第66話 帰還
淡い青紫色の光を抜けた瞬間、足の裏に硬い地面の感触が戻った。
キツキはブロムを支えたまま顔を上げる。先にゲートを抜けたレニアと、エリルを支えるキュルが、すぐ近くで待っていた。
背後では、水面のように揺れていた膜が細く縮み、亀裂ごと跡形もなく消えていく。
キツキは周囲を見回した。薄暗い通路も、壁や地面の様子も、ゲートへ入る前にいた場所と変わらない。
「元のダンジョン……だよな」
「ええ」
レニアは確かめるように5人の姿を見回した。
「これで全員、戻ってこられたわね」
その言葉に、キツキはようやく息を吐いた。
長く張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩む。
ただのダンジョン実習のはずが、呑み込まれたゲートの先でフォールンと命を懸けて戦うことになるとは、思いもしなかった
だが、それももう終わった。
あとは、ダンジョンを出るだけだ。
レニアが入口へ続く通路へ向き直る。キツキたちも、その背を追おうとした。
そのときだった。
「あん? ガキどもが出てきたじゃねえか」
進行方向から、乾いた男の声が聞こえた。
5人の足が一斉に止まる。
レニアが通路の先へ目を向けた。
声がしたのは、ダンジョンの入口へ続く通路の先だった。
壁際に、黒ずくめの男が立っている。背中へ落としたフードの下から荒れた髪をのぞかせ、片手には折り畳まれた紙を持っていた。
隠れていたわけではない。
ただ面倒そうに壁に肩を預け、手元の紙に目を落としたまま、初めからそこに立っていた。
それなのに、声をかけられるまで、誰も男の存在に気づけなかった。
キツキはブロムを支えたまま、男から目を離せなかった。
背中を、冷たい汗が伝う。
身体を動かすことすらためらわれる。それでも、メガネへ意識を集中させると、すぐに、男のそばへ文字が浮かび上がった。
《名称:ダルマティア》
《種別:フォールン》
《リスク:7》
名称も種別も、今度ははっきりと読み取れた。人間にしか見えないこの男も、フォールンらしい。
だが、最後に表示された数字を見た瞬間、キツキの喉がひきつった。
先ほど倒したフォールンは、リスク5だった。
その相手ですら、5人で力を合わせ、根の動きまで利用して、ようやくブロムの剣が届いた。しかも、その戦いでエリルとブロムは満足に動けなくなり、レニアも大きく消耗している
それなのに、目の前の男は、その2つ上。
戦うという選択肢そのものが、最初から存在しなかった。
わずかに動くだけでも、目の前の男が何をするか分からない。そう思うと、キツキの身体はその場に縫い止められたように動かなかった。
ダルマティアはそんな5人を眺めると、手にしていた紙に再び目を落とした。
「だから言ったんだよ。最初から俺に全部やらせろってな」
誰に向けた言葉なのかは分からない。
わずかな沈黙のあと、キュルに支えられたエリルが、青ざめた顔に苦し紛れの笑みを浮かべた。
「……やっぱり、これで終わりじゃなかったんだね」
「あん?」
ダルマティアの視線が、紙からエリルに移った。
「おい。中にいたイカレ野郎はどうした?」
一瞬の沈黙のあと、エリルが答える。
「……倒したよ」
「そうか」
それだけ言うと、ダルマティアはエリルの姿を眺め、折り畳んだ紙を軽く振った。
「フォルテアの王女ってのは、お前か? 紫髪」
「……私よ」
レニアの声が、静かな通路にはっきりと響いた。
その顔から緊張は消えていない。それでも、ダルマティアを見据える声は震えていなかった。
ダルマティアはレニアに視線を移した。確かめるように顔を見るでもなく、面倒そうに顎を動かした。
「なら、お前だけこっちに来い」
レニアは答えない。代わりに、一度だけ背後を振り返る。
キツキに身体を支えられたブロムと、キュルに寄りかかるエリル。そして、その2人を支えるキツキとキュル。
ここまで命を懸けてともに戦ってきた4人の姿を、確かめるように見つめた。
かすかに震える指先を握り込み、再びダルマティアへ向き直る。
レニア・フォルテアという少女は、王族として、これまで多くの人間と向き合ってきた。
顔色をうかがい、媚びへつらう者。笑顔の裏に敵意を隠し、味方を装う者。
だからこそ、分かってしまった。
ここでおとなしく従ったところで、あの男は残された4人に情けなどかけない。全員、殺されるだろうと。
その結末が見えてしまった以上、レニアは4人のそばを離れなかった。
「はあ、面倒くせえな」
ダルマティアは小さく息を吐くと、手にしていた紙を無造作に握りつぶした。
握り込んだ拳から黒い魔力がにじみ出し、紙を包み込んだ。折り畳まれていた紙は細かな塵となって崩れ、そのまま魔力の中へ消えていった。
ダルマティアがそのまま拳を開くと、掌に残った黒い魔力が渦を巻きながら集まり、周囲へ広がることなく中心へと押し込まれていった。やがて拳ほどの大きさまで凝縮され、光さえ吸い込むような黒い球を形作った。
その小ささからは想像できないほどの魔力が、内側に詰め込まれていた。
逃げなければならない。
そう思っているのに、キツキの足は動かなかった。ブロムを支える腕へ力を込めることしかできない。
ほかの誰も、身じろぎひとつしなかった。
避けられない。
防ぐこともできない。
掌の上で黒い球が完成した瞬間、キツキは自分たちがここで死ぬのだと理解した。
その直後、黒い球の周囲だけが、不自然に沈み込んだ。
圧縮されていた黒い魔力が形を崩し、見えない穴へ引きずり込まれるように消えていった。
音も、光も残らなかった。
「あん?」
ダルマティアが、何もなくなった掌に目を落とした。
「ずいぶん面白いことになってるな」
その背後から、男の声が響いた。
振り返ったダルマティアの視線の先、入口へ続く通路のさらに奥で空間が揺らぎ、1人の男が姿を現した。
年齢は60代ほどだろうか。乱れた橙色の髪に、大柄な体躯。迫力のある顔で目を細め、男は目の前の状況を興味深げに眺めていた。
キツキは、その顔をどこかで見たことがあるような気がした。




