第63話 戦いのあと
最初に動いたのは、キュルだった。
黒土を蹴り、倒れかけていたエリルのもとへ一気に駆け寄った。声をかけるより先にその身体を支え、背中の傷に触れないよう肩に腕を回した。
その一方で、キツキは動けずにいた。
剣を地面に突き立てたまま、ブロムがうなだれていた。制服の右側は血に染まり、左腕からも赤い雫が落ち続けていた。
声をかけなければならない。傷を確かめて、すぐにでも助けなければならない。分かっているのに、足が前へ出なかった。
ブロムは、自分を守るためにあれほど傷ついた。怖いなどと思っていいはずがない。
それでも、傷を顧みずフォールンへ向かい続けた、普段のブロムとは思えない異様な姿が、まだ頭から離れなかった。
今のブロムに、声をかけてもいいのか分からない。
迷っているうちに、気づけばキツキの足はブロムではなく、レニアの方へ向かっていた。
一歩踏み出した途端、頭の奥が鈍く脈打ち、視界がわずかに揺れた。キツキは1度だけ足を止めたものの、そのまま太い根に肩を預けるレニアのもとまで歩いていった。
レニアの呼吸はまだ浅かったが、先ほどまでの張り詰めた表情は、わずかに和らいでいた。
「さっきはありがとな、レニア」
声をかけると、レニアはキツキの姿を上から下まで確かめるように見た。
「礼はいいわ。あなたが無事なら、それで」
思いがけない言葉に、キツキは一瞬だけ返事に詰まった。
「……レニアは大丈夫か?」
「私は怪我をしてないもの。魔力をほとんど使い切っただけよ」
レニアは答えを切るように、キツキの背後へ視線を移した。
「それより、早くブロムのところへ行きなさい」
キツキが振り返る。
ブロムは先ほどと変わらず、剣を支えにしたままうなだれていた。
「……分かった」
短く答え、今度こそキツキはブロムへ向かって歩き出した。
近づいても、ブロムは顔を上げなかった。
「ブロム」
キツキが呼びかけると、ようやくブロムの顔がゆっくりと持ち上がった。向けられた目には、まだフォールンと戦っていたときの鋭さが残っていた。
キツキの足が止まった。
ほんの一瞬、ブロムの視線はキツキを捉えたまま動かなかった。
やがて、目の前にいるのが誰なのか分かったように、その目から張り詰めていたものが薄れていく。
「……キツキか」
聞こえてきたのは、いつもの穏やかな声だった。
「……悪いけど、肩を貸してくれないかな」
「あ、ああ」
キツキが慌てて手を伸ばす。
その直後、ブロムの膝が折れた。
「ブロム!」
倒れ込む身体を受け止めた瞬間、キツキの膝も沈んだ。頭の奥に痛みが走ったが、歯を食いしばって踏みとどまる。
ブロムは剣を地面へ突き立てたまま、キツキに身体を預け、その場に崩れるように座り込んだ。
「ごめん。少し、力が抜けたみたいだ」
荒い呼吸の合間にそう言って、ブロムは力なく笑った。
その声を聞き、笑みを見て、キツキはようやく息を吐いた。少なくとも今、目の前にいるのはいつものブロムだった。
それでも、先ほどの異様な姿は頭から消えなかった。
ブロムの身体を支えながら、キツキは少し離れた場所へ目を向けた。
キュルは今もエリルの身体を支えていた。エリルが何かを短く告げると、キュルの腕に一瞬だけ力がこもった。
キュルはエリルの顔を見上げると、何も言わずに腕を離し、そのままこちらに駆け寄ってきた。
そして、座り込んだブロムの右側にしゃがみ、血に染まった脇腹へ目を向けた。傷口からは、今も途切れることなく血が流れていた。
キュルは1度だけ周囲を見回すと、キツキを見上げた。
「しゃがんで」
「え?」
「早く」
ブロムを支えるために前屈みになっていたキツキは、言われるまま膝を曲げた。
次の瞬間、キュルが制服の裾をつかむ。
びり、と乾いた音が響いた。
「は?」
キツキが目を落とすと、羽織っていた制服の裾が大きく裂かれていた。
「キュル、何やって――」
キュルは答えなかった。
裂いた布を手早く折り重ね、ブロムの右脇腹へ押し当てる。そのまま傷の周囲へきつく巻きつけ、両手で強く圧迫した。
布はたちまち赤く染まっていった。
そういうことか。
いや、必要なのは分かる。分かるけど、せめて先に一言くらい欲しかった。
とはいえ、今は文句を言える状況ではない。キツキは見るも無残な姿になった制服を見下ろしたまま、口を閉じた。
「そのまま押さえていて、キュル」
聞こえてきた声に、キツキは顔を上げた。
キュルに代わってレニアに肩を借りたエリルが、背中をかばうように身体を傾けながら、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
2人の間に言葉はなかった。ただ、エリルの視線だけがブロムの右脇腹に向いていた。
「エリル、その身体で――」
「今はブロムが先だよ」
キツキの言葉を遮り、エリルはブロムのそばに膝をついた。
呼吸を整えようとしたようだが、吸い込んだ息は途中で浅く途切れた。それでも、声だけは崩さなかった。
「キツキ。よく見てて」
「え?」
「このあと、キツキにも同じことをしてもらうから」
「……俺が?」
「私が使えるのは、あと1回だけ。やり直しはできないから」
エリルはブロムの傷へ目を落とした。
「クラス2の回復魔法『治癒』。キツキなら、1度で覚えられるでしょ?」
断る間もなく、エリルは必要な手順と注意だけを短く伝えていく。その声とは裏腹に、両手はわずかに震えていた。
エリルが小さく合図すると、キュルは巻いた布を緩め、傷口が見えるように端をずらした。
キツキはメガネ越しに、エリルの両手に視線を集中させた。
エリルがブロムの右脇腹へ両手を近づけると、流れ出た魔力が傷の周囲へ集まり、1つの形を作っていった。
数呼吸の後、掌に淡い白い光がともった。光は1度だけ弱く揺らぐ。
フォールンを倒した今も、放たれた魔力はこの森に削られているようだ。それでも、傷までの距離がほとんどないためか消えることはなく、そのまま温かな輝きとなって傷を包み込んだ。
流れ続けていた血が弱まり、裂けていた傷口がゆっくりと閉じていく。
「っ……」
ブロムがわずかに身体を強張らせた。
それでも声を上げることはなく、短く息を詰めただけだった。
やがて白い光が消える。
傷は閉じていたが、ブロムの制服に染みついた血も、青ざめた顔色も戻ってはいなかった。
出血が止まったのを確かめ、キュルが布から手を離す。
「エリル?」
キツキが声をかけた直後、エリルの身体が傾いた。
すぐそばにいたキュルが、倒れかけた身体をとっさに抱き留める。
「大丈夫。意識は、あるから……」
そう答える声には、ほとんど力が残っていなかった。
エリルはキュルに支えられながら地面に腰を下ろした。脚を横に流し、キツキへ背中を向けた。
裂けた制服の隙間から、背中の下側に残る傷が見えた。
「今ので覚えたでしょ」
エリルが肩越しにキツキを見る。
「キツキなら、できるよね。次は私にお願い」
「……やってみる」
これ以上、メガネの力を見せていいはずがない。そんな不安はあった。
だが、目の前で血を流しているエリルを放っておく理由にはならなかった。




