第68話 ようやくの帰還
ダルマティアが消えた石床には、小さな黒い革袋だけが残されていた。
ムルガドは5人へ向けていた視線を落とすと、革袋を拾い上げた。中から掌に収まるほどの魔道具を取り出し、軽く魔力を流す。
だが、魔道具は反応しなかった。
「やっぱり、あいつらの黒い魔力じゃねえと動かねえか」
ムルガドは魔道具を革袋に戻し、そのまま懐に収めると、改めて5人へ向き直った。
「……で、俺をここまで呼びつけたのは誰だ?」
誰もすぐには答えなかった。
ムルガドの視線が5人の間を巡り、キュルに支えられたエリルのところで止まる。
「ポルテュンの娘か」
エリルは浅い呼吸を整えながら、わずかに口元を緩めた。
「クルエルヴェールがここに現れるかもしれねえ。そんな情報で俺を釣ったのは、嬢ちゃんだな?」
「……何のことでしょう」
エリルは、何も知らないような顔で答えた。
ムルガドはしばらくその顔を眺めていたが、それ以上問い詰めることはなかった。
「名乗る気はないみたいだな。まあいい」
本当にエリルが呼んだのか。
何も知らないように微笑む横顔からは、答えを読み取れなかった。
だが、ムルガドの声と乱れた橙色の髪を改めて見た瞬間、キツキの中で別の記憶がつながった。
ミザルの街で、魔道具店にいた大柄な男。
あのときの男が、ムルガドだったのだ。
素性が分かったわけではないが、まったく見知らぬ相手よりはいくらか安心できた。
ムルガドの視線がエリルから離れ、レニアに移る。
「そっちは、フォルテアの第三王女か」
「はい」
レニアは消耗を悟らせまいと、姿勢を崩さずに答えた。
ムルガドはその姿を眺め、わずかに口元を緩めた。
「べっぴんさんだな。あんたが女王になりゃ、フォルテアの未来も明るそうだ」
レニアは一瞬だけ目を見開いた。
その言葉を逃すまいと、すぐにムルガドをまっすぐ見返す。
「でしたら、私を支持していただけませんか」
ムルガドは一瞬だけ目を丸くし、困ったように笑った。
「悪いな。そういう政治の話は、どうにも苦手でな」
「……残念です」
レニアはわずかに目を伏せた。それ以上食い下がることはなかった。
ムルガドは通路の奥へ顔を向け、何かを確かめるように目を細めた。それもほんの一瞬だった。
「歪みも消えたか」
独り言のように漏らし、再び5人に視線を戻した。
「とりあえず外に出るか。動くなよ」
「え?」
キツキが聞き返すより早く、周囲の空間が大きく揺らいだ。
石壁も床も、そこに立つムルガドの姿さえ、引き伸ばされるように歪んでいった。
次の瞬間、足元の感覚が消えた。
◇
「第7入口の空間接続、正常化しました!」
報告を受けたガルドが、すぐに入口へ向き直った。
「救出班、入るぞ。治療班はここで待機――」
その言葉が終わるより先に、入口前の空間が歪んだ。
騎士団員たちが一斉に身構える。
だが、現れたのは、乱れた橙色の髪を持つ大柄な男と、行方の分からなくなっていた5人の生徒だった。
キツキはブロムを支え、キュルはエリルに肩を貸している。レニアも自分の足で立っていたが、その顔には濃い疲労が残っていた。
ガルドの表情が変わった。
「攻撃するな! 治療班、5人の状態を確認しろ! 騎士団は入口と周囲の空間反応を警戒!」
指示を受け、待機していた者たちが一斉に動き出した。
治療担当がブロムとエリルのもとへ駆け寄る。
聞き覚えのある声を聞き、迷いなく差し伸べられた手を見て、キツキはようやく自分たちが戻ってきたのだと実感した。
肩を貸していたブロムを治療担当へ預ける。
ガルドは5人の救護が始まったことを確認してから、大柄な男に向き直った。
直接言葉を交わすのは初めてだったが、ガルドもムルガドの顔と名は知っていた。
「生徒たちを連れ戻してくれたこと、感謝する」
「礼はいらねえ。俺はたまたま来ただけだ」
ムルガドの視線が一瞬、エリルへ向いた。
エリルはキュルと治療担当に支えられながら、何も言わずに微笑んでいる。
「中で何があった?」
「フォールンが1体いた。もう始末した」
ガルドの目が大きく見開かれた。
ムルガドは懐から黒い革袋を取り出した。
「これはそいつが持ってたもんだ」
袋から魔道具を取り出し、ガルドに見えるよう持ち上げた。
「空間転移の魔道具らしい。俺の魔力じゃ動かなかった。出所につながるかもしれねえから、しばらくは俺が預かるつもりだ」
ガルドは魔道具から目を離さなかった。
「わかった。ただし、持ち出す前に学院で記録と確認を取らせてくれ」
「ああ、いいぜ」
ムルガドは魔道具を革袋に戻し、再び懐に収めた。
その間にも、ブロムは担架へ移され、治療担当の1人がエリルの背の傷を確認していた。
救護の声が飛び交う中、ムルガドは担架や治療担当に囲まれた5人を改めて見渡した。
「改めて見ると、面白い連中が揃ってるじゃねえか」
その視線は1人ずつを確かめるように巡り、やがてキツキのところで止まった。
「特に、お前だ」
「……俺ですか?」
思わず自分を指さした。
勇者候補のブロムでも、レニアでもなく、なぜ自分なのか。
まさか、自分が異世界人だと見抜かれているわけではないだろうな。
そんなキツキの隣で、レニアはわずかに眉を寄せた。
先ほど、第三王女である自分の誘いをやんわり断った男が、今度は平民のキツキに明らかな興味を向けている。
レニアは、それがほんの少しだけ面白くなかった。
そんなレニアの胸中など知る由もなく、キツキはムルガドに理由を尋ねようとした。
そのときだった。
ムルガドの足元に、どこからともなく白い霧が流れ込んだ。
異変に気づいた騎士団員たちは、再び身構える。
「あー、大丈夫だ。俺の連れだ」
その言葉を受けても、騎士団員たちは緊張を解かず、白い霧の動きを見守った。
薄く漂っていた霧が集まり、徐々に1つの輪郭を形作っていく。
現れたのは、中型犬ほどの大きさをした白い獣だった。
雪のような白い長毛に、立ち上がった耳と、ふさふさとした尾。その姿を見て、キツキは日本スピッツという犬種を思い浮かべた。
大きく開いた口は、楽しそうに笑っているようにも見える。
その姿を目にした瞬間、レニアの手がわずかに持ち上がりかけ、寸前で止まった。
それでも、止めた指先がもう一度かすかに動く。
どうやら、ずいぶんと好みに刺さったらしい。
白い獣は、ただまっすぐキツキを見上げていた。
「珍しいな。お前から出てくるとは」
ムルガドがそう漏らしても、白い獣の視線はキツキから外れなかった。




