第81話 ここ、いいだろ
学院最古の塔――原初の塔。
灰白色の石を積み上げた塔の最上階に、学院長室はあった。細く高い窓から差し込む月明かりが、古い木机の上に広げられた1枚の紙を照らしていた。
紙には、7つの魔力経路が互いに接続された複合術式が描かれていた。
「その問題を、1年生の考査に入れたいのかい?」
学院長が顔を上げる。
向かいに座るエスト・リバーは、くすんだ灰褐色の髪を無造作に乱し、楽しそうに目尻を下げた。こめかみには白髪が混じっているが、研究の話をする時だけは、年齢を感じさせないほど目が輝く。
「ああ。最後の1問を、これに差し替えてもらいたくてね」
「総魔力供給量を増やさず、経路の追加も削除もしない。それで長時間安定させろ、か。……まだ答えの見つかっていない問題だったはずだが、成績を不必要に損なうことにはならないかね」
「ははは! もとより君たちも、最後の問題を正解させるつもりはなかったんだろう?」
「それは、そうだが」
「君もずいぶん丸くなったものだね。若い頃なら、生徒の成績より先に、自分が解けるかを気にしただろうに」
「君が変わらなさすぎるんだよ、エスト」
学院長は小さく笑い、再び術式図へ目を落とした。
「入学時の答案と、その後の別解を見たのかい?」
「ああ。あれだけ面白い考え方をする1年生がそろっているなら、未解決問題を前に何を書くのか見てみたくもなるだろう?」
「それで、こんなものを持ち込んだのか」
学院長は呆れたように言ったが、その声に拒む響きはなかった。
「分かった。この問題へ差し替えよう」
「そうこなくては」
「ところで、プライムフォーラムの準備はどうだい?」
「準備そのものは、おおむね順調だ。ただ、ここ数年は少し難しくてな」
「何かあったのかい?」
「過去の発表が積み上がりすぎたんだ。見る側の目ばかりが肥えて、若い学生や研究者が何を持ち込んでも、『以前にも似たものがあった』で終わってしまう」
エストは紙束の端を指でそろえながら、苦笑した。
「新しいものを見るための場が、いつの間にか過去と比べるだけの場になりつつあるんだ」
「長く続いていれば、そういう時期も来るか」
「君のところの1年生たちが、新しい風でも吹かせてくれればありがたいがね」
「今年は、その風を期待してもいいかもしれないよ」
エストは片方の眉を上げ、それから声を立てて笑った。
「はは! 面白い答えを書く子たちではあったが、さすがに七環術式までは届かないさ」
学院長は何も答えず、ふと窓の外へ目を向ける。月明かりに照らされた学院を見下ろす横顔に、わずかな笑みが浮かぶ。
机の上には、7つの魔力経路が複雑に絡み合った術式図が残されていた。
◇
キツキは、同じ行を3度読んでいた。
文字は読める。1文ずつなら意味も分かる。だが次の行へ視線を移した途端、直前の内容が頭から抜け落ちた。
考査の発表から3日。
授業後も魔法史や過去の事件、条約を詰め込んできたが、そろそろ限界らしい。
属性魔法の始祖を思い出そうとすれば、前の世界の科学者が浮かぶ。世界も専門分野も違うというのに、頭の中では同じ列に並び始めていた。
そういえば今日のキュルも、目の下に見慣れない隈を作っていた。心なしか、少しげっそりしていた気もする。
自分も似たような顔をしているのかもしれない。
「これ以上やっても、余計に混ざるだけだな……」
キツキは教本をパタンと閉じた。
少し街を歩いて、頭を冷やそう。夕食までなら時間もあるし、コーラでも買えば糖分補給にもなる。別に、ただ飲みたいだけではない。
そう決めて制服のまま立ち上がったところで、部屋の中央に白い獣がふいに姿を現した。
キツキの肩がわずかに跳ねる。こうして前触れなく現れるのには、何度見ても慣れない。
「……今日は俺も疲れてるんだ。構ってやれないぞ」
ホンペクは返事をせず、キツキを見上げたまま近づくと、白い前脚で足首に触れた。
「え?」
足元の感覚が消え、身体だけが一瞬その場に置き去りにされたような浮遊感に襲われた。周囲の音が途切れ、目の前の景色が押し潰される。
ムルガドに空間を移された時と似ている――そう気づいた直後、靴底が硬い地面を踏んだ。
また、どこかのゲートへ放り込まれたのか。
身構えながら顔を上げたキツキは、目の前の光景に息をのんだ。
足元には乾いた黒い岩が広がり、その周囲を満たす浅い水には、日が沈みかけた空の青と淡い橙色が映っていた。
水の中からは、細く半透明な植物が無数に伸び、茎の内側を淡い光がゆっくりと昇っている。同じ光景が水面にも映り込み、空が上下に2つあるように見えた。
風が通り抜けるたび、半透明の茎同士が触れ合い、硝子の欠片を静かに鳴らすような音が、湿原の奥へ連なっていった。
キツキは言葉を失った。肩に残っていた緊張さえ、いつしか意識から消え、ただ目の前に広がる光景を見つめていた。
景色に引かれるように1歩だけ進むと、水面に映った光が揺れる。
この世界に来てから、魔法もゲートも、前の世界ではあり得なかったものをいくつも見てきた。そのたびに、自分が異世界にいることを実感してきた。けれど、これはそのどれとも違う。こんな景色が本当に存在するなど、想像したことすらなかった。前の世界まで含めても、これほど綺麗なものを見た覚えはない。
しばらく立ち尽くしていると、白い背中が視界の端を横切った。
ホンペクが、半透明の植物の間に向かって、とことこと歩いていく。
そこでようやく、キツキは我に返った。
「おい、ここどこだよ!」
ホンペクは足を止め、振り返った。
「ここ、いいだろ」
「それは見れば分かるんだよ! 俺が聞いてんのは、ここがどこかってことだ!」
ホンペクは答えず、何事もなかったように前を向いた。
あまりに自然な無視に、キツキの口元がわずかに引きつる。返事を待つのを諦め、改めて周囲を見回した。
街道も、建物も、人影もない。ミザルがどの方向にあるのかすら分からなかった。
「……なあ。これ、ちゃんと帰れるんだよな?」




