第58話 供物の森・三
その声を聞いた瞬間、キツキの背筋に震えが走った。
向けられたのは自分ではない。仲間の声だと分かっているのに、身体が勝手に強張る。
フォールンは少し離れたキツキへ顔を向けると、間を置かず地面を蹴った。
瓦礫のそばにいたブロムが横から踏み込み、キツキへ向かう進路に割って入った。迫るフォールンを正面に据え、剣を構える。
ブロムの周囲に淡い光が浮かび、吸い込まれるように身体の内側に沈んでいく。直後、制服の上に細い光の紋様が走り、剣の輪郭にも圧縮された光が沿った。
かつての勇者が用いた特殊強化――『勇者顕装』。
フォールンは速度を緩めなかった。指先の爪に黒く濁った魔力がまとわりつき、振るわれた軌道に黒い残像が残る。
ブロムはその一撃を、正面から剣で受け止めた。激しい衝突音とともに足元の地面が抉れる。それでも今度は、吹き飛ばされなかった。
剣と爪がぶつかったまま、ブロムの腕がゆっくりと押し戻されていく。
「ぐっ……」
制服の上を走る光の紋様が強く瞬いた。ブロムは両足に力を込め、剣を斜めに傾けて爪を外へ受け流す。
フォールンの腕が横へ流れた。その隙を逃さず、ブロムが剣を振り抜く。光をまとった刃がフォールンの胸元を捉えたが、浅く食い込んだだけで止まった。
フォールンはその傷に目を向けることもなく、ブロムの肩越しにキツキを見る。そのまま身体の向きを変え、横を抜けようとした。
だが、その側面にキュルが滑り込む。
フォールンが、割り込んだキュルへ爪を振り下ろした。
キュルはさらに低く身を沈めてかわし、その腕の内側に潜り込む。手元から伸びた短い黒い線がフォールンの手首へ絡み、爪の軌道をわずかに外へ逸らした。
逸らされた爪の先がキュルの髪をかすめ、その勢いのまま背後の地面を深く切り裂いた。裂けた土の間から、太い木の根が一部を覗かせる。
キュルはすぐに黒い線を解き、フォールンの脇を抜ける。振り返りざまに膝裏へ蹴りを放ったが、フォールンは片脚をわずかにずらしただけでかわした。
その瞬間、反対側からブロムが再び剣を振るう。
フォールンは迫る刃を爪で弾いた。黒い残像が走り、ブロムの身体が大きく揺れる。
すかざずキュルが空いた側面に入る。
2人は正面と側面から交互に動き、フォールンをキツキへ近づけないように押しとどめていた。
それでも、フォールンの視線は一度もキツキから外れない。ブロムが立ちはだかれば押しのけ、キュルが割り込めば爪を振るう。
2人を倒そうとしているのではない。ただ、キツキへ向かう道を塞ぐものだけを、排除しようとしていた。
キュルが一度距離を取り、フォールンの手首へ向けて黒い線を伸ばした。だが、黒い線は外へ伸びるにつれて細くなり、フォールンの手首へ届く頃には、今にも途切れそうなほど薄くなっていた。
フォールンがわずかに腕を振るだけで、黒い線が弾けて消える。
キュルは一瞬だけ目を細めると、すぐに地面を蹴った。再びフォールンの懐に潜り込み、手元から短く伸ばした黒い線を手首へ絡ませる。
黒い線は先ほどより短く、薄い。それでも、途切れる前にフォールンの腕を引いた。
引かれた腕がわずかに外へ流れる。それでも、振り下ろされる爪は止まらない。
その軌道へ、半透明の障壁が斜めに差し込まれた。エリルの魔法だった。
しかし、現れた障壁は手のひらほどの大きさしかなく、黒い爪に触れた瞬間、粉々に砕け散る。それでも、斜めに置かれた障壁は爪をさらに外へ流した。
振り下ろされた腕が逸れ、ブロムとキュルの間からフォールンの胸元まで射線が通る。
その一瞬を逃さず、レニアが手を突き出した。指先が一度だけ震える。それでも、細く絞った炎を2人の間へ通した。
だが、炎はフォールンへ近づくほど細くなっていき、胸元へ届いたときにはわずかな焦げ跡を残しただけで消えてしまう。
「なっ……どういうこと……」
レニアが眉を寄せた。放った炎の弱さとは釣り合わないほど、その呼吸は大きく乱れていた。
フォールンは焦げ跡に目を向けることすらなく、再びキツキへ踏み込んだ。
その進路へブロムが身体を滑り込ませる。フォールンは足を止めず、邪魔なものを薙ぎ払うようにブロムへ爪を振るった。
キュルの黒い線が手首を引き、エリルの障壁が外側から腕を押す。それでも、軌道を変えきれない。
黒い残像を引いた爪が、ブロムの左上腕を制服ごと切り裂いた。裂けた袖の下から血が流れ、腕を伝っていく。
ブロムは傷に目を向けることも、痛みに顔を歪めることもなく、何事もなかったように剣を構え直す。
レニアは乱れた呼吸を整えながら、フォールンを睨んだ。
「あいつを覆う黒い魔力に、削られてるの……?」
フォールンが再び爪を振るう。
エリルはその前へ新しい障壁を差し込みながら、返した。
「それだけじゃない。私の障壁は、あいつに触れる前から薄かった。形になった時点でもうね」
エリルの言葉に、レニアは足元に視線を落とした。
接触した瞬間に削られているわけではない。炎も、空中を進む間に細くなった。
レニアは地面へ手を向ける。空中を介さず、地面に沿って魔力を通す。
「これなら……」
レニアの手元から白い霜が広がり、地面を這ってフォールンへ走った。
だが、霜は足元へ届くまでに細くなり、途切れかけていた。そこから伸び始めた氷も、足首に届く前に成長を止める。
薄く広がった氷へ、フォールンが片足を踏み下ろした。
乾いた音とともに、氷が砕け散った。
「っ……」
レニアが息を詰め、わずかに身体を揺らす。得られた結果に反して、レニアの消耗した魔力は先ほどよりも大きかった。
「敵に触れたせいでも、属性だけの問題でもなさそうだね」
エリルは砕けた障壁の向こうで、周囲の木々へ視線を走らせた。今の情報だけでは、原因までは絞れない。
「ゲートそのものか。それとも……森の中に何かあるのか」
その言葉を聞いたキツキの視線が、爪に抉られて露出した太い根で止まった。




