第64話 金色の獣
キツキは、エリルの背中に走る傷に両手をかざした。
先ほど見た流れをたどり、両手から出した魔力を傷の周囲へ集める。
しかし、魔力は形を保てず、指の間から散っていく。手には光も現れず、エリルの傷にも変化はない。
誰も何も言わなかった。静かな時間が続くほど、胸の奥に焦りが広がっていく。
その焦りに呑まれかけたところで、キツキはエリルの『治癒』をもう一度思い返した。あの白い光は、傷に流れ込む前に、その周囲を包んでいた。
キツキは散りかけた魔力を引き戻し、傷の縁へ沿わせていく。ばらばらだった流れが1つにつながった瞬間、掌に淡い白い光がともった。
「できた……!」
光はすぐにエリルの傷へと広がった。流れていた血が止まり、開いていた傷口がゆっくりと閉じていく。
キュルは驚いた様子を見せなかった。
ただ、エリルの身体を支えていた指から、ようやく少しだけ力が抜けた。
「……ほらね」
エリルはかすかに口元を緩め、ほとんど息だけの声で言った。
キツキが安堵の息を吐いた途端、頭の奥で痛みが強く脈打った。視界がわずかに揺れ、掌の光も消えていく。
キツキは一度目を閉じ、呼吸を整えた。再び目を開くと、ブロムがわずかに目を見開いていた。左上腕の傷からは、まだ血が流れている。
視界の揺れはまだ残っていたが、目の前で血を流しているブロムに比べれば、この程度で弱音を吐いてはいられない。
「次は、そっちをやるから」
「……ああ。助かるよ」
キツキはブロムの左上腕へ両手をかざし、乱れた魔力の流れをもう一度組み直した。
一度目より少し時間はかかったが、淡い白い光が傷を包むと、開いていた傷口はゆっくりと閉じ、出血も止まった。
治療を終えたブロムの腕を確認するキツキの背後で、エリルは何かを確かめるように目を細めていた。
傷口が閉じても、失った血や消耗まで戻るわけではない。
5人はひとまず、その場に留まることにした。
ブロムは剣を鞘に戻し、太い根を背にして座っていた。傷口は閉じたものの、失血のためか顔色はまだ悪い。エリルもキュルに身体を預け、浅い呼吸を繰り返している。
レニアは背筋を伸ばし、周囲へ目を配りながら立っていた。だが、荒い呼吸に合わせてわずかに上下する肩が、彼女も本調子ではないことを物語っていた。
いくらか呼吸が落ち着いたところで、キツキは閉ざされた囲いへと目を向けた。
「そういえば、フォールンって何なんだ?」
レニアは少しだけ間を置いてから答えた。
「魔法使いが堕落した末に、人ではないものに変わった存在よ」
「堕落?」
「ええ。フォールンになると、私たちが使うような魔法は使えなくなるわ。その代わり、黒い魔力と、その個体にしかない特殊な力を得ると言われている」
「じゃあ、魔法使いだった頃より強くなるのか?」
「多くの場合はね。何を失い、どうしてそうなるのかは、まだ分かっていないことの方が多いけれど」
「元に戻す方法は?」
「ないわ。一度ああなれば、元の人間には戻れない」
囲いの中には、フォールンの死体も、目に見える残骸も残っていない。あの消え方が本当に死を意味するのかは、まだ誰にも分からなかった。
「今回のゲートも、自然に開いたものじゃない可能性が高い」
エリルが、浅い息の合間に補った。
レニアは一度だけ彼女へ目をやった。その表情には、わずかに硬さが戻っていたが、何も言わずにキツキへ向き直った。
「少なくとも、あのフォールンが狙っていたのは、あなただった」
なぜ自分なのか。
その理由までは、誰にも分からない。
フォールンが執拗に自分だけを追ってきたことから、キツキも薄々は気づいていた。それでも言葉にして聞かされると、胸の奥に重いものが残った。
それ以上考えるのをやめ、キツキは話題を変えた。
「そういえば、あいつが消えたのに、出口は出てないんだな」
囲いの周囲を見回しても、出口らしきものはどこにも見当たらない。
「……他に条件があるみたいだね」
エリルがキュルに身体を預けたまま答えた。
「どちらにしても、今の状態ですぐに動くのは無理よ」
レニアは4人を順に見た。
「もう少し休んでから、ここを出る方法を探しましょう」
反対する者はいなかった。
しばらくの間、浅い呼吸と、森の葉が擦れる音だけが続いた。
ふと、レニアと目が合う。
その視線がキツキの顔から、先ほど『治癒』を使った両手へ落ちた。
「キツキ。さっきの『治癒』のことだけれど……」
――やっぱり、聞いてくるよな。
どこまで話せばいいのか。どう答えれば、不自然に思われずに済むのか。
答えが浮かばないまま、キツキは気まずさから視線を逸らした。
その先で、茂みがわずかに揺れた。
虫でも何でもいい。あの揺れにすべてを賭けよう。
「……あ、あれは、なんだ!?」
キツキは、必要以上に大きな声を上げた。
「え?」
レニアは突然の大声に目を瞬かせ、それからキツキの視線を追った。
すると、茂みの奥から1匹の獣が顔を出した。
その獣は、長い耳を持つ姿こそウサギによく似ていたが、普通のものより一回り大きい。そして何より、全身を淡い金色の光が包み、その姿だけが薄暗い森の中で異様に浮かび上がっていた。
絶対、あいつだろ。




