第60話 供物の森・五
レニアは、根に進路を狭められたフォールンが、森の奥へ押し込まれていくのを見ていた。
自分も何かしなければならない。
指先が、炎の術式を作りかける。だが、フォールンへ届く前に細くなった炎が頭をよぎり、手が止まった。
氷も同じだった。なら、風はどうだ。雷なら何ができる。
考えても、浮かぶのはこれまで教わってきた使い方ばかりだった。
レニアの視線が、無意識にエリルへと向いた。
そのことに気づき、唇を強く噛んだ。口の中に、血の味が滲む。
自分は次に何をすべきか、その答えをエリルに求めていたのだ。
レニアはエリルから視線を引き剥がし、別の根に魔力を流すキツキを見た。地面が低く震え、離れた場所で新たな根が持ち上がった。
同じものを見ていたはずなのに、レニアは動けずにいた。握り込んだ指先が、わずかに震える。
そのとき、キュルの浅い呼吸が目に入った。弱まり続ける黒い線を短くつなぎながら、血を流して正面を押さえるブロムを、どうにか側面から支えていた。
フォールンが振り下ろした爪を、キュルは身体を沈めてかわした。黒い残像が頭上を通り過ぎる。
だが、着地する際に、踏み荒らされた土に足を取られた。崩れた体勢を戻すより早く、フォールンのもう一方の腕が横から迫る。
キュルはとっさに黒い線を伸ばし、その手首へ絡ませた。けれど、ほんの一瞬遅い。腕はわずかにぶれただけで、爪はなおキュルの身体へ向かっていた。
レニアはとっさにキュルへ手を向けた。
攻撃を止めるのではなく、キュルの身体を横へ押し出す。そうすれば、まだ爪の軌道から外せるかもしれない。
指先に風が集まる。
だが、爪はもうキュルの目前まで迫っていた。
間に合わない。
そう分かっても、レニアは魔力を止められなかった。
指先から生まれた弱々しい風が、一拍遅れてキュルへ向かう。
そのとき、エリルは自分の背後に風を集めた。
キュルを押し出すのではなく、自分の身体を前へ押し出すために。
地面を蹴るのと同時に、集めた風を一気に弾けさせ、エリルはレニアの風を追い越して前へ飛び出した。その勢いのまま爪の前に半透明の障壁を滑り込ませ、爪の軌道をわずかに外側へ逸らした。
エリルはキュルを両腕で抱え込み、庇うように地面へ身を投げ出した。逸れた爪の先が、その背中を斜めに切り裂いた。
制服が大きく裂け、鮮血が飛び散る。
その血が、キュルの頬を濡らした。
「エリル!」
レニアの声が上がった。
「っ……!」
エリルの身体が強張った。それでもキュルを離さず、そのまま地面を転がって爪の軌道から抜ける。
キュルはすぐに身を起こした。
「エリル……」
エリルは返事をするより先に、腕の中にいたキュルへ目を向けた。
顔にも身体にも、爪が届いた跡はない。
それを確かめると、苦痛に歪んでいた口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「よかった……」
キュルの視線が、エリルの肩越しに落ちる。
肩口から腰へ斜めに裂けた制服を、流れ出した血が瞬く間に赤く染めていた。
伸ばしかけた手が、一度止まる。
それからキュルは、倒れかけたエリルの身体を強く支えた。
その背後で、再び剣と爪がぶつかった。
ブロムの身体が押し戻され、根によって狭められた道の端まで足を滑らせる。
キュルは音のした方へ顔を向けた。それでも、エリルを支える腕を離そうとはしない。
「行って」
エリルが、浅い呼吸の合間に告げた。
キュルの視線が戻る。
「でも……」
「ブロム1人じゃ持たない。このままじゃ全員死ぬ」
エリルはキュルの腕を軽く押し返した。
そのわずかな動作だけで、背中の傷から新たな血が流れる。
それでもキュルは離れず、エリルを支える手にいっそう力を込めた。
その背後で、ブロムの剣が大きく弾かれる。キュルは1度だけエリルを強く支え直すと、ゆっくりと手を離した。
立ち上がっても、視線は血に濡れた背中に残っていた。だが、次の瞬間には身を翻し、何も言わずフォールンへ駆け戻った。
キュルが前線へ駆け戻るのを見届け、エリルは浅く息を吐いた。
片膝をついたまま、囲いまでの道へ目を向ける。息を吸うたびに背中の傷が引きつり、障壁を差し込もうと上げた手も、途中で止まった。わずかに上体を動かしただけで、裂けた制服の下から新たな血が流れる。
それでも、エリルはフォールンと持ち上がった根の動きを追い続けた。
「キツキ」
振り返ったキツキは、血に濡れたエリルの背を見て、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
「フォールンの右を塞いで。囲いへ続く道だけ残す」
その声に、キツキはすぐに頷き、近くの根に手をついた。
急がなければならない。ブロムは血を流し、エリルも大けがをした。キュルの呼吸も浅い。このまま長引けば、前線が持たない。
掌に返ってくる感覚を探りながら、メガネに映る淡い反応を追う。いくつかに分かれた流れの中から、エリルが示した方向へ伸びるものを選び、魔力を送り込んだ。
地面が低く震える。
フォールンの右側で太い根が持ち上がり、空いていた道を塞いだ。
キュルはすぐに残された隙間へ入り込み、振るわれた爪に短い黒い線を絡ませて、動きをわずかに鈍らせた。
その正面から、ブロムが剣を押し込む。
フォールンの足が、囲いの方へ一歩下がった。
「そのまま。次も奥へ寄せて」
キツキは根から手を離し、次の反応がある場所へ走った。
その間も、ブロムとキュルはフォールンに立て直す隙を与えなかった。剣と爪がぶつかるたび、ブロムの左上腕から滴った血が黒土へ散る。キュルも頬に残ったエリルの血を拭わないまま、浅い呼吸で側面へ回り続けていた。
もう一度、エリルの声に合わせて根が持ち上がる。
フォールンの進路がさらに狭まり、ブロムとキュルが、フォールンを空いた道へ押し込んだ。
木々の間に見えていた大きな囲いが、先ほどよりも近い。
あと少しだ。
ブロムとキュルは、逃げ道を与えないようさらに奥へ踏み込んでいる。キツキも前線を追い、次の根に手を伸ばした。
エリルの声が飛ぶ。
「キツキ、フォールンの左を塞いで。右側だけ残す」
キツキは息を整える間もなく、根の内側へ意識を向けた。
掌に、いくつもの分岐が返ってくる。
左へ向かう反応は、1つではなかった。その先で何が動くのかを見分ける手掛かりもない。だが、確かめ直している時間はなかった。
キツキは、エリルが示した方向へ伸びる反応を1つ選び、魔力を流した。
地面が震える。
だが、持ち上がるはずの根は現れなかった。
「え……」
代わりに、キツキとフォールンの間を塞いでいた太い根が、低く軋みながら左右へ退き始めた。
フォールンの進路をさらに狭めるはずが、キツキとの間に道が開いた。
「っ!」
キツキは反射的に根に魔力を送り直す。だが、掌に返る感覚はいくつにも枝分かれし、どれを選べば根を戻せるのか分からない。
ブロムが剣を返し、キュルの黒い線が伸びる。
しかし、そのどちらよりも早く、フォールンが顔を上げた。
目が合った。
森の湿った空気が、急に重さを持った。
じっとりとした何かが全身にまとわりつき、息が吸えなくなる。
死にかけたことなら、これまでにもあった。
だが、ここまで明確な殺意を向けられたことはあっただろうか。
――殺される。
フォールンが、開いた道へ足を踏み出した。




