第82話 いつか手にしてみたかった
「帰れる」
ホンペクがあっさりと言い、キツキの肩からわずかに力が抜けた。
「じゃあ今すぐ――」
「疲れた。ちょっと休む」
「……は?」
ホンペクは答えず、浅い水へ前脚をちゃぷんと下ろした。ほんのわずかに間があったのは、その最初の1歩だけだった。2歩目からは、何事もなかったように黒い岩の向こうへ歩いていく。
キツキは口を開きかけ、結局何も聞かずにその背中を追った。帰れるという言葉が本当なら、せっかく来たこの幻想的な場所を、もう少し見て回るのも悪くなかった。
靴底が水を押すたび、足元に映る夕空が細かく崩れる。水は浅いものの、歩いているうちに靴と制服の裾はすっかり濡れていた。
黒い岩の間には、内側を淡い光が昇る半透明の植物が生えている。キツキが近づくと、その光だけがわずかに速さを変えた。
触れようと手を伸ばすと、ホンペクが横から、キツキの手と植物の間へ白い身体を滑り込ませた。
「危ないのか?」
返事はなかった。ホンペクは身を引くと、そのまま再び先へ進んだ。
風が吹き、植物同士が触れ合った。硝子を軽く打ち合わせたような音が、浅い水の上へ静かに広がる。
頭に浮かぶのは、水を踏む音と硝子の音だけだった。条約の年号も、魔法史上の事件も、前の世界のことさえ、今は遠い。歩いているうち、3日間ずっと詰まっていた頭が少しずつほどけていった。
やがて、ホンペクが足を止めた。
黒い岩に囲まれた一角だけ、浅い水が途切れている。そこに1本の杖が立てかけられていた。
長さは、キツキの腕より少し長い。黒に近い灰色の木で作られ、わずかに曲がっている。宝石や金属は付いておらず、目立つ装飾もない。古びて見えるのに朽ちた様子はなく、握る部分だけが長く使い込まれたように滑らかだった。
前の世界の物語やゲームでは、魔法使いといえば杖だった。だから、この世界に来てから、杖を持つ魔法使いをほとんど見かけなかったことが、ずっと不思議だった。
以前、その理由をブロムに聞いたことがある。ブロムは少し考えてから、こう答えた。
「使う人もいるけど、慣れてる人なら手の方が早いと思うよ」
杖の用途は、魔法を放つ位置や方向を定めやすくするものらしい。扱いに慣れていないうちは術式を安定させる助けになるが、杖先を通すぶん、細かな調整には余計な手間がかかる。だから熟練するほど、手で直接扱う方が早くなるという。
それでも、物語の中で杖を振るう魔法使いを見るたび、いつか自分も杖を手にしてみたいと、密かに思っていた。
そして今、杖を手にする機会が、目の前にある。
キツキはホンペクを見た。
「一応聞くけど、これ、お前のか?」
「ちがう。あいつの」
「あいつ?」
ホンペクは杖を見たまま、少し黙った。
「もういない」
「……誰なんだ?」
それ以上は答えず、ホンペクは黒い岩へ伏せ、前脚に顎を乗せた。待っていても、続きを話す気はなさそうだった。
キツキは杖に視線を戻した。誰の物だったのかも、なぜここに残されたのかも分からない。それでも、握らないという選択肢があるだろうか。
ない。
キツキは杖を握った。
前の世界の映画やアニメのように、派手な光が弾けることも、身体に力が流れ込むような感覚もなかった。見た目より軽く、手に馴染む。ただ、それだけだ。
こんな、人の気配ひとつない幻想的な場所に残されていた杖だ。何かしら特別な力を秘めていると、どこかで期待していた。
「……普通の杖なのか?」
試しに手のひらに魔力を集めた瞬間、指先に向かうはずだった魔力の一部が横へ逸れ、杖の内部に流れ込んだ。
「っ」
キツキは反射的に魔力を止めた。魔力を吸い取られたのではない。手のひらに向かうはずだった流れが、途中から杖の中に枝分かれしたような感覚だった。
懐からメガネを取り出してかけると、灰色の木の中には、細い魔力の道が幾重にも走っていた。流した魔力は、そのうちの1本に自然に入り込んでいく。
「なんだ、これ……」
この道に魔力を流したまま魔法を使えば、どうなるのか。
普段なら、手のひらに集めた魔力だけで炎の形を作る。今回は、その一部を杖に流したまま、小さな炎を浮かべてみた。
だが、炎は大きく揺らぎ、火の粉を散らして崩れた。
流し込みすぎたらしい。
今度は杖に流す量を抑え、もう一度炎を浮かべた。
すると、拳より小さな炎は揺れることなく空中に留まり、静かに燃えていた。それだけではない。込めた魔力は普段と変わらないはずなのに、炎はいつもより明るく、伝わってくる熱も強い。
「……強くなってる?」
だが、妙だった。炎そのものは普段より強いのに、いつものように意識を張りつけている感覚がない。
試しに、炎へ向けていた意識を少しずつ緩めていく。そのまま、普段ならもう形を保てないところまで意識を外す。
「嘘だろ……」
それだけ意識を外しても、炎の強さは落ちていない。しかも、形を保つためにかかる頭の負担は、いつもより軽かった。
そこで魔力を切ると、炎はあっさりと消えた。勝手に残り続けるわけではないようだ。
キツキは杖を握り直し、灰色の木肌を見つめた。その指には、先ほどまでよりもはっきりと力がこもっていた。
魔力は余っているのに、頭が先に動かなくなる。それが、今のキツキの課題だった。
――この杖なら、余らせていた魔力をもっと引き出せるかもしれない。




