第83話 俺だってわけわかんないんだ!
「これ、持って帰っていいのか?」
ホンペクは岩の上で目を閉じたまま答えた。
「好きにしろ」
「……まじ?」
思わず口元が緩んだ。持ち主を知っているホンペクがそう言うのなら、持って帰っても構わないのだろう。
キツキは杖を手に、弾むような足取りでホンペクのいる岩場から離れた。
だが、数歩進んだところで、何の前触れもなく手が軽くなった。
「え?」
握っていたはずの杖が消えていた。振り返ると、杖は先ほどと同じ場所に戻り、何事もなかったように黒い岩へ立てかけられていた。
「……どういうことだ?」
キツキは戻って杖を拾い、もう一度同じ方向へ歩いた。しかし、結果は変わらなかった。持ち方を変えても、制服で包んでも、一定の場所を越えれば杖は消え、元の岩へ戻った。
「……おい、ホンペク」
「持っていけるとは言ってない」
「先に言えよ」
ホンペクは目を閉じたまま、ふさふさとした白い尾だけを一度動かした。
キツキはもう一言返したいのを飲み込み、杖の前にしゃがみ込んでメガネに意識を向けた。
杖の周囲には、別の構造が幾重にも重なっていた。封印のようにも見えるそれは、簡単にどうにかできるものではなさそうだった。
なら、今できることは1つしかない。
見える構造をできる限り覚えて持ち帰り、自分で使える杖を作る。
キツキはもう一度杖を握って小さな炎を浮かべ、杖の内部を流れる魔力へメガネの焦点を合わせた。
炎の強さに関わる経路や、形を保つための負担を軽くしている部分、杖へ流した魔力の巡り方まで、特徴的な箇所を何度も目で追い、頭の中で形をなぞっていく。
すべてを覚えられるわけでも、今見えているものが全部とも限らない。
それに、材料の手に入れ方も作り方も分からず、同じ物を作るのは相当難しいだろう。それでも、完全に再現する必要はない。まずは魔法を保つための負担を軽くし、自分が使えて持ち歩ける形にできればいい。
今の自分に作れるかどうかは、まだ分からない。
だが、欲しい。
その気持ちだけは、考えるまでもなかった。
重要な部分は、ひとまず覚えたつもりだった。だが、細かな経路を追い続けた目の奥は、重く痛んでいた。
キツキは魔力を切って炎を消し、杖を元の岩へ戻すと、メガネを外して指で目頭を押さえた。思っていた以上に、目を使いすぎていたらしい。
それでも、まだ見落としている場所があるような気がした。
目の痛みが引いたら、もう少しだけ確かめたい。
「帰るぞ」
すぐ近くでホンペクの声がした。
「おい、待て! もうちょっとだけ――」
言い終えるより先に、濡れた靴のすぐ上へ柔らかなものが触れた。
キツキが目を開ける間もなく、浅い水も、黒い岩も、夕空も消えた。足元を失ったような浮遊感が、一瞬だけ全身を包む。
その感覚が消えたあとに伝わってきたのは、浅い水の上を渡っていた風とは違う、閉じた室内の暖かな空気だった。
続いて、石けんや髪に使う香り、淹れたばかりらしい紅茶、それに衣服や布へ残った淡い香りが混じって鼻へ届く。その中には、青薔薇を思わせる覚えのある香りも混じっていた。
いくつもの香りが重なっているはずなのに、なぜかひどく甘く感じられた。
「おい、また変なところに飛ばしたんじゃ――」
そう言いながら目を開けた瞬間、キツキの声が止まった。
高価そうなソファーに座ったレニアが、赤い瞳でこちらを見ていた。
レニアの瞳がわずかに見開かれ、それから一度だけ瞬く。キツキは目を逸らすこともできず、その顔を見返した。
「……キツキ?」
名前を呼ばれたところで、キツキの思考が完全に止まった。
返事もできないまま見つめていると、普段とは違うレニアの姿が、遅れて意識に入ってくる。
レニアは制服ではなく、柔らかな布地の室内着をまとい、足元には室内履きを履いていた。銀色の髪はほとんど乾いていたが、肩に流れた内側と毛先には、まだわずかな湿り気が残っていた。
片手には髪を整えるための櫛を持ち、ソファーの前に置かれた低い卓には、湯気の薄く残るティーカップが置かれている。
背筋は伸びていたものの、いつものように隙なく整えられた姿とは違い、頬には入浴後らしい薄い赤みが残り、肩や目元からほんの少しだけ力が抜けていた。
王女でも、学院の優等生でもない。
他人に見せる予定のなかったレニアが、そこにいた。
先ほどまであの杖のことでいっぱいだった頭に、室内の甘い香りと、普段とは違うレニアの姿が一度に押し寄せてきた。ここが好きな少女の私室で、自分が勝手に立っているという事実まで遅れて追いつき、キツキは慌てて視線を逸らした。
制服の裾から落ちた水滴が、柔らかな敷物へ小さな染みを作った。
レニアの手にあった櫛が止まり、わずかに緩んでいた背筋が、いつも以上に伸びる。
「……どうして、あなたがここにいるの」
声は静かだった。
静かすぎた。
「いや、これは――」
自分の代わりに事情を説明させようと、キツキは足元のホンペクに視線を落とした。だが、その白い輪郭はすでに薄くなり始めていた。
「おい、待て」
ホンペクはこちらを見上げただけで、何も言わずに消えた。
人をとんでもない場所に放り込んでおいて、逃げやがった。
「キツキ」
静かな呼び声に、キツキの肩がびくりと揺れた。
「違うんだ。俺がやったんじゃなくて、ホンペクが――」
弁解しながら顔を上げたところで、レニアの赤い瞳と目が合った。
頭の中から、用意しかけた言葉が消えた。
「……つ、杖があったんだ」
部屋に沈黙が落ちた。
レニアが、ゆっくりと瞬く。
「……何を言っているの」
「いや、ホントにあったんだ! すごい杖で、炎が普段より強くなって、意識を外しても崩れ――」
「なぜ、私の部屋にいるのかと聞いているのだけれど」
「……その、ホンペクが勝手に転移したんだ。俺がここを指定したわけじゃない。嘘じゃないぞ! あ、それより、忘れる前に紙を借りて――」
レニアの赤い瞳が細くなり、キツキは本能的に口を閉じた。
頬の赤みは、もはや入浴後の火照りだけではないように見え、櫛を握る指にも少し力が入っている気がする。
「いいから」
レニアは扉を指した。
「出ていきなさい」
「いや、でも――」
「キツキ」
「……はい」
キツキは逆らわず、扉まで歩いて外へ出た。背後で扉がバタンと閉められる。
しばらく閉じた扉を見つめたまま、キツキはようやく息を吐いた。
弁解はした。だが、まともな説明にはなっていなかった気がする。それどころか、突然現れてレニアを驚かせたことを、謝ることさえできていない。
次にレニアと顔を合わせた時、何から話せばいいんだ。
ひとまず自分の部屋に戻ろうと、廊下の左右を見ると、見慣れない扉が並んでいた。床には柔らかな敷物が敷かれ、壁や灯りも見慣れたものとは少し違う。
遠くから少女たちの話し声が聞こえ、軽い足音がこちらへ近づいてくる。
キツキは閉じた扉をもう一度見た。
レニアの私室。
つまり、ここは女子寮だった。
チートではなく、もともと持ち合わせていた――自称IQ200の頭脳を働かせ、キツキは今の状況を整理した。
現在地、女子寮。
自分、平民の男子生徒。
たった今出てきた部屋、大国の王女の私室。
そう整理している間にも、足音は着実に近づいてくる。
このまま誰かが姿を現せば、その目に映るのは、女子寮へ忍び込み、大国の王女の私室から出てきた平民の男子生徒だ。事情は違う。だが、そうとしか見えない。
そのうえ、こうしている間にも、頭に刻んだ杖の情報が少しずつ曖昧になっていく。
さて。
俺は生きて帰れるのだろうか。




