第61話 供物の森・六
次の1歩で、フォールンの身体が深く沈んだ。
黒土が弾ける。
地面を蹴るというより、前に崩れ落ちるような踏み込みだった。傾いた上体を戻すこともなく、その勢いのまま開いた道を駆け抜ける。
身体を覆う黒い魔力は、走るたびに肩や腕から剥がれ、ちぎれたように後ろへ流れていく。そのたびにフォールンの輪郭は大きく崩れ、もはや人の姿には見えない。
それでも濁った目だけは、道の先にいるキツキを捉えたままだった。
速い。
キツキがそう認識したときには、フォールンはすでに半分以上の距離を詰めていた。
ブロムは地面を蹴り、遠ざかるフォールンの背を追って剣を振り抜いた。
だが、届かない。伸びた切っ先が、脇腹を浅く裂いただけだった。
ほぼ同時に、キュルの黒い線が地面すれすれを走り、後ろからフォールンの足首に絡みつく。引かれた足が一瞬遅れ、前に傾いていた上体が大きく横へ流れた。
しかし、それでも止まらない。
絡みついた黒い線を引きずりながら、なおキツキへと突き進む。キュルも両足で踏ん張ったが、黒土を削るように、身体ごとフォールンの方へ引きずられた。
エリルも障壁で止めようと手を上げた。だが、背中の傷が引きついた途端、指先に浮かびかけた障壁が崩れる。
キツキの前を遮るものは、もう何もなかった。
迫るフォールンから目を離せないまま、キツキはすぐそばの根に手を伸ばした。
だが、どれを選べば根が戻るのか、もう分からなかった。
キツキが顔を上げると、フォールンはもう目の前で右腕を振り上げていた。
身体を覆っていた黒い魔力が、肩から右腕へ一斉に集まっていく。腕は黒く膨れ上がり、その先の爪がキツキの身体を引き裂けるほど大きく伸びた。
それでも、キツキは動けなかった。
逃げなければならない。そう分かっているのに、向けられた殺意が全身に重くのしかかり、指1本動かせない。
振り下ろされる黒い爪が、キツキの視界を埋め尽くした。
その光景から目を離せないまま、レニアは視界の端で、足元からのぞく太い根に気づいた。
考えるより先に、身体が動いていた。
その場に身をかがめ、露出していた根元に両手を押し当てる。
何が起きるのかは分からない。ただ、このままではキツキが死んでしまう。
――絶対に、彼を失いたくない。
祈るような思いで、レニアは根に力を込めた。
次の瞬間、地面が大きく持ち上がる。
それは、返ってくる反応を選びながら根を動かしていたキツキとは、まるで違っていた。
レニアは何かを選んだわけではない。もともと高い出力を抑えることなく、残っていた魔力を一気に注ぎ込んだのだ。
その力に押され、道の脇へ退いていた太い根が元の位置へせり出す。さらに、地下でつながった周囲の根まで一斉に持ち上がった。
複数の根が互いに重なりながら、開いた道を埋めていく。
それはキツキの全身を覆い隠すほど巨大な壁となり、振り下ろされた爪との間に立ち上がった。
黒い爪が、立ち上がった根の壁へ叩き込まれた。
――ズドンッ!
森を揺らすような轟音とともに、前面の太い根が半ば近くまで抉れた。砕けた木片と黒土が四方へ飛び散り、根の両脇から地面へ長い亀裂が走る。さらにその先では、キツキの後方に立つ巨木の幹が大きく裂けた。
根越しに伝わった衝撃が、キツキの身体を弾き飛ばす。
「かはっ……!」
背中から黒土へ叩きつけられ、肺の中の空気が一気に押し出された。
深く抉られた根の壁は、低く軋みながらも崩れず、黒い爪からキツキを守りきった。
だが、根の役目はそれで終わりではなかった。
壁の奥で地面がさらに大きく盛り上がり、左右からせり出した太い根が、開いていた道を押し潰していく。
斜めに持ち上がった根がフォールンの脇へ食い込む。フォールンは低い唸り声を上げながら、黒土ごと囲いの方へ押し戻された。
流し込む魔力が途切れた途端、レニアの身体から力が抜けた。根に押し当てていた両手が滑り、肩が落ちる。
今すぐ膝を折って、その場に倒れ込んでしまいたい。
だが、レニアは自分にそれを許さなかった。
片腕を根に押しつけ直し、倒れかけた身体を何とか支える。脚は細かく震え、呼吸も乱れていた。それでも膝はつかない。
キツキは咳き込みながら黒土に手をつき、どうにか上体を起こした。
揺れる視界の先で、根に身体を預けていたレニアがこちらを振り返る。
目が合った。
キツキが起き上がったことを確かめると、レニアの表情がほんのわずかに緩む。
だが、それも一瞬だった。
レニアはすぐにフォールンへ向き直った。脚を震わせ、荒い息を繰り返しながら、根に身体を預けたまま立ち続けている。
レニアがそこまでして、自分を助けてくれた。
先ほどまで身体を縛っていた恐怖は、レニアの姿を見た瞬間、胸の奥からせり上がったものに押し流された。
強張っていた指が、黒土へ食い込む。
――レニアが作ってくれたこの一瞬を、無駄にしたくない。
キツキは黒土を押して立ち上がると、そのまま深く抉れた根の壁へ駆け寄り、手を押し当てた。
「エリル、次は!」
根の壁の端で膝をついていたエリルは、目を見開いた。
立ち上がったキツキを見上げる。もう動けなくなってもおかしくないと思っていた。そのキツキが、自分から次の指示を求めている。
ほんの一瞬、言葉を失った。
だが、すぐに表情を引き締め、押し戻されたフォールンと、その先にある囲いを見据えた。
「このまま囲いまで押し込む! ブロムは正面を塞いで、キュルは足を止めて! キツキは左右へ流し続けて!」
「分かった!」
根の奥から返ってくる無数の反応に、キツキはもう1度意識を集中させた。
メガネ越しに見える根の反応と、掌に返る感覚を重ねる。キツキは左右へ伸びる反応だけを拾い、その2つに魔力を流した。
囲いへ続く道の両脇で、太い根が軋みながらせり上がる。押し戻されたフォールンの逃げ道を削るように、左右の隙間がゆっくりと狭まっていった。
「行くよ、キュル!」
ブロムが剣を構え、フォールンの正面へ回り込む。その後ろからキュルの黒い線が地面を這い、再び両足へ絡みついた。
フォールンは低く身を沈めると、迫る根を片腕で薙ぎ払いながら、正面に立つブロムへ突進した。
だが、足に絡んだ黒い線が張り詰め、振り払おうとした根もその腕に食い込む。引かれた足と押さえられた腕に勢いを削られ、その突進は、ブロムなら十分に避けられる速さまで落ちた。
それでも、ブロムは避けなかった。
剣を正面に構えたまま踏みとどまり、キツキへ戻ろうとするフォールンの進路を、身体を使って塞いだ。
黒い爪が剣の脇を抜け、ブロムの右脇腹へ深く食い込む。
肺から息が押し出され、上体が大きく折れた。膝が沈み、握った剣の先も揺れる。
身体は、受けた傷の深さを隠しきれない。
それでも、ブロムは深く抉られた脇腹に見向きもしなかった。
傷を庇うことも、食い込んだ爪から逃れようと身体を引くこともない。それどころか、剣を握る手にさらに力を込める。
その目は、何事もなかったかのようにフォールンだけを見ていた。




