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第84話 許せ、これも生き残るためだ

 あのあと、キツキはどうにか騒ぎを起こさず、男子寮の自室まで戻ることができた。


 どうやって女子寮を抜けたのかは、できれば思い出したくない。


 部屋に入るなり濡れた靴を脱ぎ、制服の裾もろくに拭かないまま机へ向かった。積み重ねていた勉強用のノートから、空いているものを1冊引き抜く。


 記憶が薄れる前に、杖の全体の形と、覚えている内部の経路を描いていった。曖昧な場所には印をつけ、思い出せない部分は空白のまま残した。


 しばらくして、キツキの手が止まった。


 細かいところを思い出せなくなったわけではない。柔らかな室内着をまとい、普段よりも肩から力の抜けていたレニアの姿が、何の前触れもなく頭に浮かんだからだ。


「……かわいかったな」


 口からこぼれた言葉に、キツキは自分で固まった。


「何言ってんだ俺は」


 慌てて頭を振る。


 杖の情報は、記憶が薄れる前に書き留めたい。レニアへの謝罪も、先延ばしにはできない。そもそも、どうしてホンペクはあの部屋に飛ばしたのか。


 考えることが多すぎる。


 キツキは顔をしかめながらも、記憶に残っているものを最後まで書き出した。


 重要なところは、どうにか残せたと思う。

 だが、細部には曖昧な部分がいくつも残っていた。これだけでは、同じ杖を作るには圧倒的に情報が足りない。


 それでも、何も残らないよりはましだろう。


 キツキはノートを閉じてペンを置くと、ようやく濡れた制服から着替え、そのままベッドに倒れ込んだ。



 翌日の放課後。


 昨夜は結局、ほとんど眠れなかった。

 キツキはあくびをかみ殺しながら、学院の中庭を歩いていた。


 授業が終わってからも考査の勉強を続けていたが、読んだ文字が頭に入らなくなった。少し休もうと、人の少ない中庭の奥へ向かうと、植え込みの陰にあるベンチに人影があった。


 薄い水色の髪が、力なく垂れている。


 キュルだった。


 閉じた教本を膝の上に置き、背中を丸めて座っている。目の下の隈は、先日よりも濃く見えた。


 キツキが近づいても、顔を上げない。


「生きてるか」


 しばらくして、キュルがわずかに顔を上げた。


「ぎりぎり」


「そっか」


 キツキは隣に座った。


 ひとまず、それ以上は聞かなかった。今のキュルが限界に近いことだけは、見れば分かる。


 キュルも、キツキの顔をじっと見た。


「キツキも?」


「ああ、ギリギリだ」


「そ」


 2人はしばらく黙って座っていた。


 風が植え込みの葉を揺らしている。遠くからは、まだ学院に残っている生徒たちの声が聞こえてくる。


 キツキは制服のポケットに手を入れ、小袋に残っていた飴を2つ取り出し、1つをキュルに差し出す。


 キュルは飴とキツキの顔を交互に見たあと、無言で受け取った。


「おつかれ会だ」


「……飴だけ?」


「文句を言うなら返せ」


 キュルはすぐに包みを開き、飴を口に入れた。


「もう私の」


「……そうかよ」


 キツキは呆れながら、自分の飴の包みも開けた。

 こうして、飴1つずつのおつかれ会が始まった。


「エリルと勉強してたのか?」


 キュルが小さく頷く。


「休憩中」


 その返事に、キツキはわずかな引っかかりを覚えて、キュルの横顔と、人目につきにくい植え込みの陰を見比べる。


「……逃げてきたのか?」


 キュルの肩がびくりと揺れた。


「休憩」


「休憩時間は、もう過ぎてるんじゃないのか?」


「キツキうるさい」


 キュルはそれ以上答えず、飴を口の中で転がした。


 教本は膝の上に残っている。勉強そのものを投げ出したわけではないらしい。ただ、今すぐ戻るつもりもなさそうだった。


「エリルの教え方、厳しいのか?」


「わかりやすい」


「じゃあなん――」


「逃げられない」


「……なるほど」


 その一言だけで、キュルがここまで逃げてきた事情はなんとなく分かった。


 それきり会話は途切れ、2人はベンチに並んだまま、何をするでもなく飴を舐め続けた。


 昨夜のことも、考査のことも、今だけは考えなくていい。

 そう思い始めたところで、植え込みの向こうから声がした。


「キュルー? どこにいるの?」


 キュルの肩がびくりと跳ねる。


 キツキが声のした方へ顔を向けると、葉の隙間から紫色の髪が見えた。続いてエリルが姿を現し、その琥珀色の瞳がまっすぐこちらを捉える。


「みーつけた」


 エリルは笑っていた。

 だが、キュルが助かる未来は、たった今消えた。


「休憩は終わりだよ。戻ろっか」


 キュルが立ち上がった。


 素直に戻るのかと思った次の瞬間、キツキの背後に回り込み、制服の背中を細い指でつまむ。


「おい」


 返事はない。


 キツキの背後から、薄い水色の髪だけが少し見えている。


 エリルは困ったように笑った。


「キュル?」


 制服をつまむ力が、わずかに強くなった。


 さっきまで同じ飴を舐め、言葉もなく励まし合った仲だ。

 ここであっさり差し出すほど、俺は薄情じゃない。


 キツキはエリルを見た。


「少しくらい休ませてやったらどうだ? こいつ、もう限界だぞ」


「……ふーん」


「ん? なんだ、その反応」


「いやー、キツキはキュルの味方なんだなって」


 エリルはにこりと笑った。


「じゃあ、昨夜の話でもしようか?」


 その瞬間、キツキの思考が一気に回り始めた。


 昨夜の話。

 女子寮にいたことだけか。それとも、レニアの部屋から出てきたところまで見られていたのか。


 そもそも、エリルはどこまで知っている?


「な、なんのことだ」


「なんだろうねー」


 キツキはエリルの顔をじっと観察した。エリルは笑っている。声も表情も、いつもと変わらない。


 だが、キツキには、何もかも知ったうえで笑っているようにしか見えなかった。


 キツキは小さく息を吐き、背中をつまんでいたキュルの指を外すと、そのまま身体を横にずらした。盾を失ったキュルだけが、エリルの前にさらされた。


 キュルが恨めしそうにキツキを見上げた。


「……裏切り者」


「キュル……人には守れないものもあるんだ」


「さっきは守るって顔してた」


「状況が変わったんだ」


「裏切り者」


「2回も言うな」


 エリルが小さく笑った。


「じゃあ、戻ろっか。続きがまだ残ってるからね」


 キュルは目に見えて肩を落とした。

 それでも抵抗はせず、教本を抱えてエリルの隣に並んだ。


 歩き出す直前、キュルは銀灰色の瞳で恨めしそうにキツキを振り返った。


「裏切り者」


「3回目だぞ」


 キュルはそれ以上答えず、エリルと一緒に中庭を出ていった。それを見届けたキツキは、ベンチに座り直した。


 エリルが昨夜のことをどこまで知っているのかは、考えたくなかった。


 少なくとも、今のところ騒ぎにはなっていない。

 なら、大丈夫だろう。


 キツキは、そういうことにした。


 それから数日、キツキは考査勉強を続けながら、杖の情報を思い出すたびにノートへ書き足していった。


 レニアとも学院内で何度か顔を合わせ、そのたびに謝ろうとはした。

 けれど、いざ声をかけようとすると、驚いたレニアの目と、室内着姿や火照った頬が一度に浮かび、用意していた言葉はいつも喉で止まった。


 結局、レニアとは1度もまともに話せなかった。


 そうして迎えた――第1回定期学科考査当日。

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