第52話 擬似ダンジョンの奥へ
「……罠か?」
キツキが小さく言った。
「たぶんね」
エリルが答えた。
「よく分かったね」
ブロムが感心したように言うと、エリルは肩をすくめた。
「床だけなら見逃したかも。壁の線が余計だった」
エリルが指した右壁には、髪の毛ほどの細い切れ目が走っていた。床の溝と同じ位置から、まっすぐ上へ伸びている。
「床の溝、浅い」
キュルが続けた。
「でも、端までまっすぐ。変」
レニアも床に視線を落とした。
「……私には、ただのひびに見えたわ」
「そう見えたなら、学院の狙い通りだね」
エリルは楽しそうに言った。
キュルが床の端に転がっていた小石を拾う。
それから、何でもない動作で前へ放った。
小石が溝の上に落ちた瞬間、かちり、と乾いた音がした。
次の瞬間、床の両側から細い石の輪が跳ね上がる。足首の高さで閉じるように動き、小石の落ちた場所を囲んだ。
もし踏んでいれば、足を取られていた。
「……子供騙しっぽいのに、普通に嫌なやつだな」
ブロムは罠の範囲を見てから、エリルとキュルに視線を向けた。
「解除できそうかな?」
「解除するより、避けた方が早いかなー」
エリルが答える。
「左の壁沿い。1人ずつなら抜けられるよ」
「こっち」
キュルが先に立ち、左側の床を軽く指さした。
そこだけ、溝が途切れている。
ブロムが先に抜けると、キツキたちも同じ位置を踏んで続いた。
仕掛けが分かってしまえば、難しい罠ではなかった。
それでも、見落として踏めば足を取られる。
キツキはそれから、通路の床と壁をさっきより少しだけ気にするようになった。
その先でも、罠はいくつかあった。
床の石板が一枚だけわずかに違う場所。壁際の小石に触れると、頭上から砂利が落ちる場所。何でもない浅い溝に見えて、踏めば足首の高さで石の輪が閉じる場所。
そのたびにキュルが止まり、エリルが仕組みを読み、ブロムが通り道を決めた。
同じことを繰り返しながら、5人は少しずつ奥へ進んだ。
途中で、石の欠片に紛れる小さな魔物にも遭遇した。動かなければ床の一部に見えるそれに、メガネ越しの文字が重なる。
ストーンスキッター。リスク1。
足元に入り込まれると厄介だが、5人を長く止めるほどではない。ブロムが進路を塞ぎ、キュルが弾き、エリルが逃げ道を潰す。
キツキも床近くに小さな障壁を置き、跳ねてきた1匹を弾いた。
ほとんどはそれで片づいた。
だが、最後の1匹が壁際を這うようにして、ブロムの背後へ回り込もうとする。
「左」
レニアの声がした。
キツキが振り向くと、レニアは手を上げていた。けれど、すぐには撃たない。ブロムの位置と、キツキが置いた障壁を見てから、通路の幅に合わせるように指先を少し下げた。
「ブロム、半歩右へ」
声は、少し硬かった。
「分かった」
ブロムが動く。
その半拍あとに、床すれすれを細い氷が走った。
派手な魔法ではない。だが、リスク1の魔物を倒すには十分だった。
氷はストーンスキッターの脚をまとめて凍らせる。小さな体が石床の上で一度跳ね、それきり動かなくなった。
「……今、ちゃんと見てたな」
キツキは思わず言った。
レニアがこちらを見る。
「何を?」
「撃つ前に。ブロムの位置も、俺の障壁も見てただろ」
「当然でしょう」
短い返事だった。
だが、その横顔は少しだけ硬い。褒められているのか、確認されているのか、まだ判断しかねているようにも見えた。
「いや、今のは俺にも分かった。周りを見て撃ったって」
当たり前のことをしただけみたいな顔をしている。
でも、その当たり前が前はうまくできなかったのだと、キツキは知っている。
だから、ちゃんと変わろうとしているのだと分かった。
キツキが言うと、レニアはわずかに視線を逸らした。
「……そう」
それだけだった。
けれど、耳元に落ちた髪を直す指が、ほんの少しだけ遅れた。
硬い顔のままなのに、嫌そうには見えなかった。
エリルがその様子を見て、口元を緩める。
「いい感じだね。今のところは」
「今のところ、を付けるな」
「大事だよ。ダンジョンはまだ入口みたいなものだし」
エリルはそう言って、通路の奥を見た。
軽い声とは裏腹に、視線だけは暗がりの先を探っている。
それが次の角なのか、もっと先の何かなのかは、彼女にしかわからなかった。
◇
クレイム実習区域の監視区画には、複数の魔道具が並んでいた。
薄く光る盤面には、各班の現在位置が小さな点で示されている。生徒たちに渡された懐中時計とつながっているものだった。
教師たちは点の動きを追い、騎士団員たちは別の盤面で魔力の乱れを見ていた。信号が出れば、班と位置はすぐに分かる。
それでも、誰も気を緩めてはいない。
「第7入口、5人班。進行は安定しています。大きな停止はありません」
「そうか」
短い返事のあと、教師たちの視線が盤面の奥へ移る。
点は、ゆっくりと進んでいた。
「……本当に、この班にリスク3を当てるんですか」
若い教師が、抑えた声で言った。
「一年生相手に出す課題としては、ほぼ前例がないはずです」
その言葉に、周囲の視線が一度だけ集まる。
「班の構成を見ろ」
ガルドは盤面の5つの点から目を離さずに言った。
「あの班に合わせた課題だ」
「ですが、リスク3は」
「想定内だ」
ガルドの声は低かった。
「懐中時計もある。騎士団も控えている。必要なら止める」
そこで一度、盤面の赤い印を見る。
「だが、まだその段階じゃない」
若い教師は口を閉じた。
盤面の中で、5つの点がまた少し奥へ進む。
その先に、課題魔物を示す淡い赤の印が浮かんでいる。
ガルドはそれを見たまま、目を細めた。
ここから先は、生徒たち自身が見て、選ぶ時間だった。
◇
その赤い印に、5つの点が近づいていたころ。
小さな石の擦れる音は、いつの間にか消えていた。
代わりに、もっと重い音がした。
ごり、と。
硬いものが石床を削るような音。
ブロムの表情が引き締まる。
「……いるね」
「うん」
キュルが頷いた。
「大きい」
通路の先に、広い空間が見え始めていた。
床はわずかに傾き、壁の魔力灯も奥までは届いていない。
薄い明かりの向こうは、ほとんど暗い。
その向こうで、何か重いものが動いた。
キツキは喉を鳴らし、両手の感覚をもう一度確かめる。
まだ姿ははっきり見えない。
けれど、今度の相手は、さっきの小さな魔物とは明らかに違っていた。
暗がりの奥で、鈍い光が揺れる。
魔力灯を受けたそれは、岩ではなかった。
暗がりの奥にいたのは、軽自動車ほどもある、低く伏せた獣のような魔物だった。白く濁った水晶質の外殻に、短い結晶の突起が肩から背へ並んでいる。
前脚が動くたびに、硬い結晶が石床を擦った。
キツキのメガネに、淡い文字が浮かぶ。
ロックドレイク。
リスク3。
その表示を読んだ瞬間、キツキの背中に冷たいものが走った。
――ぶつかられたら、死ぬ。
そう思うより早く、ロックドレイクの前脚が石床を削った。
「来るよ!」
ブロムが短く言う。
次の瞬間、重い影がこちらへ動き出した。
速い。
体が大きい分、動き出しは鈍いのかと思ったが、違った。
低く沈んだ体が、石床を削りながら一気に迫ってくる。水晶質の肩が壁を擦り、白い欠片を散らした。
ブロムは正面から外れた。
受け止めようとはしない。後ろに流さないよう、突進のルートを少しだけ壁側へ誘いながら、自分の体をぎりぎりで逃がす。
ロックドレイクはブロムの横をかすめ、壁を削って通り過ぎた。
それだけで、胸の奥を押されるような圧があった。
キツキは反射的に手を上げた。
『二重障壁』
ロックドレイクの前脚を邪魔するように、低い位置へ透明な膜を二枚重ねる。
止められるとは思っていない。
それでも、一瞬でも鈍ればいい。
そう思った瞬間、前脚が障壁に触れた。
ぱき、と軽い音がして、2枚の膜が砕ける。
透明な光が散った向こうで、ロックドレイクはほとんど速度を落としていなかった。
分かっていたはずだった。
クラス2の障壁で、リスク3の魔物を正面から止められるはずがない。
それでも、少しは引っかかって、役に立てるかもしれないと思った。
その期待ごと、透明な膜はあっさり砕けた。
「キツキ」
エリルの声が飛んだ。
いつもの軽さが消えている。
「止めようとしなくていい」
キツキは振り返らないまま、息を呑む。
「ブロムが危なくなったら、魔法で気を引いて。それだけでいい」
「……分かった」
返事をした声は、自分で思ったより硬かった。
エリルは間違っていない。
今のキツキにできるのは、止めることではなく、必要な時に気を引くことくらいだ。
分かっている。
だからこそ、悔しかった。
ブロムは体に淡い光をまとい、ロックドレイクの肩をぎりぎりで避けていた。
すれ違いざまに剣を当てるが、水晶質の外殻は硬い音を返すだけだった。
ロックドレイクはそのまま壁際へ流れ、前脚で石床を掻いて向きを変える。重い体に似合わず、その動きは速い。
次に踏み込まれれば、またブロムとの距離が詰まる。
キツキは手のひらに魔力を集めたまま、撃つタイミングだけを探った。
危なくなったら、魔法で気を引く。
分かっているのに、奥歯に力が入る。
ロックドレイクが前脚を掻くたび、次の一歩でブロムが潰されるような気がした。
それでも、今じゃない。
キツキは魔力を握ったまま、ブロムから目を離さなかった。
その横で、キュルが消えるように動いた。
キツキが気づいた時には、もう音も気配もなかった。
何か黒いものがロックドレイクの足元へ走ったように見えたが、確かめる余裕はない。
ロックドレイクが再び前へ出ようとする。
その瞬間、重い体が突然沈んだ。
石床を削る音が乱れ、白い石煙が低く広がる。
キツキには、何が起きたのか一瞬分からなかった。
ロックドレイクが、急に足を止めたように見えた。
けれど違う。
石煙の下で、床の影が細く伸びていた。片側へ傾いた巨体の下には、黒い線のような切れ跡が残っていた。
その先に、白く濁った水晶の断面が覗いた。
ようやく、分かった。
ロックドレイクの前脚が1本、胴体から離れて、石床の上に転がっていた。




