第56話 供物の森・一
景色が、変わっていた。
ついさっきまで、キツキは薄暗い洞窟の中にいたはずだった。
それが今は、太い木々に囲まれた森の中に立っている。
頭上には、枝葉の隙間から明るい紫色の空が広がっていた。夕焼けとも夜明けとも違う。空のどこを探しても太陽らしきものは見当たらないのに、森の中は不自然なほど明るかった。
「……え?」
キツキは右手に何か硬いものを握ったまま、ゆっくりと周囲を見回した。
地面を覆う湿った黒土。その上を這う、キツキの胴ほどもある太い根。見上げても先端が分からないほど高い木々。
どれも、さっきまでいた場所にはなかったものだ。
背後を振り返る。
だが、自分を飲み込んだ裂け目も、洞窟へ戻れそうな道も見当たらなかった。
「どういうことだよ……」
あの裂け目に飲み込まれたところまでは覚えている。
なら、自分だけがここへ飛ばされたのか。
そこまで考えたところで、キツキは息を呑んだ。
「レニア?」
返事はない。
「ブロム! キュル! エリル!」
今度は声を張り上げた。
返事を待つ間、右手には無意識に力が入っていく。
だが、紫色の空の下に返ってくる声はなかった。
「……いないのか?」
呟いても、答える者はいない。
キツキはもう1度周囲へ目を向けた。見える範囲には、人の姿どころか、動くものさえ見当たらなかった。
そこでようやく、右手に硬い感触が残っていることに気づく。
「あ……」
握っていたのは、ロックドレイクから回収した討伐証だった。
ここへ飛ばされたのが自分だけなのか。それとも、レニアたちも別の場所へ飛ばされたのか。何1つ分からないが、少なくとも持っていた物まで失ったわけではないらしい。
制服にも目立った汚れはない。身体を軽く動かしてみても、どこかを痛めた様子はなかった。
懐から取り出した懐中時計も、針は変わらず動いている。
だが、学院に位置が伝わっているのかどうかを確かめる方法はなかった。
「どうすればいいんだよ……」
レニアたちの痕跡が残っていないか。そう意識しながら、キツキはメガネ越しに周囲へ目を凝らした。
だが、人の姿も、移動した跡らしい反応も見つからない。
視線を足元へ落とす。
地面を這う太い根の内部には、ところどころ淡い魔力反応が浮かんでいた。近くの根から別の根へ、地下を通って続いているように見える。
しかし、何のためのものなのかまでは分からなかった。
「魔法……なのか?」
問いかけても、メガネが答えを返してくれるわけではない。
キツキは森の奥へ目を向け、小さく息を吐いた。
このまま待っていても、レニアたちが来る保証はない。
それでも、ここで待っているだけでは何も分からない。
キツキは討伐証を握り直し、森の奥へ足を踏み出した。
道らしい道はない。地面を覆う太い根の間を選びながら、ゆっくりと進んでいく。
少し進んでは立ち止まり、周囲を確かめる。そのたびに歩みは鈍り、なかなか先へ進めなかった。
今のところ、何かが襲ってくる様子はない。だが、静かすぎる森の中では、自分が黒土を踏む音ばかりがやけに大きく聞こえた。
「レニアー!」
もう1度呼んでみたが、返事はなかった。
そうして慎重に進んでいるうちに、キツキは足を止めた。
目の前の黒土が、周囲よりも固く踏み締められていた。
「これ……道か?」
細い筋ではあったが、木々の間を縫うように奥へ続いている。
その脇には、細く裂いた樹皮で編まれた縄が落ちていた。自然にできたとは考えにくい。
――人がいる。
そう思っただけで、わずかに肩の力が抜けた。
キツキは踏み固められた跡を外さないように歩き始めた。
やがて、前方の木々の間に、森とは違う形が見えてくる。
太い幹と根の隙間に、木を組んで作られた小さな家が並んでいた。
その奥にも屋根が続いている。
「村か……?」
家々の間では、籠を運ぶ者や、戸口で布を畳む者の姿もあった。
周囲を警戒しながら踏み固められた道を進んでいくと、集落の手前で低い唸り声が聞こえた。
目を向けると、見慣れない服を着た男が2人と、女が1人いた。3人は短い棒を手に、黄色と黒の縞模様をした獣を取り囲んでいた。
トラによく似ているが、大きさはキツキの腰ほどしかない。
獣が低く唸り、男たちの間をすり抜ける。森へ駆け込もうとしたその先で、女が近くの木に手を当てると、地面を這っていた根が持ち上がり、行く手を塞いだ。
獣は身をひねって向きを変えた。だが、別の男が木に触れると、今度は反対側から根がせり上がった。
「そっちに行くぞ」
「囲いを開けて」
村人たちは短い言葉を交わしながら、獣を集落の端へ追い込んでいく。
その先には、太い根で囲まれた円形の場所があった。
男の1人が近くの木の根元に手を置くと、絡み合っていた根が左右へ退き、獣1頭が通れるほどの隙間が開いた。
逃げ場を失った獣が、その中に飛び込む。太い根が閉じ始めると、獣は振り返り、隙間へ伸びていた細い根に爪を立てた。根が音を立てて千切れる。
だが、男が再び木に触れると、千切れた根の脇から新しい根が伸びて隙間を塞ぎ、太い根も元の位置へ戻った。そうして、獣は囲いの中に閉じ込められた。
「今日はよく暴れたな」
「根を1本やられたけどね」
女が千切れた根を見て肩をすくめると、男の1人が声を上げて笑った。
キツキは幹の陰に立ったまま、村人が触れた木と、動いた根を交互に見つめていた。
何をしたのかは分からない。だが、3人が木に触れるたびに根が動いていた。偶然とは思えなかった。
「魔法……だよな?」
小さく呟きながら、キツキは握ったままだった討伐証を制服のポケットに押し込んで、幹の陰から出た。
村人同士で言葉を交わしていたのだから、話は通じるはずだ。
「あの、すみませーん!」
少し離れたところから声をかける。
だが、誰も振り向かなかった。
「ここがどこか、教えてほしいんですけどー!」
今度は少し大きな声で呼びかける。
それでも反応はない。
村人たちはキツキの声など聞こえていないかのように、それぞれの会話を続けていた。
「聞こえてないのか?」
キツキは男の1人へ近づいた。
正面へ回り込み、顔の前で手を振ってみる。
男の視線はキツキを通り抜け、その向こうにいる女に向けられていた。
「……見えてもない?」
キツキは男の視線の先へ回り込むように、右へ左へと小刻みに身体をずらした。最後には少し腰を落とし、下から顔を覗き込んでみる。
それでも男の目は、ほんの少しもキツキに留まらなかった。そのまま足を止めることも、避けようとすることもなく、すぐ脇を通り過ぎていく。
無視しているというより、本当に最初からそこに誰もいないと思っているように見えた。
「それなら……」
キツキは遠ざかる男の前へ先回りすると、両手を大きく広げて進路を塞いだ。
それでも男は足を緩めない。ぶつかる寸前で、キツキの方が慌てて身を引いた。
キツキは負けじと、すぐに反対側へ回り込み、もう一度その前に立とうとした。
「あなた……何をしているの?」
背後から、明らかに呆れを含んだ声がした。
「え?」
キツキが振り返る。
「彼らは、本当に生きているわけじゃないわ」
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