第57話 供物の森・二
キツキは振り返ったまま、目を見開いた。
そこに立っていたのはレニアだった。肩を小さく上下させ、汗の浮いた額には銀色の髪が張りついている。頬も少し赤かった。
「レニア……」
名前を呼んだ次の瞬間、キツキはレニアに駆け寄り、両手でその頬を挟んでいた。
指先に触れた頬は柔らかく、ちゃんと温かかった。
レニアは目を見開いたまま、頬を挟まれて固まった。何が起きたのか分からないように、一度だけ瞬きをする。
「ちょ、ちょっと……何をしているのよ!」
我に返ったレニアは、両手でキツキの胸を強く押した。
押し返されたキツキは、一歩よろめく。頬から離れた指先には、まだレニアの温かさが残っていた。
「本物だ……」
「当たり前でしょ!」
「よかった……」
ようやく安心した途端、声が掠れ、張り詰めていた肩から力が抜けた。
その声と、心底ほっとしたような表情を見て、レニアは何かを言いかけたが、結局その言葉を飲み込んで、少しだけ顔をそらした。
「……無事なら、それでいいわ」
そう言うと、レニアはキツキから顔を背けたまま、拳でその横腹を軽く小突いた。
「痛っ」
レニアはすぐに拳を引くと、腕を組み、少し顎を上げてそっぽを向いた。その耳は、わずかに赤くなっていた。
「ふん」
そのとき、複数の足音が近づいてきた。
「やっぱり無事だったね、キツキ。私は信じてたよ」
木々の間から現れたエリルが、わざとらしい笑みを浮かべて言った。
すぐさま、レニアの鋭い視線がエリルへ向けられる。
「……少なくとも、可能性は捨てていなかったよ」
エリルはわずかに目をそらしながら言い直した。
その後ろから、ブロムとキュルも姿を見せる。
「無事でよかった」
ブロムは大きく息を吐いた。その表情から、張り詰めていたものがわずかに消えていく。
キュルは何も言わず、キツキの頭から足元までを素早く見た。
「怪我、してる?」
「いや、全然。どこも痛くないよ」
キツキが明るく答えると、キュルはわずかに肩の力を抜いた。
「そう」
キツキは改めて4人の顔を見回した。
レニアだけではない。ブロムも、キュルも、エリルもいる。誰一人欠けておらず、目立った怪我をしている者もいなかった。
「みんな、無事だったんだな……」
「ああ」
ブロムが頷く。
その返事を聞いて、キツキはようやく息を吐いた。
あの裂け目に飲み込まれてから、ずっと胸の奥に残っていたものが、少しずつほどけていく。
全員の無事を確かめて少し落ち着くと、キツキは改めて周囲を見回した。
巨大な木々と、紫色の空。すぐそばでは、村人たちがキツキたちを気にすることもなく、それぞれの仕事を続けている。
「そういえば……ここって、どこなんだ? これもダンジョンなのか?」
「ゲートの中だよ」
答えたのはエリルだった。
ゲート。
元の世界で読んだ漫画でも、よく見かけた言葉だ。ただ、場所と場所をつなぐ扉だったり、魔物が現れる穴だったりと、意味は作品によって違っていた。
「……名前は知ってるけど、正直あんまり知らないんだよな」
「何よ、その曖昧な知識は」
レニアが怪訝そうに眉を寄せた。
「普通は、ギレルに入る前に基本くらい教わるものよ」
「いやー、それは……ははは」
キツキが笑ってごまかすと、レニアは呆れたように息を吐いた。
「外の世界から切り離された、特殊な空間のことだよ」
エリルが話を戻す。
「自然に発生するもので、中の環境や法則はゲートごとに違う」
キツキは頭上を覆う木々を見上げた。
「じゃあ、この森も村も、全部そのゲートの中にあるってことか?」
「そう考えていいよ」
「外には出られるのか?」
「ゲートごとに決められた条件を満たせば、出口になるゲートが中に現れる。外から入った者が全員そこを通れば、ゲートは閉じるよ」
「その条件って?」
「それはまだ分からない」
エリルはあっさりと答えた。
「中を調べて、この場所が何をさせようとしているのかを見つけるしかないね」
キツキは近くを歩いていた村人に目を向けた。
籠を抱えた女が、こちらを見ることもなく家の中へ入っていく。
「じゃあ、あの人たちもゲートの一部なのか?」
「おそらくね」
今度はレニアが答えた。
「ゲートの中には、人間や動物に似たものが最初から存在していることがあるわ。見た目や振る舞いが同じでも、外から入った私たちと同じ生命体ではないわ」
「でも、普通に喋ってたぞ。笑ってもいたし」
「そういうふうに振る舞うものもいるんだよ」
エリルが村人たちを見ながら補足する。
「何を考えているのか、本当に意思があるのかまでは分からない。ただ、彼らがこの場所に属する存在である可能性は高い」
「だから、本当に生きているわけじゃないって言ったのよ」
レニアがそう言うと、キツキはもう一度村人たちを見た。
笑い声も、交わされる言葉も、先ほどまでと何一つ変わっていなかった。
さっき指先に残ったレニアの温かさを、キツキは思い出した。目の前の村人たちにも、触れれば同じ温かさがあるのだろうか。
答えの出ないまま視線を落とすと、囲いへと続く太い根が目に入った。
その中に浮かんでいた淡い魔力反応を思い出す。根が動いたことと関係があるなら、みんなにも伝えておいた方がいい。
ただ、メガネで見えたとは言えない。キツキは、少し考えてから4人へ顔を向けた。
「そうだ。この根なんだけど……なんとなく、中に魔力が通ってる気がするんだ」
「根の中に?」
レニアも視線を落とす。
「うん。それに、あの人たちが木に触ったら根が動いたんだ。千切られた根も、すぐに新しいのが伸びてきた」
キツキが獣を閉じ込めた囲いを指さすと、エリルは囲いと周囲の木々を見比べた。
「触れただけで動いたの?」
「触っただけにしか見えなかったけど、たぶん、何かしてたんだと思う」
「なら、私たちにも動かせるか試してみようか」
エリルが近くの木へ歩み寄ろうとすると、レニアが先に出た。
「私がやるわ」
レニアは幹に手を当てて様子を見たが、しばらく待っても何も起きなかった。
「触るだけじゃ駄目みたいね」
レニアが少しだけ魔力を流すと、木の根元から伸びていた細い根が、わずかに地面を離れた。
「動いた」
キツキはメガネ越しに目を凝らした。
レニアから木へ入った魔力が、幹を通って根へ流れていく。根の中にあった淡い反応も、それに合わせて一瞬だけ強くなった。
「やっぱり、魔力に反応してるんじゃないか?」
キツキが言うと、ブロムは動いた根へ目を向けた。
「属性は関係あるのかな?」
ブロムはそう言ってレニアと入れ替わり、同じ場所に手を置いた。
わずかに魔力を流すと、今度は別の細い根がゆっくりと持ち上がった。
「ブロムでも動く……」
「少なくとも、特定の誰かにしか使えないものではなさそうだね」
エリルは動いた根を観察しながら言った。
「ただ、動かす向きや形まで選べるかは分からない。今は魔力に反応して持ち上がっただけだからね」
「じゃあ、次は俺がやってみる」
キツキは木の前へ進み、幹に手を伸ばす。
その指先が幹に触れようとした、そのときだった。
囲いの中から、低い唸り声が響く。
先ほどまで暴れていた獣が動きを止め、森の奥へ顔を向けていた。背中の毛が逆立ち、細い根の隙間から牙を剥いている。
「なんだ?」
キツキも獣の視線を追い、森の奥へ目を向けた。
キュルも同じ場所を見据えている。獣が唸り始めるよりも前から、異変に気づいていたのだ。
「来る」
その一言とほぼ同時に、森の奥で、太い根が1本、続けてもう1本と砕ける音がした。
地面を揺らす足音が、急速に近づいてくる。
「下がって!」
ブロムが声を上げるのと同時に、木々の間から人影が飛び出した。
黒く濁った魔力を身体へまとい、地面を這う太い根を踏み砕きながら、一直線にこちらへ駆けてくる。
その視線は、キツキだけに向けられていた。
「え――」
反応するより先に、ブロムが間に割り込んだ。
身体を覆った光が強く輝く。ブロムは剣を両手で構え、振り下ろされた一撃を受け止めた。
激しい衝突音が響く。
「ぐっ……!」
次の瞬間、ブロムの身体が宙に浮いた。そのまま後方へ吹き飛ばされ、集落の端にあった小さな物置の壁を突き破る。
「ブロム!」
キツキが叫ぶ。
人影はその声に反応すら見せず、再びキツキへ踏み出そうとする。だが、その足元から突然、細い光が跳ね上がった。
光は帯のように両脚に巻きつき、足首をまとめて縛り上げる。それは、ブロムが攻撃を受け止めた一瞬に仕掛けていたものだった。
踏み出しかけた人影の身体が揺れ、その動きが一瞬止まる。
「キツキ、下がって!」
レニアに腕を引かれ、キツキは数歩後ろへ退いた。
キュルが前へ出て、エリルは敵と周囲へ素早く視線を走らせる。
キツキもメガネ越しに、その人影へ目を凝らした。
視界の中に、文字が浮かび上がる。
――種別、フォールン。
続いて表示された数字に、息が止まった。
「リスク……5?」
フォールンが強引に脚を開くと、両脚を縛っていた光の帯が、音を立てて引き千切られた。
崩れた物置の中で、瓦礫が動く。
ブロムは剣を支えに立ち上がった。崩れた壁から落ちる木片にも目を向けず、フォールンだけを見据えている。
「フォールン……」
その声は、辺りの空気まで凍りついたかと思うほど、冷え切っていた。




