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第50話 5人の名前

 キツキは、午後の鍛錬場にいた。


 エリルとの話を終えたあと、まっすぐ戻る気にはなれなかった。

 焼き菓子の包みはもう手元にない。代わりに、キツキは両手を前へ向けていた。


『二重障壁』


 透明な膜が、体の前を覆うように立ち上がる。少し遅れて、もう1枚がその内側に重なった。


 三重障壁の形は、前にも作った。けれど、今の身体で出せる出力には限りがある。無理に3枚へ増やしても、1枚ずつが薄くなるだけだった。


 防ぐための魔法なら、枚数を増やすより、崩れない方がいい。


 キツキは息を吐き、障壁を消した。


 次に、足元へ氷の魔力を落とす。


『小型氷壁』


 氷が床からせり上がり、キツキの前で人1人分ほどの幅に広がった。


 高さは胸元に届くかどうか。全身を隠すには足りない。けれど、正面から飛んでくる攻撃を受け流すには十分だろう。


 もし、本当にあの班になるなら。


 レニアも、ブロムも、キュルも、エリルもいる。攻撃力だけで言えば、キツキより上の相手しかいない。判断の速さでも、経験でも、勝てない部分は多い。


 ゲームで言うなら、自分に一番向いているのはタンクなのかもしれない。

 派手に倒す役ではない。倒れないように、崩れないように、誰かの前に膜を張る役。


 魔力が先に尽きる感覚はない。

 先に崩れるのは、集中力と制御の方だった。


「……あとは、どう維持するかだな」


 小さく呟いて、キツキはもう一度、両手を前へ向けた。


 2枚の障壁が浮かぶ。

 さっきより少しだけ、形は乱れなかった。


 その頃には、鍛錬場へ差し込む光も少し傾き始めていた。



 レニアが戻ってきたのは、放課後に近い時間だった。


 昼間よりも廊下の人は減っている。だが、完全に静かになったわけではない。班申請の期限が近いせいで、残っている生徒たちの声はむしろ低く、具体的になっていた。


 エリルは中央棟の柱の陰に立っていた。

 待っていた、という顔はしない。たまたまそこにいただけのように、壁へ軽く背を預けている。


 ただ、視線だけは時々、廊下の先へ流れていた。


 渡せるものは渡した。足を止めるだけの言葉も置いた。けれど、それでレニアが本当に戻ってくるかどうかは、最後まで本人次第だった。


 キュルはその横で、残っていた焼き菓子を小さく割っていた。


 エリルが廊下の先を見るたびに、キュルの視線もほんの少しだけ動く。

 何かを言うことはない。

 ただ、待っているエリルの隣にいた。


「待たせたかしら」


 レニアが言った。


「ううん。ちょうど退屈していたところ」


「それは待っていたと言うのではなくて?」


「そうとも言うね」


 エリルは口元だけで笑った。


 レニアは、目元ひとつ動かさなかった。


 午前中に話した時と、背筋の伸び方は変わっていない。歩き方も、声も、崩れてはいない。


「返事をしに来たわ」


「聞くよ」


 レニアは、すぐには口を開かなかった。


 視線だけが、ほんの少しだけエリルから外れる。迷っているというより、口にする言葉を一度、自分の中で確かめているようだった。


 それから、レニアは顎をわずかに上げた。


「その申請に、私の名前を入れて構わないわ」


 短い承諾だった。


 キュルが焼き菓子を割る手を止める。ほんの一瞬だけレニアを見て、それからまた何もなかったように手元へ視線を戻した。


「ありがと、レニア姫」


「礼を言われることではないわ」


「そう?」


「あなたは取引を持ちかけた。私は、それに応じる価値があると判断しただけよ」


 エリルは、少しだけ目を細めた。


 いつもなら、少しからかって返すところだった。

 けれど、その返事は軽く扱っていいものではなかった。


「なら、私も渡すね」


 エリルの声が、少しだけ軽さを失った。


「以前、レニア姫を狙った件。出どころとして見えてきたのは――」


 そこで、エリルは1度だけ周囲を見た。


 廊下の先を生徒が数人通り過ぎていく。笑い声は遠い。今ここに足を止めている者はいない。


 エリルは、声を落とした。


「第二王女派閥」


 レニアの表情は崩れなかった。

 王女として人前に立つ時の顔は、そう簡単には割れない。


 けれど、その名は外から飛んできた石ではなく、フォルテア王国の内側から、レニアに向けられた刃だった。


 赤い瞳の奥から、一瞬だけ色が引く。


 息を吸う音もない。声もない。


 ただ、握られた指だけが、白くなっていた。


「……そう」


 返事は、それだけだった。


 短すぎる返事だった。


「今言えるのは、そこまで。証拠の形も、経路も、ここでは渡せない」


「ここでは、ということは」


「もう少し掴めたら、渡す」


 レニアはエリルを見た。


 怒りか、失望か、諦めか。どれか1つに分けるには、瞳の奥が冷えすぎていた。


「……頼んだわ」


「もちろん。取引相手には誠実にするよ」


「あなたの誠実は、ずいぶん値段が細かそうね」


「高く見える?」


「安くは見えないわ」


 それだけ言って、レニアは踵を返した。


 エリルは呼び止めなかった。


 伝えるべきことは伝えた。いま追えば、午前中と同じになる。置いた言葉よりも、こちらの都合の方が強く見えてしまう。


 レニアは数歩進んだ。


 そのまま、何も言わずに去るように見えたが、廊下の角へ向かう途中で、足が1度だけ止まった。


「……キツキは」


 名前だけが、廊下に落ちた。


 レニアは振り返らないまま待っている。その背中は崩れていない。

 さっき落とした声も、王女としての形を保っていた。


 それでも、聞かずにはいられなかったのだろう。


 エリルは、少しだけ目を細めた。

 からかうには、今の声は小さすぎた。


「もう承諾してるよ」


「……そう」


 レニアは振り返らなかった。


 その声に、どの感情が一番多く混じっていたのかは、たぶん本人にも分かっていなかった。


 レニアはそのまま廊下を進んでいく。背筋は崩れない。歩幅も変わらない。

 ただ、廊下の角を曲がるまで、その手は1度も緩まなかった。


 レニアの姿が見えなくなると、廊下にはまた生徒たちの声だけが残った。


 エリルはしばらく、その角を見ていた。


 その隣で、キュルは何も言わずに立っている。


 残った名前は、あと1つだった。


 もっとも、エリルはそれを最後の交渉とは考えていなかった。キュルが何を選ぶかを軽く見ているわけではない。ただ、聞く順番が最後になっただけだ。


 エリルはようやく視線を戻し、隣に立つキュルを見た。


「キュル」


「なに」


「一緒に組んでくれる?」


 キュルは焼き菓子の最後の欠片を口に入れた。


 少しだけ咀嚼する。


 それから、何でもないことのように頷いた。


「いいよ」


 短い返事だった。


 あっけないほど短い。


 キュルはそう言って、指先についた焼き菓子の欠片を払った。それから、いつもの位置に戻るように、エリルの隣へ半歩寄る。


 キュルにとっては、それだけで足りている。エリルが行くならついていく。エリルが危ない場所へ行くなら、隣にいる。


 それは、今さら確認するようなことではなかった。


 それでも、エリルは一瞬だけ言葉を失った。

 いつもの薄い笑みが、少し遅れてほどける。


 次に浮かんだのは、本当の笑顔だった。


「……そっか」


「うん」


「ありがと」


「うん」


 キュルは、返事の温度を変えなかった。


 それでも、エリルには十分すぎる返事だった。


 エリルは小さく息を吐き、鞄から申請書を取り出した。


 名前は、すでにそろっている。


 キツキ。

 レニア・フォルテア。

 ブロム・アステリオン。

 キュル。

 エリル・ポルテュン。


 5人。


 どこから見ても目を引く班だ。


 狙われている可能性があるなら、目立たない方がいい。

 それは分かっている。


 けれど、目立たない形を選べば、守りたいものが遠くなる。守りたいものを近くに置けば、それだけで目を引く。


 すべてを満たす形などない。

 迷った末にたどり着いたのは、この形だった。


「行こっか」


「うん」


 キュルが隣に並ぶ。


 エリルは申請書を持ち直した。


 その日のうちに、5人の名前は学院へ渡された。


 ◇


 翌日の昼すぎ、中央棟の窓口には、班申請の控えを受け取りに来た生徒が何人か並んでいた。


 申請期限は月曜までだ。だが、提出されたものから順に確認され、問題がなければ申請者へ承認済みとして控えが返される。


 窓口の内側では、職員たちが申請書の束を分けていた。名前を確認する者、承認印を押す者、差し戻し用の紙を別に積む者。

 呼ばれた生徒が控えを受け取り、別の生徒が不備を指摘されて慌てて書き直している。


 実習前の中央棟は、授業中とは違う慌ただしさを持っていた。


 受付の職員は、エリルの名前を確認すると、少しだけ手元の紙へ視線を落とす時間が長くなった。


 それから、承認印の押された控えを差し出した。


「承認済みです」


「ありがとうございまーす」


 エリルはいつものように笑って受け取った。


 控えの端には、学院の承認印が押されていた。

 そこには、昨日そろえた5人の名前が、同じ班として記されている。


「通ったね」


 エリルが言うと、隣のキュルが小さく頷いた。


「うん」


 差し戻されても、おかしくはない班だった。

 それでも、返された紙は承認済みだった。

 

 エリルの口元が、ほんの少しだけ緩む。


 名前はそろった。

 申請も通った。


 ここまでは、うまくいった。


 あとは、まだ届いていない切り札だけ。

 それさえ間に合えばいい。


 エリルは承認済みの控えを折り、いつものように笑った。


 そして、実習当日。


 5人は同じ班として、ダンジョンの前に立っていた。

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