第50話 5人の名前
キツキは、午後の鍛錬場にいた。
エリルとの話を終えたあと、まっすぐ戻る気にはなれなかった。
焼き菓子の包みはもう手元にない。代わりに、キツキは両手を前へ向けていた。
『二重障壁』
透明な膜が、体の前を覆うように立ち上がる。少し遅れて、もう1枚がその内側に重なった。
三重障壁の形は、前にも作った。けれど、今の身体で出せる出力には限りがある。無理に3枚へ増やしても、1枚ずつが薄くなるだけだった。
防ぐための魔法なら、枚数を増やすより、崩れない方がいい。
キツキは息を吐き、障壁を消した。
次に、足元へ氷の魔力を落とす。
『小型氷壁』
氷が床からせり上がり、キツキの前で人1人分ほどの幅に広がった。
高さは胸元に届くかどうか。全身を隠すには足りない。けれど、正面から飛んでくる攻撃を受け流すには十分だろう。
もし、本当にあの班になるなら。
レニアも、ブロムも、キュルも、エリルもいる。攻撃力だけで言えば、キツキより上の相手しかいない。判断の速さでも、経験でも、勝てない部分は多い。
ゲームで言うなら、自分に一番向いているのはタンクなのかもしれない。
派手に倒す役ではない。倒れないように、崩れないように、誰かの前に膜を張る役。
魔力が先に尽きる感覚はない。
先に崩れるのは、集中力と制御の方だった。
「……あとは、どう維持するかだな」
小さく呟いて、キツキはもう一度、両手を前へ向けた。
2枚の障壁が浮かぶ。
さっきより少しだけ、形は乱れなかった。
その頃には、鍛錬場へ差し込む光も少し傾き始めていた。
◇
レニアが戻ってきたのは、放課後に近い時間だった。
昼間よりも廊下の人は減っている。だが、完全に静かになったわけではない。班申請の期限が近いせいで、残っている生徒たちの声はむしろ低く、具体的になっていた。
エリルは中央棟の柱の陰に立っていた。
待っていた、という顔はしない。たまたまそこにいただけのように、壁へ軽く背を預けている。
ただ、視線だけは時々、廊下の先へ流れていた。
渡せるものは渡した。足を止めるだけの言葉も置いた。けれど、それでレニアが本当に戻ってくるかどうかは、最後まで本人次第だった。
キュルはその横で、残っていた焼き菓子を小さく割っていた。
エリルが廊下の先を見るたびに、キュルの視線もほんの少しだけ動く。
何かを言うことはない。
ただ、待っているエリルの隣にいた。
「待たせたかしら」
レニアが言った。
「ううん。ちょうど退屈していたところ」
「それは待っていたと言うのではなくて?」
「そうとも言うね」
エリルは口元だけで笑った。
レニアは、目元ひとつ動かさなかった。
午前中に話した時と、背筋の伸び方は変わっていない。歩き方も、声も、崩れてはいない。
「返事をしに来たわ」
「聞くよ」
レニアは、すぐには口を開かなかった。
視線だけが、ほんの少しだけエリルから外れる。迷っているというより、口にする言葉を一度、自分の中で確かめているようだった。
それから、レニアは顎をわずかに上げた。
「その申請に、私の名前を入れて構わないわ」
短い承諾だった。
キュルが焼き菓子を割る手を止める。ほんの一瞬だけレニアを見て、それからまた何もなかったように手元へ視線を戻した。
「ありがと、レニア姫」
「礼を言われることではないわ」
「そう?」
「あなたは取引を持ちかけた。私は、それに応じる価値があると判断しただけよ」
エリルは、少しだけ目を細めた。
いつもなら、少しからかって返すところだった。
けれど、その返事は軽く扱っていいものではなかった。
「なら、私も渡すね」
エリルの声が、少しだけ軽さを失った。
「以前、レニア姫を狙った件。出どころとして見えてきたのは――」
そこで、エリルは1度だけ周囲を見た。
廊下の先を生徒が数人通り過ぎていく。笑い声は遠い。今ここに足を止めている者はいない。
エリルは、声を落とした。
「第二王女派閥」
レニアの表情は崩れなかった。
王女として人前に立つ時の顔は、そう簡単には割れない。
けれど、その名は外から飛んできた石ではなく、フォルテア王国の内側から、レニアに向けられた刃だった。
赤い瞳の奥から、一瞬だけ色が引く。
息を吸う音もない。声もない。
ただ、握られた指だけが、白くなっていた。
「……そう」
返事は、それだけだった。
短すぎる返事だった。
「今言えるのは、そこまで。証拠の形も、経路も、ここでは渡せない」
「ここでは、ということは」
「もう少し掴めたら、渡す」
レニアはエリルを見た。
怒りか、失望か、諦めか。どれか1つに分けるには、瞳の奥が冷えすぎていた。
「……頼んだわ」
「もちろん。取引相手には誠実にするよ」
「あなたの誠実は、ずいぶん値段が細かそうね」
「高く見える?」
「安くは見えないわ」
それだけ言って、レニアは踵を返した。
エリルは呼び止めなかった。
伝えるべきことは伝えた。いま追えば、午前中と同じになる。置いた言葉よりも、こちらの都合の方が強く見えてしまう。
レニアは数歩進んだ。
そのまま、何も言わずに去るように見えたが、廊下の角へ向かう途中で、足が1度だけ止まった。
「……キツキは」
名前だけが、廊下に落ちた。
レニアは振り返らないまま待っている。その背中は崩れていない。
さっき落とした声も、王女としての形を保っていた。
それでも、聞かずにはいられなかったのだろう。
エリルは、少しだけ目を細めた。
からかうには、今の声は小さすぎた。
「もう承諾してるよ」
「……そう」
レニアは振り返らなかった。
その声に、どの感情が一番多く混じっていたのかは、たぶん本人にも分かっていなかった。
レニアはそのまま廊下を進んでいく。背筋は崩れない。歩幅も変わらない。
ただ、廊下の角を曲がるまで、その手は1度も緩まなかった。
レニアの姿が見えなくなると、廊下にはまた生徒たちの声だけが残った。
エリルはしばらく、その角を見ていた。
その隣で、キュルは何も言わずに立っている。
残った名前は、あと1つだった。
もっとも、エリルはそれを最後の交渉とは考えていなかった。キュルが何を選ぶかを軽く見ているわけではない。ただ、聞く順番が最後になっただけだ。
エリルはようやく視線を戻し、隣に立つキュルを見た。
「キュル」
「なに」
「一緒に組んでくれる?」
キュルは焼き菓子の最後の欠片を口に入れた。
少しだけ咀嚼する。
それから、何でもないことのように頷いた。
「いいよ」
短い返事だった。
あっけないほど短い。
キュルはそう言って、指先についた焼き菓子の欠片を払った。それから、いつもの位置に戻るように、エリルの隣へ半歩寄る。
キュルにとっては、それだけで足りている。エリルが行くならついていく。エリルが危ない場所へ行くなら、隣にいる。
それは、今さら確認するようなことではなかった。
それでも、エリルは一瞬だけ言葉を失った。
いつもの薄い笑みが、少し遅れてほどける。
次に浮かんだのは、本当の笑顔だった。
「……そっか」
「うん」
「ありがと」
「うん」
キュルは、返事の温度を変えなかった。
それでも、エリルには十分すぎる返事だった。
エリルは小さく息を吐き、鞄から申請書を取り出した。
名前は、すでにそろっている。
キツキ。
レニア・フォルテア。
ブロム・アステリオン。
キュル。
エリル・ポルテュン。
5人。
どこから見ても目を引く班だ。
狙われている可能性があるなら、目立たない方がいい。
それは分かっている。
けれど、目立たない形を選べば、守りたいものが遠くなる。守りたいものを近くに置けば、それだけで目を引く。
すべてを満たす形などない。
迷った末にたどり着いたのは、この形だった。
「行こっか」
「うん」
キュルが隣に並ぶ。
エリルは申請書を持ち直した。
その日のうちに、5人の名前は学院へ渡された。
◇
翌日の昼すぎ、中央棟の窓口には、班申請の控えを受け取りに来た生徒が何人か並んでいた。
申請期限は月曜までだ。だが、提出されたものから順に確認され、問題がなければ申請者へ承認済みとして控えが返される。
窓口の内側では、職員たちが申請書の束を分けていた。名前を確認する者、承認印を押す者、差し戻し用の紙を別に積む者。
呼ばれた生徒が控えを受け取り、別の生徒が不備を指摘されて慌てて書き直している。
実習前の中央棟は、授業中とは違う慌ただしさを持っていた。
受付の職員は、エリルの名前を確認すると、少しだけ手元の紙へ視線を落とす時間が長くなった。
それから、承認印の押された控えを差し出した。
「承認済みです」
「ありがとうございまーす」
エリルはいつものように笑って受け取った。
控えの端には、学院の承認印が押されていた。
そこには、昨日そろえた5人の名前が、同じ班として記されている。
「通ったね」
エリルが言うと、隣のキュルが小さく頷いた。
「うん」
差し戻されても、おかしくはない班だった。
それでも、返された紙は承認済みだった。
エリルの口元が、ほんの少しだけ緩む。
名前はそろった。
申請も通った。
ここまでは、うまくいった。
あとは、まだ届いていない切り札だけ。
それさえ間に合えばいい。
エリルは承認済みの控えを折り、いつものように笑った。
そして、実習当日。
5人は同じ班として、ダンジョンの前に立っていた。




