第44話 初めての野外訓練
石造りの部屋には、窓がなかった。
壁に掛けられた灯りだけが、机の上に広げられた紙束を鈍く照らしている。
学院の日程。ダンジョン実習の概要。参加が見込まれる生徒の名。
その中で、いくつかの名前だけに印が付けられていた。
ブロム・アステリオン。
レニア・フォルテア。
紙束の横には、黒い封蝋の残った命令書が置かれている。
「めんどくせえな」
乾いた声が、部屋の奥で落ちた。
黒ずくめの男が、フードの下から紙束を見下ろしている。ダルマティアは、苛立ちを隠す気もないように、机の端を指で叩いた。
「俺が行きゃ済む話だろ。勇者候補だろうが何だろうが、首を落とせば終わりだ」
「命令は、直接の介入を控えることです」
向かいに立つ女が、静かに言った。
シャクマトは笑っていた。けれど、その笑みには少しも柔らかさがない。
「それとも、逆らうのですか」
ダルマティアの指が止まった。
「……言うじゃねえか」
シャクマトはそれには答えず、印の付いた名を指先でなぞった。
「ブロム・アステリオンは殺す。そこは変わりません」
「なら、第三王女も殺せばいい」
「第三王女に関する命令は、殺害ではありません」
「あ?」
「誘拐です。可能なら、ですが」
ダルマティアが、短く鼻で笑った。
「生かして持ち帰れってか。面倒な話だな」
「だからこそ、あなたを好きに動かせないのです」
シャクマトは、机の上の紙束へ視線を落とした。
「ダンジョン実習。これ以上なく、都合のいい日です」
シャクマトはそう言って、黒い封蝋の残った命令書を手に取ると、灯りの火に近づけた。
紙の端が焦げ、命令書はやがて読めない灰になった。
◇
水曜日の午前、キツキたちは学院の管理区域へ出ていた。
申請は、レニアが言っていた通り前日に通ったらしい。
管理区域近くのワープゲートを使い、そこから少し歩く。普通に使えばそれなりに金がかかるらしいが、今回は学院の申請が通っているので、キツキの財布が痛むことはなかった。
行き先は、古い柵の近くだった。
柵の向こうには低い斜面と林が続いていて、普段なら優先して手を入れる場所ではない。けれど、そこに低位魔物が住みつきかけているとなれば、話は別だった。
「対象はシビレトカゲの小群れよ」
レニアが、手元の申請書を畳みながら言った。
「基本はリスク1。小型犬くらいの大きさで、群れで動くわ。噛みつきや体当たりを受けると、少し体がしびれる」
「少し、で済むのか?」
「普通の個体ならね。ただ、まれにリスク2相当の個体が混じることがある。短い距離なら、放電してくるわ」
「……それ、聞いてから来たかったな」
「今聞いているでしょう」
「そういう意味じゃなくて」
真面目な顔で言うから、余計に困る。
レニアはこういうところがある。
キツキは柵の向こうを見た。
木の根元や石の陰に、灰緑色の小さな影がいくつか走っている。思っていたより低い姿勢で、思っていたより速い。
土を掻く音がした。
鱗が石にこすれるような、乾いた音も聞こえる。
訓練区画で見た相手とは違う。
こちらの都合を待ってくれる気配が、まるでなかった。
少し離れた場所には、ギレル騎士団の1人が立っている。そのさらに後ろには、レニアの侍女らしい女性も控えていた。
本当に危ない時には動く。けれど、それまでは口を出さない。
そういう距離だった。
野外訓練に来たのは、キツキたちだ。
なら、まず動くのも自分たちだった。
「キツキ」
レニアの声がした。
「あなたは前へ。無理に倒そうとしなくていいわ。動きを見るだけでもいい」
「分かった」
そう答えた声は、自分で思ったより硬かった。
キュルが隣で、じっと柵の方を見ている。
その視線の先で、灰緑色の影が一斉に動いた。
最初に動いたのは、レニアだった。
「右の2体を止めるわ。左を見て」
「左、だな」
キツキは短く返して、前へ出た。
足元の土が、思っていたより柔らかい。訓練区画の整えられた床とは違う。踏み込むたびに、靴底がわずかに沈む。
そのわずかな違いだけで、体の動きが半歩遅れた。
灰緑色の影が、石の陰から跳ねる。
「っ」
思っていたより速い。
キツキは反射的に腕を上げた。シビレトカゲの体当たりが、腕の外側をかすめる。痛みは浅い。けれど、触れた場所から細いしびれが走った。
防御魔法を使う間もなかった。
ほんの一瞬、指先が遅れる。
その間に、レニアの魔法が右側を抜けた。
冷気が地面を這い、回り込もうとしていた2体の足元から氷が突き上がった。シビレトカゲが短く鳴いて、勢いを失ったまま地面に転がった。
正確で速かった。
けれど、その速さに、キツキの方が追いつけない。
「次、正面」
レニアの声が飛ぶ。
「分かっ――」
返事をしきる前に、正面の1体が低く跳んだ。
キツキは前に出ようとした。だが、さっき腕に走ったしびれのせいで、踏み込みがわずかに鈍る。
避けるか。
受けるか。
迷った一拍が、遅かった。
正面のシビレトカゲが、さらに低く身を沈める。
その動きに目を取られた瞬間、横の石陰から、別の影が滑り出した。
キツキの視界の端で、灰緑よりも少し暗い鱗が光る。
正面から来る1体。
横から回り込む1体。
一度下がろう。
そう思った瞬間、足が止まった。
後ろの地面には、レニアの魔法で走った薄い氷が残っている。踏み込めば滑る。足を取られれば、立て直す前に追いつかれる。
前には跳びかかるシビレトカゲ。
横には石。
後ろには、凍った地面。
どこへ動けばいいのか、一瞬で分からなくなった。
「キツキ、下がって」
レニアの声は聞こえた。
けれど、下がれる場所はもうほとんどなかった。
暗い鱗の個体が低く身を沈め、喉元の鱗を青白く瞬かせる。
次の瞬間、短い雷が吐き出された。
地面すれすれを走った光が、キツキの右足に絡みつく。
「ぐっ……!」
膝が落ちた。
倒れるほどではない。けれど、踏ん張るには足りない。
正面のシビレトカゲが、低く跳んだ。
防御魔法を使おうとはした。
けれど、右足のしびれで踏ん張れない。魔法を形にする前に、シビレトカゲの体が迫ってくる。
――間に合わない!
そう思った瞬間、視界が横にずれた。
「な!?」
足を払われたのだと気づいたのは、体が浮いたあとだった。
キュルが、キツキの片足を引っかけるようにして崩し、そのまま腰のあたりを抱え込む。
小柄な体からは想像できない力で、キツキの体がふわりと持ち上がった。
直後、キツキが立っていた場所を、シビレトカゲの体が抜けていく。
乾いた土が跳ねた。
キュルはキツキを抱えたまま、そのまま数歩下がり、石の陰へ移動した。
「1回、下がる」
「……助かった。助かったんだけど」
キツキは言いかけて、自分が完全に抱えられていることに気づいた。
しかも、抱え方が完全にお姫様抱っこだった。
「早く下ろしてほしいかも……」
「うん」
キュルは短く答えて、キツキを地面に下ろした。
右足には、まだ軽いしびれが残っている。
立てないほどではない。
だが、今の一瞬、自分は確かに動けなかった。
その事実を飲み込むより早く、冷気が地面を走った。
レニアの氷が、遅れて正面のシビレトカゲを弾く。
地面から突き上がった氷が、灰緑色の体をはじき飛ばした。シビレトカゲは短く鳴いて、土の上を転がる。
狙いは外れていない。
敵を止める力も、十分にあった。
それでも、レニアはすぐには次を撃たなかった。
キュルが、静かにレニアを見ていたからだ。
責めるような目ではない。けれど、そこから目を逸らすことは、なぜかできなかった。
「レニア」
「……何」
「敵しか見てない」
短い声だった。
怒っているわけでも、問い詰めているわけでもない。
ただ、見えたものをそのまま言葉にしただけのような声だった。
だからこそ、レニアはすぐに言い返せなかった。
残っていたシビレトカゲは、すぐには飛び込んでこなかった。
何体かは柵の近くまで下がり、低い姿勢のままこちらをうかがっている。暗い鱗の個体も、青白い光を喉元にちらつかせながら、石の陰へ半分だけ身を隠していた。
まだ終わってはいない。
けれど、ほんの短い間だけ、場が止まった。
「敵しか、見ていない……?」
レニアは、キュルの言葉を繰り返した。
その意味を、すぐには飲み込めなかった。
シビレトカゲの位置は見えていた。動きも、数も、次に止めるべき場所も見えていた。
だから、撃った。
手を抜いたつもりはない。
むしろ、手を抜かなかったからこそ、正しく処理できると思っていた。
「……ごめん」
キツキが、小さく言った。
レニアは顔を上げた。
「あなたが謝ることではないでしょう」
「いや、今のは俺も悪い。ちゃんと動けなかった」
キツキは右足を軽く動かした。まだ少ししびれが残っているのか、顔がわずかに歪む。
その足を見て、レニアは言葉を失った。
キツキは、下がろうとしていた。
けれど、その退路には自分の氷が残っていた。
敵を止めるためなら、あの氷は間違っていなかった。
けれど、キツキが下がる場所まで考えていたかと問われれば、答えられない。
キツキは少し迷ってから、口を開いた。
「レニア」
「……何」
「俺が悪いのは分かってる。その上で、1つ言っていいか」
レニアはすぐには答えなかった。
けれど、拒むこともできなかった。
「……言って」
「この前の……班別実技演習の時も」
レニアの目が、わずかに揺れた。
「あの演習?」
「ブロムとラクスと組んでた時だ」
キツキはそこで一度、言葉を止めた。
言い方を間違えれば、ただ責めているだけになる。
それは、違う。
「レニアの魔法は、正確だと思う。今も、あの時も」
レニアは黙っていた。
「でも、味方がどう動こうとしてるかも見てほしい」
キツキは、言葉を探すように少しだけ間を置いた。
「そこが見えないと、こっちは動き方が分からなくなる。俺も、たぶんラクスも」
言ってから、キツキはすぐに言葉を足した。
「ごめん。俺が偉そうに言えることじゃない。今だって、助けられた側だし」
それでも、一度口にしたことは消えなかった。
レニアは何も言わなかった。
言い返せないのではなく、言い返す言葉を探しているようだった。
キュルは、まだレニアを見ていた。
キツキも、何も言わずにレニアを見ていた。
その視線から、目を逸らすことはできなかった。
本当に、自分は味方を見ていたのだろうか。
キツキがどこへ下がれるのか。
ラクスがどう合わせようとしていたのか。
考えていたのは、敵を止めることだけだったのではないか。
それは、味方と一緒に戦っていたとは言えない。
――じゃあ、ずっと1人で戦っていたっていうこと?
ラクスの時も。
今も。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
基本、毎日2話更新です!
続きが気になる、また読みに来てもいい、と思っていただけましたら、
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