第49話 使う言葉、使わない言葉
「急になんだよ」
キツキは、掲示板から視線を外して言った。
エリルは、いつものように薄く笑っている。
昨日と同じ班申請の案内の前で、生徒たちは誰と組むかを好き勝手に話していた。声は重なり、足音も途切れない。
そんな場所で、取引。
相変わらず、そういう話になると怪しく見える。狙ってやっているのか、ただそう見えるだけなのか、キツキにはまだ分からない。
「ここじゃなんだし、少し場所を変えよっか」
エリルは周囲の声を聞き流すようにして言った。
「軽く何か食べながら話そ。奢るよ」
「取引って言い方からして、だいぶ怪しいんだけど」
「こういう方が好みでしょ?」
否定しようとして、キツキは少しだけ詰まった。
取引、交渉、秘密の話。そういう言葉にちょっと引っかかるところがあるのは、否定しきれない。男として、というより、たぶんキツキ個人の問題だった。
「……言い方が悪い」
「否定はしないんだ」
エリルの隣で、キュルが何も言わずに立っている。手持ち無沙汰そうに袖の端をつまんでいたが、エリルが歩き出すと、当然のようにその後ろへついた。
キツキは掲示板をもう1度見た。
月曜までの申請。3人から5人。最終承認は学院側。
ダンジョン実地訓練は、もう近い。聞かない理由は、あまりなかった。
「……聞くだけだからな」
「うん。まずはそれでいいよ」
エリルは楽しそうに笑って、売店の方へ歩き出した。
売店は、昼前というには少し早い時間でも、それなりに人がいた。
掲示板前ほどではない。けれど、誰かが完全にこちらを見ていないと言い切れるほど空いてもいない。エリルは迷う様子もなく、焼き菓子と小さな包みをいくつか選んでいった。
「好きなの選んでいいよ」
「奢る側の台詞としては太っ腹だけど、取引前に言われると怖いな」
「じゃあ、安いのにする?」
「それはそれで負けた気がする」
キツキがそう返すと、エリルは楽しそうに笑った。
キュルは迷わなかった。小さな焼き菓子を1つ取り、少し考えて、もう1つ取った。
「2つ?」
「あとで食べる」
「そっか」
「うん」
短い返事だった。
この前、キツキが菓子を買った時も、キュルは似たようなことをしていた。
あれはキツキだったから遠慮なく取った、というわけではなかったらしい。エリルの奢りでも、キュルは同じように、あとで食べる分を確保している。
妙にしっかりしているというか、子どもっぽいというか。
そんなふうに納得してしまうと、自分だけ何も選ばないのも少し変な気がした。
結局、キツキは軽い包みを1つ選んだ。エリルが支払いを済ませるまでの間、売店の横を通る生徒たちの会話が耳に入る。前衛が足りないだの、支援役が決まらないだの。
どこも同じ話をしていた。
エリルは包みを受け取ると、そのまま人の少ない中庭の方へ歩いた。ルミナ樹の見える場所ではなく、中央棟の影が少し落ちる、細い通路脇のベンチだった。
「それで」
キツキは包みを手にしたまま、エリルを見る。
「食べ物で釣ってまでしたい取引って、何だよ」
「釣ったつもりはないよ。餌はもう少し高いものにする」
「やっぱり怪しいじゃないか」
「疑い深いなー」
エリルはベンチに腰かけた。キュルはその隣に座り、さっそく焼き菓子の包みを開いている。
キツキは座らず、少しだけ離れて立った。
「立ったまま聞くの?」
「なんかあったら逃げやすいからな」
「賢いね」
「褒めてないだろ」
「うん」
悪びれもなく頷いてから、エリルはようやく表情を少しだけ整えた。
「私の知っていることに限って、君が知りたいことを1つ教えてあげる」
相変わらず軽い声だった。
けれど、その言葉だけは、売店で菓子を選んでいた時より少しだけ輪郭がはっきりしていた。
「その代わり?」
「私の考えている班に、君を入れたい」
キツキは、すぐには返事をしなかった。
班。
その言葉だけで、掲示板の文字が頭に戻る。
エリルがただ仲のいい相手を集めようとしているとは思えなかった。そういう顔ではない。軽く笑っているのに、その言葉だけは本気に聞こえた。
「……なんで俺なんだ?」
「君はときどき、予想と違うことをするから」
エリルは何でもないことのように言った。
「正しい答えの横に、別の線を引くみたいにね」
キツキは少しだけ眉を寄せた。
おそらく、学科試験の別解のことを言っているのだろう。
ただ、エリルの笑みはそこで終わっていないように見えた。あの時の答案だけではなく、もっと別の何かまで含めているような顔だった。
「それ、褒めてるのか?」
「まだ、見てるところ」
「褒めてないな、それ」
「あれ、褒めてほしかった?」
「そういう話じゃない」
エリルは楽しそうに笑った。
「……その班には、他に誰がいるんだ」
「君、私、キュル」
エリルは指を1本ずつ折る。
「レニア姫。ブロム」
名前が並んだ瞬間、キツキは息を止めた。
悪い話ではない。むしろ、かなり都合がいい。
ブロムがいれば、前衛として学べることは多い。キュルは野外訓練で、キツキには見えていないものを見ていた。エリルも、軽く見えて周りはよく見ている。
そして何より、レニアと同じ班。
美味しい話ばかりだ。
だからこそ、怪しかった。
「……俺に得がありすぎないか」
「そう見える?」
「見える」
「なら、私の出し方が上手いんだね」
「そこは否定しろよ」
エリルは笑うだけだった。
キツキは、手の中の包みを見る。
ダンジョン実地訓練は近い。速い相手に遅れないための手札は増えた。けれど、それだけでうまくいくとは思えない。
自分より明らかに上の相手たちと組める。しかも、名前だけ知っている相手ではない。それぞれ、少しずつでも関わってきた相手だった。
その全員と、同じ班になれる。
断る理由は、あまりなかった。
「分かった。申請に名前を入れるのはいい」
一拍だけ、エリルの返事が遅れた。
ほんのわずかだった。キツキが気づくほどではない。
それでも、いつもの笑みに戻るまでに、その一拍が必要だった。
「ありがと」
「ただし、俺が聞きたいことは今じゃなくていいか」
エリルは、少しだけ目を瞬かせた。
「今じゃなくていいの?」
「1つだけなんだろ」
「そうだね」
「なら、今適当に使うのはもったいない」
エリルはしばらくキツキを見ていた。
それから、少しだけ肩をすくめる。
「いいよ。私が知っていることに限ってだけどね」
「言質取ったからな」
「はいはい」
エリルはそう言って、またいつものように笑った。
◇
キツキとの話を終えたあと、エリルはすぐに次へ動いた。
中庭を出る足取りは軽い。焼き菓子の包みを片手に、何か楽しい用事でも思い出したように見える。
そう見えるように歩いているだけだった。
エリルという少女は、見せたいものを先に見せる。迷いも、焦りも、必要なら笑みの後ろに置ける。
キュルはその少し後ろを、何も言わずについてきた。
中央棟へ戻る廊下にも、生徒の流れは残っていた。班申請の話はまだ途切れず、廊下全体が少し落ち着かなかった。
その中で、レニアは1人で歩いていた。
背筋はいつも通り伸びていて、足取りも乱れていない。周囲の声に反応しているようには見えなかった。
「レニア姫」
エリルが声をかけると、レニアは足を止めた。
「何かしら」
返事は短い。声にも表情にも、いつもの硬さがある。
それでも、ただ機嫌が悪いだけには見えなかった。
「少し取引しない?」
レニアの赤い瞳が、ほんのわずかに細くなった。
返事の代わりに、短い沈黙が落ちた。
けれど、足を止めた理由を相手に握らせるつもりはないようだった。背筋は伸びたまま、ただ進む先を変えただけのように、レニアはエリルを横目で見る。
通り過ぎていく生徒の声が、2人の横を薄く流れていく。誰かが笑い、誰かが班の人数を数えていた。
「……内容は」
「レニア姫が気になってる話」
「それだけで足を止めると思ったの?」
「思ってるよ」
エリルは、声を落とした。
「以前の件で、出どころが少し見えた」
レニアの表情は、すぐには変わらなかった。
けれど、足だけは動かなかった。
「……どこまで分かっているの」
「取引が成立したら話す」
「条件は」
「私の出す班申請に、名前を入れてほしい」
レニアは、そこで初めてエリルを正面から見た。
「誰の班」
「私、キュル、キツキ、ブロム」
エリルはそこで1度言葉を切った。
「そして、レニア姫」
レニアは返事をしなかった。
キュルも何も言わない。ただ、エリルの後ろで、焼き菓子の包みを片手に持ったまま立っている。
沈黙は長くなかった。
「その情報が、取引に値するものかどうかは、聞いてからでなければ判断できないわ」
エリルは少しだけ目を細めた。
どこまで渡せば、レニアの足を止めておけるか。
どこから先を渡せば、ただの先払いになるか。
短い沈黙の間に、それだけを量る。
「うーん。なら、少しだけ」
エリルは笑みを薄くした。
「以前の件には、フォルテア王国の名が出てる」
レニアの赤い瞳が、エリルを強く捉えた。
「……その名前を、軽く出していいと思っているの」
「思ってないよ。だから、続きは名前を入れてくれたら」
「不愉快な商売ね」
「よく言われる」
エリルは笑った。
レニアは笑わなかった。
「返事は」
「今日中でいいよ。申請には間に合う」
「……分かったわ」
短い返事だった。
承諾ではない。拒絶でもない。
レニアはそれだけ言うと、エリルの横を通り過ぎた。背筋は崩れない。歩幅も変わらない。
王女として見られる時の歩き方だった。
ただ、通り過ぎる一瞬だけ、指先が強く握られていた。
◇
レニアの背中が廊下の先へ消えてからも、エリルはしばらくその場に残っていた。
追いかけはしない。
今追えば、渡した情報よりも、こちらの必死さの方が強く見える。
それは、あまりよくない。
必要なものは置いた。あとは、考える時間を残すだけでいい。
「次」
キュルが短く言った。
「うん。次」
エリルは何事もなかったように笑って、廊下を曲がった。
目当ての人物は、探すまでもなく見つかった。
中央棟から訓練区画へ向かう生徒の流れの中で、ひときわ背が高い。誰かに声をかけられても、急かすことなく足を止め、短く返している。
班申請の時期だからか、彼の周りにはいつもより人が多かった。
その輪が少し薄くなったところで、エリルは声をかけた。
「ブロム」
ブロムが振り返る。
「エリル。何か用かな」
「少し、班申請の話」
それだけで、ブロムの表情が少し真面目になった。
「君からその話が出るなら、ただの人数合わせではなさそうだね」
ブロムは、エリルが持つ情報網の強さをある程度知っている。もちろん、どこまで深く、どこまで広く届くのか、その全貌まで知っているわけではない。
それでも、エリルがわざわざ班申請の話を持ってくるなら、そこにただの好みや人数合わせ以上の理由があることくらいは分かった。
「そう見える?」
「少なくとも、君はそういう顔をしている」
「あれ? 隠してたつもりだったんだけどなー」
エリルは笑ったが、ブロムは笑わなかった。
「私の出す申請に、名前を入れてほしい」
「……理由を聞いても?」
「狙われている可能性のある生徒がいる」
ブロムの目が、わずかに細くなった。
「なら、本来はまず学院に渡すべきではないのかな」
当然の問いだった。
ブロムの声は穏やかだったが、そこには逃げ道を許さない硬さがあった。
周囲にはまだ生徒がいる。エリルは声を落としたが、言葉の形までは崩さなかった。
「確証はない。情報源も明かせない。だから、学院に正式な報告として渡せる形じゃない」
少し遅れて、ブロムは口を開いた。
「……それで、班を作ると?」
「動ける形にしておきたいの。申請が通るかどうかは学院次第だけど、できる限り備えておきたい」
ブロムは黙った。
責めるでも、納得するでもない。ただ、エリルの言葉を一度受け止めるように、少しだけ目を伏せた。
「狙われている可能性のある生徒、というのは誰だい」
「今は言えない」
「それでは判断材料が足りない」
「うん。だから、もう1つだけ」
エリルは、ほんの少しだけ間を置いた。
その言葉を使えば、ブロムが足を止めることは分かっていた。
分かっていて、使う。
「今回のダンジョン実地訓練に、フォールンが関わるかもしれない」
ブロムの声の温度が変わった。
「……それは確かな話かな」
穏やかさは残っている。
けれど、さっきまで周囲の生徒へ向けていた柔らかさとは違うものだった。
「ただの噂なら、君に頼みに来たりしないよ」
「……そうか」
ブロムは短く息を吐いた。
その目は、もうエリルだけを見ていなかった。廊下の向こう、まだ何も起きていない場所を見ているようだった。
「班には誰が入る予定かな」
「私、キュル、キツキ、レニア姫。あと、君」
ブロムは1度だけ瞬きをした。
「かなり目立つ班だね」
「目立たない形には、できなかったから」
「……君なら、その危険も計算に入れているんだろうね」
「もちろん」
エリルは笑った。
ブロムはその笑みをしばらく見ていた。
「分かった。僕の名前を入れてくれて構わない」
「ありがとう」
「ただし、学院に渡せる形になったら、すぐに渡すべきだ」
「うん。その時はね」
ブロムは頷き、鍛錬区画へ向かう流れに戻っていった。
その背中を見送りながら、エリルは一度だけ、浅く息を吐いた。
キツキには、まだ使われない問いを。
レニアには、聞かずにはいられない名前の影を。
ブロムには、避けて通れない言葉を。
どれも嘘ではない。
けれど、どれも全部ではなかった。
使う言葉は、選べた。
けれど、使わずに済む言葉は、思ったより少なかった。
「あとは、レニア姫だけ」
エリルは、誰に聞かせるでもなくそう言った。
まだ、名前はそろっていない。
それでも、ここで止まる選択肢だけは、最初からなかった。




