第47話 正しい形の外側
キツキは、しばらく術式図を見つめていた。
変えたらどうなるのか。
思いついたままに試せるものではない。けれど、一度気づいてしまうと、その線から目を離せなかった。
キツキは鞄からノートを取り出し、教本の雷の術式を書き写した。
詰まって見えた場所には、いくつかの線が余計につながっている。
そのうちの1つを消す。
少しずらして、別の線へつなぎ直す。
細い線の流れを、メガネ越しにもう一度追った。
途切れてはいない。
むしろ、さっきより軽く見える。
キツキは息を止めたまま、しばらく自分の書いた術式を見ていた。
答えが出た、とは思えない。
ただ、さっきより通りやすそうには見えた。
なぜそう見えるのかは、うまく説明できない。
紙の上では、成立しているように見える。
けれど、紙の上で通って見えることと、実際に魔法として出ることは別だった。
それでも、もう確かめずにはいられなかった。
試すなら、ここではない。
キツキはノートを閉じ、教本を棚へ戻した。
◇
日が落ちかけた鍛錬区画には、まだ何人もの生徒が残っていた。
的へ向かって魔法を撃つ者。防御魔法を張る者。互いに距離を取りながら、動きの確認をしている者。
その中へ、レニアも足を踏み入れた。
いつもの自主鍛錬のためだった。
部屋に戻っても、考えることは変わらない。昨日のことも、今朝のことも、胸の奥に残ったままだった。
なら、せめて体を動かしていた方がいい。
そう思って来たはずだった。
けれど、通路の先に見えた姿に、レニアは思わず足を止めた。
キツキが左手にノートを持ち、的の前に立っていたからだ。
レニアは一度、視線を外した。
そして、別の区画へ向かおうとする。
見られたくないところを見られたこと。
まだ、答えを出せていないこと。
何を言えばいいのか分からないこと。
その全部が、ほんの少しだけ足を重くした。
けれど、数歩も進まないうちに、レニアは眉を寄せた。
――どうして私が、キツキなんかを避けなければいけないの。
そんなの、私らしくない。
レニアは足を止め、すぐに向きを変えた。
周囲の生徒たちは、レニアが近づいたことにすぐ気づいた。
視線がいくつか流れてくる。
それは、レニアにとって珍しいことではない。むしろ、普段なら少し煩わしいくらいだった。
けれど、キツキだけは気づかなかった。
ノートを片手に、的の前で何度も指を動かしている。
――朝はあんなところに気づいたくせに。
そう思った瞬間、自分でも理由の分からない苛立ちが胸に残った。
レニアはそのまま、キツキの隣まで歩いた。
それでも、キツキはすぐには顔を上げなかった。
ノートに視線を落とし、的へ向けた右手の角度を少し変えている。何かを頭の中で確かめているようだった。
レニアは、しばらく黙ってその横顔を見た。
まだ気づかない。
わざとではないのは分かる。分かるけれど、それが余計に腹立たしかった。
「……何をしているの」
レニアが声をかけると、キツキはびくりと肩を揺らした。
持っていたノートが手元で傾き、慌てて抱え直す。
「……レニア?」
ようやく顔を上げたキツキは、すぐ隣に立つレニアを見て、明らかに目を泳がせた。
「いつからいたんだ?」
「少し前からよ」
「……ごめん。気づかなかった」
「でしょうね」
レニアは短く返した。
キツキは少し困ったように視線を落とし、手にしていたノートを見た。
朝のことを思い出したのかもしれない。
けれど、レニアはそれ以上そこには触れなかった。触れれば、自分の方までまた余計なものを見せることになる気がした。
「それで」
レニアは的へ視線を向ける。
「何をしていたの」
「雷魔法を、ちょっと」
「雷?」
レニアの眉がわずかに動いた。
「あなた、雷も使えるの?」
「あー……使えるかどうか、まだ分かんない」
キツキは少し気まずそうに、ノートへ視線を落とした。
「だから、試そうとしてた」
レニアはすぐには返さなかった。
キツキが火、水、氷、風に触れていることは知っている。そこに雷まで加わるのなら、聞き流せる話ではない。
けれど、キツキはそれ以上を説明する気配を見せなかった。
「……それで?」
レニアは、ひとまず問いを戻した。
キツキはノートの端を親指で押さえながら、少しだけ言葉を探した。
「教本を見てたら、気になるところがあって」
「気になるところ?」
「うん。なんか、重く見えた」
レニアは意味が分からず、キツキを見る。
――重い。
雷魔法に使う言葉としては、あまり聞き慣れない。
けれど、キツキは真面目な顔をしていた。
ふざけているわけではなさそうだ。
キツキは一度、気まずそうにノートに視線を落とした。
けれどすぐに、何かを思い出したように顔を上げる。
「そういえば、レニアって雷魔法も使えたよな」
「ええ」
「クラス1の雷魔法を、見せてくれないか」
「……クラス1でいいの?」
「うん。ちょっと気になるところがあって」
何が気になるのかは分からなかった。
けれど、クラス1の雷魔法を見せるだけなら難しいことではない。
レニアは小さく息を吐き、並んだ的の1つへ向き直った。
手のひらを前にかざす。
魔力が細く集まり、空気が一瞬だけ張りつめた。
次の瞬間、雷光が走る。
短い音が弾け、的の表面に細い焦げ跡が刻まれた。
クラス1の雷魔法。
教本にも載る、標準的な雷だった。
キツキはメガネ越しに、その術式を追っていた。
魔力の流れが、細く走っていく。
その途中に、図書室で見た折れ曲がりが残っていた。
やっぱり、重い。
キツキは自分のノートへ視線を落とした。
「……たぶん、ここなんだよな」
「何が?」
「この辺が、詰まって見える」
キツキはノートの上の線を指先でなぞった。
レニアは、それを横から覗き込む。
その拍子に、二人の距離が少し詰まった。
キツキの指が、一瞬だけ止まる。
けれど、レニアはそれに気づかなかった。
ノートには、教本の術式に似た線と、そこから少しだけ変えられた線があった。
「あなたが、これを書いたの?」
「う、うん」
キツキは近い距離を意識したのか、照れくさそうに目を逸らした。
「教本のやつを写して、変えた」
レニアはもう一度、ノートに視線を落とした。
「……それを今から使うつもりなの?」
「試してみる」
キツキは短く答え、ノートを閉じた。
頭の中で、書き直した線をもう一度なぞる。
余計なつながりを消し、少しずらして、別の流れへつなぎ直す。
キツキは手のひらを、その隣の的へ向けた。
魔力が細く、まっすぐに集まる。
次の瞬間、鋭い音を立てて雷光が走った。
さっきのレニアの雷よりも速く、的に刻まれた焦げ跡も深い。
少し離れた場所で鍛錬していた生徒が、こちらを振り向いた。
それにも気づかないまま、キツキもレニアも、しばらく動かなかった。
キツキは自分の手のひらを見て、それから的を見る。
「……出た」
小さくこぼれた声には、驚きと、抑えきれない喜びが混じっていた。
レニアは、キツキが撃った的に刻まれた焦げ跡を見ていた。
さっき自分が放った雷よりも、明らかに速い。
焦げ跡も、深い。
同じクラス1の雷魔法のはずだった。
「今の……」
レニアはゆっくりとキツキへ視線を向けた。
「本当に、クラス1なの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「教本に載ってたクラス1を元にしたから」
キツキは少し困ったように、閉じたノートを見下ろした。
「でも、少し変えた」
それは、レニアもノートを見た時点で分かっていた。
分からないのは、その先だった。
教本に載っている術式は、正しい形として覚えるものだ。
そこに手を加えるという発想が、レニアにはなかった。
「……どうして、教本の術式を変えようと思ったの?」
「こっちの方が通りやすそうな気がしたから」
説明は、それだけだった。
理屈が整っているわけではない。
術式理論として順序立てて語られているわけでもない。
ただ、そう見えたから変えた。
そう言っているようにしか聞こえなかった。
「そんなことで……」
レニアは言いかけて、言葉を止めた。
そんなことで魔法が変わるはずがない。
そう言いたかった。
けれど、目の前の的には焦げ跡が残っている。
今の雷は、確かに走った。自分が放ったクラス1の雷よりも速く、焦げ跡も深い。
教本の術式は、正しいもの。
レニアは、そう教えられてきた。
フォルテア王家で学ぶ魔法も、学院で学ぶ魔法も、まずは正しい形を覚えるところから始まる。
正しい術式を覚え、正しい手順で組み、正しい出力で放つ。
そうして積み上げてきたものを、レニアは疑ったことがなかった。
けれど、キツキは教本の形を変えた。
正しいはずの形から外れて、それでも魔法を成立させた。
なぜそうなったのかは、まだ分からない。
分からないのに、目を逸らせなかった。
レニアは、焦げた的からキツキへ視線を移した。
今まで疑わずに立っていた足元に、はっきりと亀裂が入った。
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