第65話 未知を越えて
小型獣はキツキたちを見回すと、長い耳をぴくりと動かした。
次の瞬間、危険を察したように身を翻し、茂みの奥へ逃げ込もうとした。
キュルはエリルを太い根へそっと預け、身体が傾かないことを確かめると、すぐに小型獣へ向き直った。
その姿が消えたと思ったときには、すでに小型獣の逃げ道へ回り込み、驚いて跳ね上がった小さな身体を両手ですくって、そのまま胸元へ抱き寄せていた。
「……かわいい」
小型獣は腕の中で懸命に足を動かしていたが、キュルの手からは逃れられそうになかった。
キツキは、キュルの腕の中でもがく小型獣へ目を向けた。
全身を包む淡い金色の光は、近くで見ても消えることなく、毛並みの輪郭に沿って揺れている。
メガネに意識を集中させると、視界に文字が浮かんだ。
《種別:ゲート生体》
《名称:■■※〓――》
キツキは目を瞬かせ、もう1度表示を見直した。
種別は読める。だが、名称の欄だけは文字が崩れたまま、どれだけ見ても意味を結ばない。
――なんだ、これ。
なんでも分かるメガネのはずだ。少なくとも、これまで調べたものは、必ず何かしらの情報が見えた。
文字に見えるのに、その意味が頭に入ってこない。全言語理解でも読めないのなら、そもそも言葉ではないのかもしれない。
キツキはしばらく崩れた表示を見つめた。
――なんでも分かるって、そこも説明不足なのかよ。
いくつもの説明不足な力に振り回されてきた中で、メガネだけは信用していた。それなのに、これにもキツキの知らない条件があるらしい。
このことをみんなに相談したかったが、そうすればメガネの力そのものから説明しなければならなくなる。
誰にも相談できない以上、自分1人で考えても、今すぐ答えが出るとは思えない。
キツキは浮かんだ疑問をひとまず飲み込み、キュルの腕の中にいる小型獣へ意識を戻した。
全身を金色の光で包み、メガネでも名称を読み取れない。そんな明らかに普通ではない獣を捕まえたのだ。これで脱出条件が満たされ、出口が現れるのではないかと思った。
しかし、森にも根の囲いにも、何も起こらなかった。
「捕まえただけじゃ、駄目なのか?」
レニアはすぐには答えず、キュルの腕の中でもがく小型獣と閉ざされた囲いを見比べた。
やがて、その視線が囲いの周囲に絡み合う根で止まり、しばらく思案したあと、口を開いた。
「……あの中へ入れてみたらどうかしら」
「囲いに?」
「先ほどの根は、獲物の動きを封じながら、あそこへ追い込もうとしていたわ。手で押さえているだけでは、まだ捕まえたことになっていないのかもしれない」
言われて、キツキは先ほどまでの根の動きを思い返した。確かに、手で捕まえただけでは、あの根がしようとしていたことを再現したことにはならない。
キツキはキュルへ目を向けた。
「キュル、いいか?」
キュルはすぐには答えなかった。腕の中でもがく小型獣を見下ろし、太い根に身体を預けているエリルへ目を向けてから、小さくつぶやいた。
「……分かった」
キュルがそのまま囲いの前へ移動すると、キツキは入口を塞ぐ太い根に両手を触れた。
すでに見分けた反応へ意識を合わせると、根は軋みながら左右へ退き、人1人が通れるほどの隙間が開いていった。
キュルは小型獣を胸元に抱えたまま囲いの中へ入ると、その場にかがみ込み、腕の中でもがく小さな身体をそっと地面に下ろした。
小型獣は足が地面についた途端、キュルから離れ、囲いの奥へと跳ねていった。
その様子を見届けたキュルが外へ出ると、キツキは再び根を操り、入口を閉じ始めた。
両側から伸びた太い根が隙間を埋めるように絡み合っていく。異変に気づいた小型獣は入口へ駆け戻ったが、その身体が届くより早く、最後の隙間が塞がった。
その直後、ジジジ、と何かが擦れるような音が、すぐ近くから聞こえてきた。
「今の音……」
振り返ったキツキの視線の先で、何もなかった空間に細い亀裂が走った。
亀裂は上下に広がりながら縦長の裂け目となり、その内側を淡い青紫色の光が満たしていく。やがて光は薄い膜となって裂け目の表面を覆い、水面のように静かに揺れ始めた。
レニアはすぐには近づかず、警戒するように裂け目を見つめていた。
キツキも息を詰めて光の膜を見守ったが、それ以上の異変は起こらない。
「出口……だよな」
ようやく、ここから出られるかもしれない。
そう思うと、張り詰めていたものがわずかに緩み、キツキは安堵の息を吐いた。
「あっ」
普段のキュルからは想像できないほど大きな声が上がった。
何事かと振り返ると、囲いの中にいたはずの金色の小型獣が、跡形もなく消えていた。
キュルは空になった囲いを見つめたまま、わずかに肩を落とした。
「……残念だったね」
太い根に身体を預けたまま、エリルが静かに声をかけると、キュルは振り返り、小さくうなずいた。
そのやり取りに少しだけ口元を緩め、キツキは淡い青紫色に揺れる出口へ視線を戻した。
今回、あのフォールンを倒せたのは、自分だけの力ではない。いくつもの動きが重なり、その先でようやくブロムの剣が届いた。キツキ自身も、根の反応に気づけたからこそ、勝利につながる役割を果たせた。
学院で天才と呼ばれるレニアや、勇者候補のブロムたちと一緒なら、未知の場所でも切り抜けられる。どこかで、そう思っていたのかもしれない。
だが、ゲートでは学院で評価される力だけでは足りなかった。内部に仕組まれた条件を見抜けなければ、攻撃を届かせることすらできない相手がいる。
実際、勝てたとはいえ、エリルはキュルに身体を預け、ブロムも根を背に座り込んだままだ。こちらの被害も軽くない。自分にはまだ、力だけでなく、知識も経験も足りていなかった。
――もっと強くならないとな。
そんなことを考えていると、レニアの声がキツキを現実へ引き戻した。
「さっきの話は、戻ってからしっかり聞くわ」
そんな声に振り返ると、レニアの視線は再びキツキの両手に落ちていた。
どうやら、『治癒』のことを忘れてくれたわけではないらしい。
「それじゃ、そろそろ出ましょう」
レニアが青紫色に揺れる出口へ視線を向ける。
キツキは小さくうなずくと、根を背に座るブロムの前へ移動した。
「立てそうか?」
「申し訳ないけど、しばらく肩を貸してくれないかな」
ブロムは力なく笑った。
キツキは腰を落とし、ブロムの右腕を自分の肩へ回した。ゆっくりと立ち上がると、預けられた体重が肩へ重くのしかかる。
その隣では、キュルがエリルの腕を自分の肩へ回し、身体を支えながらゆっくりと立たせていた。
負傷した2人が移動できる状態になったのを見届けると、レニアは青紫色の膜の前へ進み出た。
「私が先に入るわ」
レニアは光の膜へ手を伸ばした。触れた指先から波紋のような揺れが広がり、その身体は青紫色の光の向こうへ消えていった。
「行こう」
キュルはエリルを支えたまま、ほとんど間を置かずに光の膜へ足を踏み入れた。
キツキもブロムを支えながらあとに続こうとしたが、その前に一度だけ振り返った。
薄暗い森と、絡み合う根。その奥には、小型獣の消えた囲いだけが静かに残っていた。
キツキはその光景を目に焼き付けるように見つめたあと、前へ向き直り、ブロムとともに淡い青紫色の膜へ足を踏み入れた。




