第71話 今はそれでよかった
エリルは事情聴取を終え、自室のベッドに横たわっていた。
背中の傷は学院の医療班によって塞がれていたが、身体の奥に残る重い疲労までは消えていない。今日は部屋で安静にするよう言われていた。
普段なら、そうした言いつけに素直に従う性分ではない。だが今日だけは、自分にも休息を許すことにした。
ベッドの傍らでは、自分の事情聴取を終えてから訪ねてきたキュルが、椅子に座ったまま眠っている。上半身をベッドに預け、組んだ腕の上に顔を乗せたままだ。規則正しい寝息に合わせて、小さな背中がゆっくりと上下している。
エリルは、その寝顔を見つめながら今回の結果を数え直した。
キュルはここにいる。ブロムも、レニアも、キツキも生きて学院へ戻った。
クルエルヴェールを追うムルガドの耳に届くよう、実習前に餌は撒いていた。彼が動くかも、必要な時に間に合うかも分からなかったが、それでもムルガドは現れ、5人全員が帰還した。
予測を外したことも、自分たちが傷を負ったことも、レニアとの問題が残ったことも、すべて差し引いたうえで、結果だけなら大成功だった。
もっとも、賭けに勝ったことと、計画が正しかったことは同じではない。
キツキがゲートに飲み込まれた時点で、想定は大きく外れていた。レニアの怒りが、間違っていたとも思わない。
そして、あのゲートが偶然に発生したものだとは思えなかった。
発生条件も、対象や転送先を選べるのかも分からず、次も同じ手段で来るとは限らない。考えることはいくらでもある。
思考を続けるだけで、別の意味で頭が痛くなってきた。
エリルは小さく息を吐き、キュルの髪に手を伸ばした。薄い水色の髪は、指先に触れると柔らかかった。ゆっくり撫でても、キュルは目を覚まさない。
その寝顔を見つめるエリルの表情が、静かにほころんだ。
先のことは、もう少し後で考えればいい。今くらいは、全員が帰ってきたことを喜んでもいいだろう。
少なくとも今回は、誰も失うことなく。
◇
自室に戻ってからも、学院長の言葉が頭に残っていた。
「祖父は、私の代に、私たちの常識だけでは測れない子が現れるかもしれないと言っていた。疑うより先に話を聞け、とね」
まさか、あんなことを言われるとは思わなかった。
あのあとも会話は続いたが、学院長がキツキを祖父の言う「子」だとどこまで疑っているのかは、結局分からなかった。
ただ、何かを打ち明けるよう迫られなかったことだけは確かだった。
キツキはベッドに腰を下ろし、机の上のメガネへ目を向けた。今日はもう使うつもりはなかったが、ふと、あの白い犬のことが頭に浮かんだ。
そういえば、ホンペクをメガネで見たことはない。精霊獣についての知識もない以上、何者なのか、一度くらい確かめておきたい。
「ホンペク、いるか?」
返事はなかった。もう一度呼んでも、白い犬は姿を見せなかった。
「ま、出てきた時でいいか」
ホンペクのことは、ひとまず置いておく。
机の上のメガネから目を離した時、ブロムの顔が浮かんだ。
見舞いに行こうとは思っていた。だが、なぜか今まで足が向かなかった。
傷は塞がったと聞いているが、失った血や体力まで戻ったわけではない。自分を庇って深手を負った相手に、まだきちんと礼も言えていなかった。
今日行かなければ、また何か理由をつけて先延ばしにする気がした。
それでも、キツキはしばらく座ったまま動かなかった。
行かない理由は、もう思いつかない。
ひとつ息を吐いてからようやく立ち上がり、部屋を出た。
◇
キツキは正門近くの店で、見舞い用の果物を3種類ほど見繕ってもらった。赤いリンゴや梨、ブドウが、小ぶりの籠に収められている。
医療棟に着くと、療養室の前には見舞い品を手にした生徒たちが順番を待っていた。花を抱えた女子生徒の姿もある。
ダンジョン実習ではずっと同じ班で行動し、誰もブロムを特別扱いしていなかった。そのせいか、普段はこれほどの人気者だったことを、キツキはすっかり忘れていた。
これだけ待つなら、また別の日でもいいかもしれない。
一瞬そう考えたが、今日を逃せば、また理由をつけて先延ばしにするだけだ。
キツキは医療班の職員から面会は短時間で切り上げるよう言われ、列の最後に並んだ。
俺はアイドルにでも会いに来たのだろうか。
そんな場違いな考えを浮かべているうちに列は進み、やがてキツキの番になった。職員に促され、療養室の中へ通される。
ブロムは1人で、ベッドの上に背を起こしていた。顔色は普段より白かった。それでもキツキを見ると、いつもの人当たりのよい笑みを浮かべた。
「キツキ。来てくれたんだね」
「ああ。具合はどうだ?」
「傷はもう塞がっているよ。まだ医療棟から出ないように言われているけどね」
「出ようとしたのか?」
「少し歩けるか試しただけだよ」
「まだ寝てろって言われてるんだろ」
「そうなんだけどね」
ブロムは悪びれた様子もなく笑った。穏やかな顔をしているくせに、案外無茶をする。普段の鍛錬ぶりを思えば、じっとしていられないのも不思議ではなかった。
部屋の隅には、花束や小さな包み、果物の籠がいくつも並んでいた。中には、見舞いというより贈り物に近い、妙に華やかな包みまである。
キツキは手にした籠へ目を落とした。
「……今さら、これじゃ見劣りするな」
「いや、ありがたくいただくよ」
ブロムは素直に笑い、差し出された籠を傍らの台へ置いた。それから、空いている椅子を目で示す。
キツキはそこへ腰を下ろした。
言わなければならないことは決まっていた。けれど、いざブロムを前にすると、なかなか口から出てこない。
わずかな沈黙のあと、キツキはようやく口を開いた。
「お前がいなかったら、たぶん死んでた。……ありがとな」
「それは僕も同じだよ。キツキがいなければ、あのフォールンには勝てなかった。それに、傷も治してもらったしね」
「一番ひどい傷を治したのはエリルだ。礼ならあいつに言ってくれ」
「もちろん、彼女にも言うよ。でも、君にも間違いなく助けられた」
穏やかに言い切られ、キツキは視線を逸らした。真正面から感謝を返されるのは、どうにも照れくさい。
それをごまかすように、話題を医療棟での過ごし方に変えた。
キツキも以前ここで休まされていたため、時間がやけに長く感じることや、少し動くだけで注意される窮屈さには覚えがあった。
まさかそんな話で盛り上がるとは思わなかったが、会話は思いのほか弾んだ。
こうして話していると、いつものブロムだ。そう思った途端、ゲートの中で見た姿が一瞬だけ脳裏に浮かんだ。
あれは何だったのだろう。
いや、あの時は疲れていた。目の前にはフォールンもいて、いつ誰が死んでもおかしくない状況だった。少し違って見えただけなのだろう。
ここへ来て、こうして話せた。これ以上、ブロムを避ける理由はない。
キツキにとって、ブロムはもう仲間なのだから。




