受験生が手も足も出ないような難問だった。
(……まさか、これもそういう問題じゃないよな)
何も知らずに解いて、あとから「実はとんでもない問題でした」なんてことになれば、また妙な注目を浴びることになる。
それはできれば勘弁してほしかった。
そんな嫌な予感を裏づけるように、先ほどまで絶えず続いていた筆記音が、教室のあちこちで途切れている。
ブロムも問題を前に手を止めていた。1度ペンを置き、条件文を上から読み直している。レニアもすぐには書き始めず、赤い瞳で術式図の流れを何度も追っている。
しばらくして、2人のペンがそれぞれ動き始めた。けれど、その速度は先ほどまでとは明らかに遅かった。
一方、キュルは大きな術式図をしばらく見つめたあと、そっとペンを置いた。
潔い撤退だった。
そして、その少し先では、それまで迷う様子もなく書き続けていたエリルの手まで止まっていた。
琥珀色の瞳が問題文をなぞり、術式図に戻る。
(……どうして、これが今ここにあるの?)
エリルはわずかに目を細めた。
すぐにはペンを動かさず、今度は広い答案欄へ視線を落とす。そのまま数秒、何かを考えるように黙り込んだ。
やがて小さく息を吐くと、ペンを持ち直し、答案欄へ式を書き始める。
キツキはそんなエリルを見ることもなく、もう1度術式図へ目を落とした。
嫌な予感は残っている。それでも、ここまで何日も詰め込んできた以上、配点10点を前に最初から手を引く気にはなれなかった。
メガネの位置を指で直し、術式図を見た途端、視界を埋める情報量が跳ね上がった。
7つの経路を流れる魔力、接続点で生じる干渉、流量の偏り、循環と逆流。どこかを変えた場合に別の場所で何が起こるのかまで、問題用紙に記された構造と数値から拾える情報が次々と重なっていく。
(多いな……)
全部を追っていたら時間が足りない。
(成立しないやつはいらない。条件から外れるのも消してくれ)
メガネへ意識を向け、頭の中でもう1度条件を絞り込むと、表示される情報が減った。それでも候補は多く、1か所を直せば別のどこかが崩れていく。
(今の条件のまま成立するものだけ)
さらに絞る。
目の奥に鈍い痛みが滲み始めたが、まだ耐えられる。キツキは術式図と残った情報を追い続けた。
候補が削られていく中、ある経路の向きと接続先を変えた場合だけ、それまで次々と出ていた不成立の表示が途切れた。
「……ん?」
キツキはさらに別の条件も重ねて確認してみる。けれど、結果は変わらない。どこにも不成立を示すものは出てこなかった。
どうしてこれで安定するのか、その理屈はさっぱり分からないが、あとはメガネに表示されている通りに書けばいいだけだ。
その頃、少し先では、エリルが自分の答案欄を埋め尽くすように、次々と式を書き連ねていた。術式の各経路を示す図、その下へ続く計算式、さらに余白を縫うように加えられていく説明。ペン先に迷いはなく、すでに何行もの記述が答案を埋めている。
そんなエリルへ目を向けることもなく、キツキも自分の答案へペンを走らせ始めた。




