第79話 もう、それでいいんじゃないだろうか
「……なあ、レニア。神霊って知ってるか?」
この目の前の男は、ふざけているのだろうか。
レニアはキツキを見つめた。
先ほどまで何も言わずにホンペクを見ていたかと思えば、急にメガネをかけ、今度は神霊について尋ねてきた。
このタイミングで神霊について聞くということは、つまり、そういうことなのだろう。
つい先ほど、キツキが自分から話したくなるまで待とうと決めたばかりだ。
その決意を試すにしても、少しくらい時間を置いてほしい。もう少し隠そうとする努力があってもいいはずだ。
いっそ、1度くらい殴った方がいいのだろうか。
「……レニア?」
返事がないことを不思議に思ったのか、キツキが首を傾げる。
だが次の瞬間、わずかに眉を寄せ、反射的にメガネを外した。眉間を押さえたのも一瞬で、そのまま服の内側へ戻す。
レニアは小さく息を吐き、喉まで出かかった問いを飲み込んだ。
ホンペクが神霊なのかとは聞かない。キツキから聞かれたことにだけ答える。
「……知ってはいるわ」
どうにかそこまで口にして、レニアは一度言葉を切った。
「といっても、古い物語や伝承に出てくる存在としてだけれど」
「物語?」
「ええ。精霊そのものが、今でも分かっていないことの多い存在でしょう。その中でも神霊は、普通の精霊とは異なる、特別な存在として語られているわ」
レニアは足元のホンペクに目を落とした。
白い獣は、自分たちの話など気にしていない様子で、その場に座っている。
「人間には想像もつかないほど長く存在して、強大な力を持つ。そういう話が多いわね。ただ、語られる力や姿は物語によって違うわ」
「じゃあ、実際にどんなものなのかは分からないのか」
「そもそも、実在が確認された記録はなかったはずよ。少なくとも、私は聞いたことがないわ」
「伝説上の存在ってことか……」
キツキはホンペクを見ながら考え込んだ。
それなら、学院で正体を特定できなかったのも無理はない。普通の精霊獣より格が高い程度だと思っていたが、まさか実在そのものを疑われる存在が、こうして目の前にいるとは。
キツキが黙り込んでいる間に、ホンペクがレニアの右手へ前脚を伸ばした。
撫でていた手の甲に肉球が押し当てられ、触れた場所からわずかな温かさが広がる。
「……何?」
ホンペクが前脚を離す。
レニアの手の甲には、茶色い肉球の跡が残っていた。
「あ」
キツキもそれに気づいた。
「悪い、レニア。足が汚れてたみたいだ」
キツキは肉球の跡を払おうと手を伸ばした。
だが、触れる前にその手が止まった。
「あれ?」
レニアも自分の手の甲を見た。
確かにそこにあったはずの肉球の跡はどこにもなく、先ほど感じた温かさもすでに消えていた。
「……見間違いだったか?」
「私にも見えたわ」
「だよな」
そんな2人をよそに、ホンペクは何事もなかったように、再びレニアの手にすりすりと頭を寄せる。
レニアはその白い頭を見下ろした。
神霊が気に入った人間に印を残す。そんな物語も、どこかにあった気がする。
けれど、あれはおとぎ話だ。
実在した記録すらない存在について、人が作った物語にすぎないはずだ。
――まさかね。
レニアはもう一度手の甲を確認したが、やはり何も残っていなかった。
キツキは、消えた肉球の跡をそれ以上気にすることなく、ホンペクに視線を戻した。
結局、分かったことより、分からないことの方が多い。
学院に連れてくれば何か分かると思っていたのに、ホンペクは実在すら疑われる神霊かもしれず、能力は不明なまま。それでも、面倒を見るのは自分の役目らしい。
そもそも、今日は何をするために街へ出たのだったか。
金策だ。
授業や鍛錬と両立できる稼ぎ方を探しに行ったはずなのに、結局それらしい方法は思いつかなかった。メガネを使う案も、見知らぬ相手に能力を見せる危険を考えて保留したままだ。
金は増えず、面倒ごとばかりが増えた。今日はもう、散々だ。
キツキは半ば現実逃避するように、目の前のレニアを見た。
街では、何を考えているんだと自分で打ち消したはずだった。
だが、金策は進まず、面倒ごとだけが増えた今となっては、やはりレニアのもとで働くのが一番いいような気さえしてくる。
もう、それでいいんじゃないだろうか。
「……なあ、レニア」
「何?」
「使用人とか、募集してないか?」
レニアが目を瞬かせた。
「……何の話?」
口に出してから、キツキ自身も何を聞いているのだろうと思った。
「いや。忘れてくれ」
「……そう」
レニアは短く答えた。けれど、その言葉どおり忘れる気にはなれなかった。
キツキから視線を外し、今の質問を頭の中でもう一度繰り返す。
まさか、今の言葉にも、先ほどと同じように何か意味があるのだろうか。
使用人を雇うこと自体に関わるのか。それとも、自分の周囲について遠回しに伝えようとしているのか。
考えても答えは出ない。けれど、キツキが何気なく口にしたとも思えなかった。
ならば、気に留めておいた方がいいだろう。
そうして、ただの現実逃避から出た一言は、レニアの中で意味深な忠告へと変わった。そのことを、キツキは知る由もなかった。
◇
同じ日の夕方前、ブロムは基礎鍛錬区画で剣を振っていた。
ダンジョン実習から数日が過ぎ、ようやく療養棟を出ることを許されたばかりだった。
傷はすでに塞がり、身体もほとんど普段どおりに動く。ただ、失った血が完全には戻っていないため、過度な運動は控えるようにと言われていた。
傍から見れば、ブロムの「いつもの鍛錬」は十分に過度なものだった。
だが、幼い頃からそれを毎日のように繰り返してきた本人に、その自覚はない。彼にとっては、身体が動くのに剣を握らず休み続ける方が、よほど落ち着かなかった。
だから今日も、何度も剣を振る。普段より少し早く息が上がっていたが、この程度なら問題ない。
剣を振るたび、供物の森での光景が浮かんだ。
フォールンがキツキへ向かおうとした時、ブロムはその進路へ立った。避けることはできたはずなのに、黒い爪を身体で受けた。
自分が傷ついても、相手を止められるなら構わない。あの時は、迷うことなくそう判断した。
だが、今の自分なら同じ選択はしない。仲間と連携し、敵を別の位置へ誘導する。防御して次の機会を待ち、自分も生き残れる方法を最後まで探すはずだった。
振り下ろす剣は、幼い頃から積み重ねてきた型どおりに動く。勇者候補と認められる以前から、多くの師に学び、技術だけでなく、状況を見て判断する力も鍛えてきた自負がある。
だからこそ、あの時の自分が理解できなかった。
結果として、仲間を守ることにはなった。けれど、あの瞬間に誰を守りたいかを考えていた記憶はない。ただ、どうすれば確実にフォールンを止められるか。それだけを選んでいた。
あれは、本当に自分の判断だったのだろうか。
ゲートにはまだ分かっていないことが多い。あの空間に特有の作用があったのかもしれない。フォールンから何かしらの影響を受けた可能性もある。あるいは、極限状態で判断が偏っただけなのかもしれない。
どれも確かめる手段はなく、原因は分からない。どの可能性を並べても、あの時の迷いのなさに納得できるわけではなかった。
ブロムはその違和感ごと押し込めるように、再び剣を振り上げる。
それでも、あの時の自分が、あの戦い方でなければ勝てないと判断したことだけは確かだった。ならば、答えは1つしかない。
次は、誰1人犠牲にせず、フォールンを圧倒できるほど強くなればいい。




