第84話 許せ、これも生き残るためだ
あのあと、キツキはどうにか騒ぎを起こさず、男子寮の自室まで戻ることができた。
どうやって女子寮を抜けたのかは、できれば思い出したくない。
部屋に入るなり濡れた靴を脱ぎ、制服の裾もろくに拭かないまま机へ向かった。積み重ねていた勉強用のノートから、空いているものを1冊引き抜く。
記憶が薄れる前に、杖の全体の形と、覚えている内部の経路を描いていった。曖昧な場所には印をつけ、思い出せない部分は空白のまま残した。
しばらくして、キツキの手が止まった。
細かいところを思い出せなくなったわけではない。柔らかな室内着をまとい、普段よりも肩から力の抜けていたレニアの姿が、何の前触れもなく頭に浮かんだからだ。
「……かわいかったな」
口からこぼれた言葉に、キツキは自分で固まった。
「何言ってんだ俺は」
慌てて頭を振る。
杖の情報は、記憶が薄れる前に書き留めたい。レニアへの謝罪も、先延ばしにはできない。そもそも、どうしてホンペクはあの部屋に飛ばしたのか。
考えることが多すぎる。
キツキは顔をしかめながらも、記憶に残っているものを最後まで書き出した。
重要なところは、どうにか残せたと思う。
だが、細部には曖昧な部分がいくつも残っていた。これだけでは、同じ杖を作るには圧倒的に情報が足りない。
それでも、何も残らないよりはましだろう。
キツキはノートを閉じてペンを置くと、ようやく濡れた制服から着替え、そのままベッドに倒れ込んだ。
◇
翌日の放課後。
昨夜は結局、ほとんど眠れなかった。
キツキはあくびをかみ殺しながら、学院の中庭を歩いていた。
授業が終わってからも考査の勉強を続けていたが、読んだ文字が頭に入らなくなった。少し休もうと、人の少ない中庭の奥へ向かうと、植え込みの陰にあるベンチに人影があった。
薄い水色の髪が、力なく垂れている。
キュルだった。
閉じた教本を膝の上に置き、背中を丸めて座っている。目の下の隈は、先日よりも濃く見えた。
キツキが近づいても、顔を上げない。
「生きてるか」
しばらくして、キュルがわずかに顔を上げた。
「ぎりぎり」
「そっか」
キツキは隣に座った。
ひとまず、それ以上は聞かなかった。今のキュルが限界に近いことだけは、見れば分かる。
キュルも、キツキの顔をじっと見た。
「キツキも?」
「ああ、ギリギリだ」
「そ」
2人はしばらく黙って座っていた。
風が植え込みの葉を揺らしている。遠くからは、まだ学院に残っている生徒たちの声が聞こえてくる。
キツキは制服のポケットに手を入れ、小袋に残っていた飴を2つ取り出し、1つをキュルに差し出す。
キュルは飴とキツキの顔を交互に見たあと、無言で受け取った。
「おつかれ会だ」
「……飴だけ?」
「文句を言うなら返せ」
キュルはすぐに包みを開き、飴を口に入れた。
「もう私の」
「……そうかよ」
キツキは呆れながら、自分の飴の包みも開けた。
こうして、飴1つずつのおつかれ会が始まった。
「エリルと勉強してたのか?」
キュルが小さく頷く。
「休憩中」
その返事に、キツキはわずかな引っかかりを覚えて、キュルの横顔と、人目につきにくい植え込みの陰を見比べる。
「……逃げてきたのか?」
キュルの肩がびくりと揺れた。
「休憩」
「休憩時間は、もう過ぎてるんじゃないのか?」
「キツキうるさい」
キュルはそれ以上答えず、飴を口の中で転がした。
教本は膝の上に残っている。勉強そのものを投げ出したわけではないらしい。ただ、今すぐ戻るつもりもなさそうだった。
「エリルの教え方、厳しいのか?」
「わかりやすい」
「じゃあなん――」
「逃げられない」
「……なるほど」
その一言だけで、キュルがここまで逃げてきた事情はなんとなく分かった。
それきり会話は途切れ、2人はベンチに並んだまま、何をするでもなく飴を舐め続けた。
昨夜のことも、考査のことも、今だけは考えなくていい。
そう思い始めたところで、植え込みの向こうから声がした。
「キュルー? どこにいるの?」
キュルの肩がびくりと跳ねる。
キツキが声のした方へ顔を向けると、葉の隙間から紫色の髪が見えた。続いてエリルが姿を現し、その琥珀色の瞳がまっすぐこちらを捉える。
「みーつけた」
エリルは笑っていた。
だが、キュルが助かる未来は、たった今消えた。
「休憩は終わりだよ。戻ろっか」
キュルが立ち上がった。
素直に戻るのかと思った次の瞬間、キツキの背後に回り込み、制服の背中を細い指でつまむ。
「おい」
返事はない。
キツキの背後から、薄い水色の髪だけが少し見えている。
エリルは困ったように笑った。
「キュル?」
制服をつまむ力が、わずかに強くなった。
さっきまで同じ飴を舐め、言葉もなく励まし合った仲だ。
ここであっさり差し出すほど、俺は薄情じゃない。
キツキはエリルを見た。
「少しくらい休ませてやったらどうだ? こいつ、もう限界だぞ」
「……ふーん」
「ん? なんだ、その反応」
「いやー、キツキはキュルの味方なんだなって」
エリルはにこりと笑った。
「じゃあ、昨夜の話でもしようか?」
その瞬間、キツキの思考が一気に回り始めた。
昨夜の話。
女子寮にいたことだけか。それとも、レニアの部屋から出てきたところまで見られていたのか。
そもそも、エリルはどこまで知っている?
「な、なんのことだ」
「なんだろうねー」
キツキはエリルの顔をじっと観察した。エリルは笑っている。声も表情も、いつもと変わらない。
だが、キツキには、何もかも知ったうえで笑っているようにしか見えなかった。
キツキは小さく息を吐き、背中をつまんでいたキュルの指を外すと、そのまま身体を横にずらした。盾を失ったキュルだけが、エリルの前にさらされた。
キュルが恨めしそうにキツキを見上げた。
「……裏切り者」
「キュル……人には守れないものもあるんだ」
「さっきは守るって顔してた」
「状況が変わったんだ」
「裏切り者」
「2回も言うな」
エリルが小さく笑った。
「じゃあ、戻ろっか。続きがまだ残ってるからね」
キュルは目に見えて肩を落とした。
それでも抵抗はせず、教本を抱えてエリルの隣に並んだ。
歩き出す直前、キュルは銀灰色の瞳で恨めしそうにキツキを振り返った。
「裏切り者」
「3回目だぞ」
キュルはそれ以上答えず、エリルと一緒に中庭を出ていった。それを見届けたキツキは、ベンチに座り直した。
エリルが昨夜のことをどこまで知っているのかは、考えたくなかった。
少なくとも、今のところ騒ぎにはなっていない。
なら、大丈夫だろう。
キツキは、そういうことにした。
それから数日、キツキは考査勉強を続けながら、杖の情報を思い出すたびにノートへ書き足していった。
レニアとも学院内で何度か顔を合わせ、そのたびに謝ろうとはした。
けれど、いざ声をかけようとすると、驚いたレニアの目と、室内着姿や火照った頬が一度に浮かび、用意していた言葉はいつも喉で止まった。
結局、レニアとは1度もまともに話せなかった。
そうして迎えた――第1回定期学科考査当日。




