第76話 せめて少しは取り繕ってくれ
だが、さすがにそのまま走って逃げるわけにもいかないだろう。
「悪い。急用を思い出した」
「……急用ですか?」
「ああ。かなり急ぎのあれだ」
キツキは返事を待たずに歩き出した。走ってはいないが、普段より少しだけ足を速める。
少々露骨だった気もするが、これだけ急いでいる様子を見せれば、さすがに追ってはこないだろう。問い詰められる前に離れられたことに安堵して、キツキは肩の力を抜いた。
危なかった。これで何とか切り抜けられた――そう思った直後、後ろから足音が聞こえてきた。
「その子とは、どこで出会ったんですか?」
キツキは足を止め、ゆっくりと振り返った。
フィリンが、フードをかぶったまま何事もなかったようについてきていた。視線は相変わらずキツキではなく、隣にいるホンペクへ向いている。
普通、あんなふうに言われたら、察して見送ってくれるものじゃないのか。
「えっと……なんでついてくるんだ?」
「まだ聞きたいことがあるので」
「いや、俺は急ぎの用事が――」
「はい。邪魔はしません」
フィリンはキツキの言葉を遮るように答えた。
「もう少し、その子を見ていてもいいですか?」
「……結構、急ぎの用事なんだけど――」
「お気になさらず」
「……」
どうやらフィリンの基準では、邪魔さえしなければ、ついていっても問題はないらしい。
キツキはもう一度何か言おうとしたが、フィリンの視線はすでにホンペクへ戻っていた。これ以上言っても無駄だと悟り、諦めて前を向いた。
隣にはホンペクがいて、その向こうにはフィリンが並んでいる。
可愛い女の子が、こちらが遠ざかろうとしてもついてくる。状況だけなら、もう少し嬉しくてもよさそうなものだ。
だが、フィリンが見ているのは最初から最後までホンペクだけだった。
――なんだろう。このまったく嬉しくない感じは。
フィリンはそんな胸中には気づかず、黙って続きを待っている。
「それで、なんだっけ。こいつとどこで出会ったのか、だったよな」
「はい」
「俺が見つけたわけじゃないんだ。元々こいつと一緒にいた人から、一時的に預けられてる」
「その人は、この子が何なのか知っているんですか?」
「精霊獣の類だとは言ってたけど、それ以上は俺も聞いてないな」
実際には、聞かなかったというより、聞く間もなく話が決まってしまったという方が近い。半ば押しつけられるように預けられ、気づけばホンペクを連れて帰ることになっていた。
「何か、特別な力を使ったことはありますか?」
「消えたり出てきたりはするな。預けた人の話だと、霊体化できるらしい」
「霊体化……ほかには?」
「知らないな」
「……そうですか」
フィリンは少し残念そうに答えたが、それでもホンペクから目を離さなかった。
「触ってみてもいいですか?」
「別にいいんじゃないか」
キツキはそう答えながら、隣を歩くホンペクの頭に手を伸ばした。そのまま白い毛を乱すように、わしゃわしゃと撫でる。
「もっと丁寧に撫でろ」
ホンペクが不満そうに声を上げた。
キツキは何も返さず、少しだけ手の動きを弱めた。
その様子を見ていたフィリンが、慎重にホンペクに手を伸ばす。指先が白い毛に触れても、ホンペクは嫌がらなかった。
フィリンが優しく頭を撫でると、ホンペクは満足そうに目を細め、撫でられるがままになった。
最初は正体を確かめるように真剣な顔をしていたフィリンも、撫でているうちに目元を緩めていく。
近寄りがたい少女に見えたが、こうしていると普通の同年代に見える。
これがギャップ萌えというやつだろうか。
「やっぱり、この子の言っていることが分かるんですね」
不意にそんなことを言われ、キツキの肩がわずかに跳ねた。
誤魔化すようにフィリンへ顔を向ける。
「……どうしてそう思うんだ?」
「今、鳴いた後に撫で方を変えたので」
見られていたらしい。
ここまで気づかれているなら、少しくらい認めた方が自然かもしれない。
「会話してるわけじゃない。ただ、こいつが何を言いたいのか、なんとなく分かる時があるんだ」
「どうしてですか?」
「それが俺にも分からない」
フィリンは何かを考えるようにキツキとホンペクを見比べたが、それ以上は聞いてこなかった。
代わりに、何かを思い出したように顔を上げる。
「そういえば、私、まだ名乗っていませんでした」
これだけ一方的に質問しておきながら、今まで忘れていたらしい。
「私はフィリンです」
名前はすでに知っていたが、ここで余計な情報を与えれば、また質問が増えそうだ。
キツキは初めて聞いたふりをして、黙ってうなずいた。
「キツキだ」
キツキが名乗ると、フィリンはそこで初めて、正面からその顔を見た。
ほんの一瞬だけ視線を止めた後、今度はキツキの制服へ目を落とした。
「……ギレルの生徒だったんですね」
「今まで気づいてなかったのか?」
「その子ばかり見ていたので」
「せめて少しは取り繕ってくれ」
「それで、どこへ向かっているんですか?」
完全に無視された。
だんだん、この子のことが分かってきたぞ。
よし。俺も、もう気を遣うのはやめよう。
「ギレルだ。こいつがまた姿を見せたら、知らせるように言われててな」
フィリンは納得したようにうなずくと、再びホンペクへ目を向け、その後もいくつか質問を重ねた。
キツキが答えられる範囲で返しているうちに、道の先にはギレル学院の建物が見え始めていた。
学院の門が近づいた頃、少し離れた道から、ひときわ豪奢な馬車が現れた。その目立つ姿に、キツキとフィリンは自然と視線を向ける。
「フォルテア王家の馬車……」
フィリンの視線の先で、馬車の側面に刻まれた王家の紋章が光を受けていた。
馬車は2人の目を引いたまま学院の門前まで進み、ゆっくりと止まった。
扉が開き、中から銀髪の美少女が降りてくる。
ご主人様――いや、レニアだった。
だが、その表情は普段よりも少し暗く、馬車から降りる足取りにも、どこか重さがあるように見えた。
レニアは学院へ目を向けるより先に、キツキを見た。そのそばにフード姿の少女がいることにも気づくと、赤い瞳がわずかに鋭くなる。
――まずい。
何がまずいのか説明できないが、これは非常にまずい状況に見える。
レニアから見れば、学院の外で見知らぬ少女を連れて歩いているように見えるだろう。しかも、フィリンはひと目で印象に残るほど整った容姿をしている。
別にやましいことは何もない。それなのに、なぜか今すぐ弁解しなければならないような気がした。
けど、何も聞かれていないのに言い訳を始めたら、それはそれで怪しく見えないか。
――一体どうするのが正解なんだ。
答えが出ないままキツキが1人で慌てていると、隣にいたフィリンが足を止めた。
「まさか……フォルテア王国の第三王女……」
そう小さくこぼしたきり、フィリンはレニアを見つめたまま固まっていた。
冒険者にも知られているくらい、フォルテアの王女というのはすごい存在らしい。
レニアがこちらに歩いてくる。
フィリンは我に返ると、反射的にフードを下ろした。肩に流れた青い髪をそのままに、レニアへ礼を取った。
その所作は、キツキが思っていたよりもずっと整っていた。
レニアの視線が、キツキからフィリンへ移る。
すぐに声をかけることはなく、青い髪と、その顔を確かめるように見つめていた。
フィリンも礼を解かないまま、黙ってレニアの言葉を待っている。
2人の間に、短い沈黙が流れた。
足元では、ホンペクだけが興味もなさそうに座っていた。
やがてレニアは、何かを思い出したようにわずかに目を見開いた。
「あなたは確か――」




