第53話 ロックドレイク討伐
ロックドレイクの切り離された前脚が、石床の上に転がっていた。
一瞬、その場の空気が止まったように感じた。
だが、ロックドレイクは倒れなかった。
前脚を1本失った巨体が、残った3本の脚で石床を掻いた。片側に大きく傾いたまま、肩を床に擦りつけるようにして体を持ち上げる。
硬い結晶が石床を削り、白い石煙が低く広がった。
「まだ動くよ!」
ブロムが言った。
その声に、さっきまでの柔らかさはなかった。
失った前脚の断面から、白く濁った水晶の欠片がぱらぱらと落ちる。
普通の生き物なら、そこで動けなくなってもおかしくない。
けれど、目の前の魔物は違った。
前脚を失ったことで弱ったのではなく、むしろ何かが剥き出しになったように見えた。
後ろ脚が石床を蹴り、残った前脚が床を掻く。
肩が沈み、外殻が壁に擦れて、また白い欠片が散った。
生きるために、目の前のものを押し潰そうとしている。
ブロムが前に出た。
体に淡い光をまとい、ロックドレイクの正面から目を逸らさない。
剣を構えたまま、無理に踏み込まない。押し返すのでもない。ただ、ロックドレイクの意識を自分に向けたまま、後ろへ流さない位置に立っている。
それだけで、キツキたちの前に線ができていた。
ロックドレイクがそこを越えれば、後ろにいる誰かが潰される。
ブロムは、その線から一歩も下がらなかった。
「左、空けて」
エリルの声が短く飛ぶ。
ブロムは返事の代わりに、半歩だけ位置をずらした。
エリル自身はロックドレイクだけを見ていない。視線の端が、通路の奥と、キツキたちの後ろ側を何度も拾っている。
まだ何かを警戒している。
キツキにもそれは分かったが、今は聞けなかった。
ロックドレイクが身をよじった。
前脚を1本失ったせいで、動きはまっすぐではない。
その分、巨体の揺れが読みにくい。
ロックドレイクの肩が沈んだ。
突っ込んでくる、と思った。
だが、残った前脚が叩きつけられたのは、石床だった。
ばき、と硬い音がして、割れた石床から砕けた石片が低く跳ねた。
そのいくつかが、後衛の方へ飛ぶ。
「下がって」
ブロムが短く言った。
同時に、光をまとった剣が石片を弾く。
硬い音がいくつも重なった。
白い欠片と石の破片が、ブロムの前で散る。ブロムは剣だけでなく、体の位置もずらして、レニアとキツキの前に入っていた。
防いだ。
そう思った瞬間、ロックドレイクの巨体がブロムへ向き直った。
石片を防いだ一拍。
その隙を、魔物の方が逃さなかった。
残った前脚で床を掻き、後ろ脚で押し出すようにして、低く傾いた体がブロムへ詰めてくる。
「ブロム!」
叫ぶのと同時に、キツキは手のひらに魔力を集めていた。
ロックドレイクの顔側へ向けて、集めた魔力を弾く。
雷が走り、白く濁った目のすぐ横で弾けた。
傷らしい傷は入らない。
けれど、ロックドレイクの頭が跳ねるように動いた。
濁った目が、キツキを捉える。
成功した。
そう思うより先に、キツキの背中が冷えた。
ロックドレイクの残った前脚が、石床を掻く。
傾いた巨体が、低い姿勢のままキツキへ向かって押し出された。
片側が沈んでいるせいで、突進の線が読めない。
石床を削る音が一気に近づき、ロックドレイクの肩が視界のほとんどを埋めた。
逃げなければならない。
頭では分かっているのに、足が石床に縫いつけられたように止まっていた。
――あ、死ぬ。
そう思った瞬間、腕を強く掴まれ、体が横へ引き抜かれた。
肩が石床をかすめ、足が浮く。
次の瞬間、キツキはロックドレイクの突進からほんの一歩分、外れていた。
ロックドレイクの肩が、すぐ横を通り過ぎる。
空気ごと押し潰していくような圧が、肌を叩いた。
キツキは床に片手をつき、遅れて息を吸った。
掴まれたままの腕を見ると、そこにいたのはキュルだった。
キュルは何も言わない。
ただ、キツキの腕を離す前に、ほんの一瞬だけ立てるかを確かめた。
そしてすぐに、ロックドレイクの方を見ていた。
「キツキ、下がって」
エリルの声が飛ぶ。
キツキは頷くこともできないまま、膝に力を入れた。
早く下がらないと。
そう思ったのに、一度、足が滑る。
キツキはふらつきながら、何とか後ろへ退いた。
壁際では、ロックドレイクが体勢を立て直そうとしていた。
その外殻に、さっきはなかった細い傷が増えていた。
肩から首元にかけて、青白い光の名残が薄く散っている。キツキが引き抜かれている間に、レニアも撃っていたのだ。
それでもロックドレイクは止まらない。
残った脚で床を掻き、肩で体を支えながら、まだ前へ出ようとしている。
体勢を立て直したブロムが、その正面に戻る。
淡い光をまとわせた剣を、ロックドレイクの外殻へ打ち込む。
硬い音が返っただけで、刃は深く入らない。
それでもブロムは下がらなかった。剣を打ち込むたびに、ロックドレイクの顔がわずかにブロムへ向く。
その横を、黒い線が走った。
キュルが音もなく動いていた。
気づいた時には、ロックドレイクの水晶質の外殻に、細い黒い傷が増えている。
1本、また1本。
肩の下。残った前脚の付け根。失った前脚の断面に近い外殻。
どこをどう斬っているのか、キツキには見えない。
ただ、白く濁った体に、黒い線だけが少しずつ刻まれていく。
ロックドレイクが身をよじった。
傷そのものは浅いのかもしれない。
それでも、効いている。
キツキにはそう見えた。
「そのまま引きつけて」
「分かった」
エリルの声に、ブロムが短く返す。
無理に押し返すこともせず、ロックドレイクの正面に立ち続けた。
その後ろで、レニアは手を上げていた。
指先に、青白い光が集まる。
細い雷がロックドレイクの残った前脚の近くを打ち、外殻の表面で青白い光が跳ねた。
ロックドレイクの踏み込もうとした動きが、一瞬だけ鈍る。
レニアは続けて撃とうとして、すぐに手を止めた。
炎なら、もっと火力を出せるかもしれない。
けれど、ここは洞窟の中だった。
火を選ぶ場所ではない。
だから、レニアは火力ではなく、狙うべき一瞬を探した。
壁。床。味方の位置。逃げ場の少ない通路。
さっきまで意識しようとしても追いつかなかったものが、今は1つずつ目に入ってくる。
ブロムが正面にいる。
キュルが黒い傷を増やしている。
キツキは少し下がった位置で、再び魔力を握っている。
エリルは、全員の動きを見ている。
ばらばらだったはずのものが、急に1つの場面として見えた。
誰がどこにいるのか。
いつ撃てば、誰にも当たらないのか。
そして、どこに入れば届くのか。
ロックドレイクが残った前脚を踏み込もうとした瞬間、キュルの黒い線が、失った前脚の断面近くを走った。
巨体がわずかに沈む。
その動きに合わせるように、ブロムが半歩外れた。
開いた射線の先に、白く濁った断面の奥が見えた。
外殻に守られていない、細い隙間。
レニアの視界が、そこだけに絞られた。
――今だ。
そう判断した時には、もう指先が動いていた。
エリルも同じものを見たのか、短く息を吸う。
「レニアひ――」
その声が届ききる前に、既に魔法は放たれていた。
ブロムが半歩外れて開いた射線を、細い氷が一直線に走る。
青白い氷の光が、外殻に守られていない、白く濁った断面の奥へ深く入り込んだ。
次の瞬間、ロックドレイクの体内で何かが軋んだ。
水晶質の外殻の隙間から、白い霜が広がっていく。前脚を失った側から、肩へ。肩から胸元へ。
ロックドレイクは残った前脚を上げようとしたが、その動きは途中で止まった。
レニアは息を詰めたまま、さらに魔力を流し込む。
氷が、内側から巨体の動きを止めていく。
石床を掻いていた脚から力が抜け、肩が落ちた。
ロックドレイクの巨体が、白い石煙を上げながらゆっくりと崩れる。
そして、そのまま動かなくなった。
通路に、重い沈黙が落ちた。
キツキは、まだ手のひらに魔力を集めたまま、倒れたロックドレイクを見ていた。
さっきまで通路を満たしていた石擦れの音が、消えている。
それでようやく、終わったのだと分かった。
「……倒した、のか?」
自分の声が、少し遅れて聞こえた。
ブロムが剣を下げる。
「おそらくね」
その返事を聞いた瞬間、キツキは一気に息を吐いた。
足の力が抜けそうになって、慌てて踏みとどまる。
「いや、怖かった……!」
思わず声が出た。
ブロムが少し笑う。
「うん。僕も怖かったよ」
「絶対嘘だろ。落ち着きすぎだろ」
「そう見えたなら、よかった」
それはそれで怖い返事だった。
レニアは、自分の指先を見ていた。
そこにはもう、氷の光は残っていない。
けれど、さっきの一瞬だけ見えたものが、まだ手の奥に残っている気がした。
1人で撃っていた時とは違う。
ばらばらだったはずの動きが、あの瞬間だけ、ひとつにつながって見えた。
どうして見えたのかは、まだ言葉にできない。
ただ、今まで見えていなかったものが、初めて見えた。
その感覚だけは、確かに残っていた。
「レニア」
キツキが明るく言った。
「やったな!」
レニアはすぐには返事をしなかった。
少しだけ視線を逸らしてから、短く言う。
「……当然でしょう」
その声に、ほんの少しだけ柔らかさが混じっていて、キツキは思わず笑いそうになった。
その時、倒れたロックドレイクの体から、白く濁った光が抜けていった。
水晶質の外殻が砂のように崩れ、巨体が石床の上にほどけていく。
魔物が死体を残さず消えるところを、キツキは初めて見た。
ここが学院の擬似ダンジョンなのだと、遅れて思い出す。
あとに残ったのは、学院の刻印が入った金属の札だけだった。
「討伐証……」
キツキは、ガルドの説明を思い出して呟いた。
ブロムがそれを拾い上げる。
「課題は達成、かな」
「俺たち本当に倒したんだな!」
胸の奥の熱に押されるように、キツキは思わずそう言った。
レニアは何も言わなかったが、否定もしなかった。伏せた目元に、ほんのわずかな熱が残っている。
エリルは一瞬だけレニアを見て、口元を緩めた。
けれど、次にはもう、周囲へ視線を戻していた。
その横で、キュルも通路の音を聞いている。
ブロムも討伐証を持ったまま、まだ剣を完全には下ろしていなかった。
そこで、キツキはようやく気づいた。
課題は達成したはずなのに、空気が緩んでいない。
そのことが、少しだけ引っかかった。
「戻ろっか」
エリルが言った。
声はいつも通りに近い。
「そろそろ、外の空気も吸いたいし」
そう言われると、キツキも急に洞窟の息苦しさを思い出した。
「……そうだな」
ブロムが討伐証を握り直し、頷いた。
その動きで、キツキもようやく来た道へ目を向ける。
さっきまで通ってきたはずの通路が、少し違って見えた。
ダンジョンを進んで、指定された課題魔物を倒して、討伐証を手に入れた。
ほとんど終わったようなものだと思う。
けれど、外に出るまでは、まだダンジョンの中だ。
――帰るまでが遠足。
昔どこかで聞いた言葉が、妙にしっくりきた。
エリルたちがすぐに空気を緩めないのも、そういうことなのかもしれない。
キツキはそう思うことにして、討伐証を握るブロムのあとに続いた。
◇
監視区画の盤面で、淡い赤の印が消えた。
「第7入口、課題魔物の反応消失」
教師の1人が報告する。
若い教師が、思わず息を吐いた。
「本当に、倒した……」
「そうか」
ガルドは短く言った。
驚いた様子はない。
「あの班なら、やれると思っていた」
盤面の中では、課題魔物を示していた赤い印が消え、5つの白い点がゆっくりと来た道を戻り始めている。
教師たちの間に、わずかな安堵が広がった。
だが、それは長く続かなかった。
騎士団員の前にある別の盤面で、魔力の光が小さく乱れた。
「……待ってください」
ガルドの視線がそちらへ動いた。
「どうした」
「魔力反応に異常があります」
盤面の端で、薄い光がひずんでいた。
5つの白い点が戻ろうとしている経路の先に、その歪みはあった。
「これは……」
報告する声が、一拍遅れる。
「ゲート反応です……!」
監視区画の空気が、静かに張り詰めた。
ガルドは、消えた赤い印ではなく、5つの白い点が向かう先に生まれた歪みを見ていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
基本、毎日2話更新です!
続きが気になる、また読みに来てもいい、と思っていただけましたら、
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