第62話 供物の森・七
ブロムは傷を確かめることもなく、剣を横へ振り抜いた。
刃がフォールンの胸元を打ち、その上体を押し返す。
右脇腹に食い込んでいた黒い爪が引き抜かれ、遅れて傷口から血が溢れた。
制服の右側がみるみる赤く染まっていく。それでもブロムは傷を押さえず、足を止めることもなく、剣を引き戻して前へ出た。
その動きに合わせ、キュルが黒い線を強く引いた。地面を這っていた線が張り詰め、踏み出しかけたフォールンの両足を縫い止める。
止まったのは、ほんの一瞬だけだった。だが、フォールンが再び踏み出すより早く、左右から迫った太い根が腰と脇腹を挟むようにせり上がり、その身体を背後の囲いへ押し戻した。
フォールンは、正面を塞ぐブロムの向こうにいるキツキへと黒い爪を伸ばした。だが、足を引かれたままでは踏み込めない。爪の先はブロムを越えられず、その身体だけが黒土を削りながら後ろへ下がっていった。
背中が、囲いの内側へ押し込まれる。
その直後、入口の両脇にあった根が大きく軋み、開いていた隙間を狭め始めた。
フォールンは身を捩り、迫る根へ黒い爪を叩きつけた。太い根を一本、引き裂き、その開いた隙間へと身体を滑り込ませようとする。
だが、囲いの内側にあった細い根が足首に絡みつき、踏み出しかけた脚を止めた。フォールンは濁った声を上げて爪を振り下ろし、細い根を何本も千切って黒土の上へ散らした。
それでも、囲いは閉じ続けた。
千切られて開いた隙間へ、別の根が横からせり出す。左右の太い根もさらに迫り、囲いの内側でフォールンの身体を挟み込んでいった。
キツキは根へ手を押し当て、魔力を流し続ける。
フォールンが隙間を開けるたび、その近くで強く返る反応を選んだ。何が動くのかは分からない。それでも魔力を流すたび、どこかの根が動き、開いた場所が塞がれていく。
フォールンは、両脇から迫る太い根を両腕で押し返した。肩から腕へ黒い魔力が集まり、爪が根へ深く食い込む。
だが、先ほどのようには引き裂けない。
腕を振り抜くまでに一拍遅れ、その間に背後の根が低く軋みながらせり上がる。
根はゆっくりとしなり、フォールンの背を押さえ込む。逃げ場を奪うように、その身体を囲いの内壁へ押しつけていった。
「グゥゥ……ッ」
押し潰されたような低い唸り声が、フォールンの喉から漏れた。
腕の周りで膨らんだ黒い魔力も、形を保てずに崩れていった。
それでも、フォールンは抵抗をやめない。爪を振るって根を千切り、囲いの外へ出ようとする。そのたびに別の根が隙間を塞ぎ、キツキは別の反応へ魔力を流した。
だが、掌へ返る反応は増え続けていた。
動いた根。千切られた根。まだ地中に残っている根。
いくつもの感覚が重なり、どれがどの根につながっているのか分からなくなっていく。
こめかみの奥が強く脈打った。
メガネ越しに見える反応も重なり、視界が揺れる。
それでも根から手を離すまいと押しつけていた掌が、汗で滑った。
「っ!」
身体ががくりと傾き、視界が大きく揺れる。
その端に、根に身体を預け、肩で息をしながらこちらを見ているレニアの姿が一瞬映った。
キツキは奥歯を強く噛みしめ、崩れかけた身体を踏ん張りながら、離れかけた掌にもう片方の手を重ね、根に強く押しつけ直した。
押し返すように、いくつもの反応が掌に返ってくる。
キツキはその感覚を、メガネ越しに重なる光ともう一度照らし合わせた。
フォールンに根を千切られても、別の反応へ魔力を流せば、囲いの根が動いて隙間を塞いでいく。フォールンへの道が開いたときも、同じだった。
そこで、ようやくキツキにも分かった。
開く根。閉じる根。中へ押し戻す根。囲いの中に入ったものを、逃げられないよう押さえる根。
掌に返る反応には、それぞれ最初から決められた役割が結びついている。キツキが選んでいたのは、根そのものではなく、その動きにつながる反応だったのだ。
このゲートの根は、獲物を囲いへ追い込み、中へ入れたものを逃がさないために動いている。
すべてが分かったわけではない。
だが、隙間が塞がれるたびに囲いの内側で強くなる反応だけは見分けられた。
キツキは幾重にも重なる光の中から、それだけを追った。
「これだ……!」
指先に力を込め、その反応へ魔力を流す。
囲いの入口で、太い根が大きく軋んだ。
左右から迫っていた根がさらに狭まり、フォールンの胴を挟み込む。足元では細い根が引き絞られ、曲がった膝をその場へ固定した。
フォールンが黒い爪を振り上げる。
だが、腕は途中で止まった。根の間にあった細い根が肘へ絡みつき、さらに横から迫った太い根が、その腕を身体の脇へ押さえ込む。
「アアアアアアッ!」
フォールンは意味をなさない叫び声を上げ、全身を激しく捩った。
囲いの根がギシギシと一斉に軋む。
それでもフォールンは、絡みついた根を引き裂こうと、肩から腕へ黒い魔力を集める。だが、魔力はまとまらず、押さえ込まれた爪がわずかに震えただけだった。
全身のほとんどを根に押さえ込まれ、フォールンはもう、まともに身体を動かすこともできなくなっていた。
エリルがとどめを指示するより先に、ブロムが歩き出した。
右脇腹から流れる血が、制服を赤く染めている。左腕からも血を垂らしながら、それでも足を止めない。
ブロムは何も言わず、剣を両手で握り直した。そのままフォールンの前へ立ち、胸元に残る浅い傷へ剣先を重ねた。
身体ごと、前へ押し込む。
光をまとった剣が、胸元の傷へ深く沈んだ。
「アアア――」
フォールンの叫び声が、途中で途切れる。
身体が大きく跳ね、閉じた囲いの根が激しく揺れた。
黒い爪が最後にもう一度持ち上がった。
剣を押し込むブロムの向こうにいるキツキへ、なお伸びようとする。
だが、爪先はブロムを越えることすらできないまま、腕から力が抜けた。
胸元の傷から、剣を包んでいた光が漏れ出す。
フォールンの輪郭が揺らぎ、身体が端からほどけていき、その姿はやがて囲いの中から完全に消えた。
あとには、閉じた根だけが残った。
支えを失った剣が、何もない空間を抜ける。
ブロムはその切っ先を地面へ突き立て、全身を覆っていた光が消えていく中、柄に身体を預けた。
根の軋む音も、フォールンの叫び声も、もう聞こえない。
誰も声をかけないまま、静まり返った森に、ブロムの荒い呼吸だけが残った。
視線は、地面へ落ちたままだった。
それでも、ブロムは剣から手を離さなかった。




