第55話 助けたい
戻ってきた教師は、入口のすぐ内側に残された印を見下ろした。
本来なら、もっと奥の壁につけられていたものだった。
教師が石床に手を置いた。指先から伸びた淡い光は通路の奥へ進み、やがて不自然に曲がると、そのまま入口へ戻ってきた。
「道は塞がれていません。ですが、空間のつながり方が歪められています」
「解除は」
「……今ここにいる者だけでは、すぐには」
ガルドは入口の暗闇から目を離さなかった。
「空間魔法に精通した者を呼べ。学院内に限るな。到着を待つ間も、人数と進入条件を変えて試せ。とにかく手を止めるな」
「はい」
騎士団員たちが、再び入口の前に集まっていく。
4人の反応は、まだ盤面に残っていた。
そこにいる。それだけは分かる。
だが、そこに続く道が、どこにも見つからない。
――頼む。間に合うまで、耐えていてくれ。
◇
キツキがゲートへ飲み込まれてから、まだほとんど時間は経っていなかった。
ブロムは、まだ強ばっていた指を一度握り直し、懐中時計から危険信号を送った。
だが、懐中時計から学院側の状況を知ることはできない。
信号が届いたのか。教師たちがこちらへ向かっているのか。それすら、4人には分からなかった。
淡い青紫色の膜だけが、目の前で静かに揺れている。
エリルはその光を見つめたまま、何も言わなかった。
「……答えなさい。エリル」
レニアの声が、静かな通路へ落ちた。
エリルの視線が、ゆっくりとレニアへ向く。
「……ゲートが発生するなんて知らなかったよ」
「では、何を知っていたの」
今度の問いには、さきほどよりも鋭いものが混じっていた。
エリルはすぐには答えなかった。
ゲートの膜が揺れるたび、その淡い光が琥珀色の瞳を横切っていく。
「今回の実習で、何かが起きるかもしれないってこと」
レニアの眉が、わずかに動いた。
「フォールンが関わっている可能性もあった。狙われているかもしれない生徒がいるって話も、噂程度には掴んでた」
「誰が狙われていたの」
「……確証はなかった」
「聞いているのは、そこではないわ」
レニアが一歩、エリルに詰め寄った。
「誰が狙われていると知っていたの」
エリルの口元からは、いつもの笑みが消えていた。
「君と、ブロム」
通路に、短い沈黙が落ちた。
ブロムがわずかに目を見開いた。だが、何も言わなかった。
レニアの赤い瞳は、エリルから離れない。
「それを疑っていながら、なぜ何も言わずに私たちを同じ班へ集めたの」
「知ってたわけじゃない。確証のない噂だった」
「論点を変えないで」
レニアの声が強くなる。
「危険があると考えていたのでしょう。なぜ、それを私たちに共有しなかったの」
「証拠がなかったから」
エリルも視線を逸らさなかった。
「出どころも明かせない情報じゃ、学院は動かせない。それでも何かが起きたときに対応できるようにしたかった。狙われているかもしれない人を別々の班に置くより、戦える人間を集めた方がいいと思った」
「だからって、私たちに聞かずに決めたの?」
レニアは手を強く握った。
「その結果が、これよ」
視線の先では、キツキを飲み込んだゲートが変わらず揺れていた。
「危険があると分かっていたのに、何も言わずにキツキまで巻き込んで」
「殿下」
ブロムの声が、2人の間へ入った。
レニアは振り向かなかった。
「今は、誰が悪かったのかを話し合っている場合じゃない」
ブロムはゲートを見た。
「これからどうするか。まず、それを決めよう」
レニアは何も答えなかった。
握られた手も、エリルへ向けた視線も、そのままだった。
だが、ブロムの言葉を無視して責め続けることはしなかった。
エリルが小さく息を吐き、ゲートへ視線を戻す。
「危険信号は出した。学院が受け取っていれば、もう動いてるはずだよ」
「受け取っていなければ?」
「その可能性もある」
「なら――」
「だからって、今すぐ入るべきだとは思えない」
エリルはレニアの言葉を遮った。
淡い青紫色の膜へ目を向けたまま、いつもの軽さを消した声で続ける。
「普通のゲートなら、一度入れば閉鎖条件を満たすまで戻れない。中がどうなっているかも、何をすれば閉じるのかも、外からは分からない」
「そんなことは知っているわ」
「これは普通のゲートじゃないかもしれない」
レニアの視線が、エリルからゲートへ移った。
「擬似ダンジョンの中で、狙ったみたいなタイミングで発生した。自然にできたと考えるより、人工的なものだと考えた方がいい」
エリルはゲートを見つめた。
「普通のゲートと同じルールが通じる保証もない。キツキと同じ場所に着くとは限らないし、私たち4人が一緒の場所に出られるとも限らない」
誰も否定できなかった。
ゲートの向こうにキツキがいる。それさえ、今の4人には確かめられない。
「学院を待つべきだよ」
エリルは言った。
「信号が届いているなら、教師も騎士団も動いてる。私たちだけで入るより、確実な戦力を待った方がいい」
「いつまで?」
レニアが尋ねた。
「それは……」
「キツキが、どんな場所にいるのかも分からないのよ」
ゲートの光が、レニアの赤い瞳に映り込んでいた。
「怪我をしているかもしれない。何かに襲われているかもしれない。それでも、誰かが来るまで待てと言うの?」
「入ったところで助けられる保証はない」
「だからって何もしないの?」
「残った4人まで戻れなくなるよりはいい」
そう言ったあと、エリルは一瞬だけ目を伏せた。
だが、言い直しはしなかった。
「私たちまで入って、5人全員が危険に身を置くより、今は教師たちが来るのを待つ方が――」
「なら、私1人で行くわ」
レニアがゲートへ向き直った。
「殿下」
ブロムがすぐに呼び止める。
「あなたたちまで巻き込むつもりはないわ。私はキツキに何度も助けられた。彼を追える道がすぐ目の前にあるのに、何もせず待つなんてできない」
その言葉にエリルの目が、わずかに細くなった。
「1人で行かせるわけにはいかないよ」
ブロムが、静かな声で割って入った。
「これは私の判断よ」
「それなら、なおさらだ」
ブロムはレニアより先に、ゲートの前へ出た。
「誰か1人が入るなら、僕が行く」
「何を言っているの」
「僕は前衛だ。近くでの戦いにも、距離を取った戦いにも対応できる。誰かが行くなら、僕が入るのが一番合理的だ」
「ブロムまで……待ってよ」
エリルが2人の間に踏み込む。
「それが一番悪手だよ。着いた先で孤立したら、何の解決にもならない」
「それでも、僕は行くよ」
ブロムの声は穏やかなままだった。
それだけに、止まるつもりがないことが伝わった。
「キツキが助けを待っている可能性があるなら、ここには残れない」
「可能性だけで、自分の命まで賭けるの?」
「うん」
ブロムは、迷わず答えた。
「助けられる可能性があるなら、それで十分だ」
エリルの眉が、わずかに寄る。迷いのないその言葉に、あらためてブロムという人間の危うさを思い知った。
この男は、そういう男だった。
レニアも、ブロムも、もう言葉だけでは止められない。
「ねえ」
小さな声とともに、制服の裾が引かれた。
エリルが振り向く。
キュルが、その裾を指先でつかんでいた。
「どうしたの、キュル」
「いこ」
エリルが、わずかに目を見開いた。
小さく息を呑み、ひと呼吸置く。
「……中に入っても、キツキと同じところに行けるとは限らないんだよ?」
「うん」
「別の場所に送られるかもしれない。もう帰ってこれないかもしれない」
「うん」
キュルはエリルを見上げた。
「でも、助けたい」
エリルの目が、今度こそ大きく見開かれた。
キュルが、自分の望みをこれほどまっすぐ口にすることはほとんどなかった。
ほんの一瞬、思考が止まった。だが、すぐにレニア、ブロム、キュルへ視線を走らせる。
3人とも、もう止まらない。
それなら、自分はどう動くのが最善か。
エリルは、制服の裾をつかむ指へ視線を落とした。
その指先を見つめたまま、しばらく言葉を返さなかった。
やがて、小さく息を吐いた。
「……分かった」
キュルの指が、わずかに動いた。
「行こう」
レニアとブロムが、同時にエリルを見た。
「ただし、入るなら、できる限り間を空けない」
エリルはゲートへ向き直った。
エリルが指先の魔力を淡い青紫色の膜へ近づけると、光の表面に細い線が浮かび、縁に沿ってゆっくりと巡った。
示された進入上限は5人。すでにキツキが入っている。なら残りは、ちょうど4人だ。
「私たちが入れば上限に達する」
少なくとも、解析できた範囲では、人数制限は普通のゲートと変わらなかった。
通常通りなら、ゲートを攻略するまで、外から新たに入ることはできない。
つまり、攻略するか、中にいる全員が死ぬか。
誰も、その意味を口にはしなかった。
「それでも……行くんだね?」
エリルが確認すると、レニアは迷わず頷いた。
「ええ」
「僕も気持ちは変わらないよ」
キュルも、エリルの制服の裾から手を離した。
「行く」
エリルは短く息を吐いた。
「順番は、ブロム、レニア姫、キュル、私。前の人が入ったら、すぐに次が入る。向こうに着いても、その場を動かない。全員が揃うまで待つこと」
「分かった」
ブロムは短く頷き、ゲートへ向き直った。
一度だけ息を整えると、迷わずその中へ踏み込む。レニア、キュルも間を置かず、そのあとに続いた。
淡い青紫色の膜が揺れるたび、1人ずつ、その姿が向こう側へ消えていく。
残されたのは、エリルだけだった。
エリルは、来た道へ目を向けた。
教師たちは、もうこちらに向かっているかもしれない。
あと少し待てば、もっと安全な方法が見つかる可能性もあった。
それでも、今さら3人だけを行かせることはできない。
何より、キュルの選択を信じてみたくなった。
「ほんとに……予定どおりにならないね」
誰に言うでもなく呟き、エリルもゲートへ足を踏み入れた。
その姿が完全に消えた直後、青紫色だった膜は、音もなく赤へ変わった。
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