第43話 花蜜飴の小瓶
学院内の売店は、昼過ぎでも開いていた。
棚の前に立つ生徒はまばらで、焼き菓子の甘い匂いと、紙袋のこすれる音だけが小さく残っている。
キツキは、入口のところで一度、棚の方を見た。
菓子を1つか2つ買えば、それで終わる。
そう願いたかった。
「これ」
だが、キュルは迷わなかった。
小袋の菓子を1つ取る。続けて、別の袋を取る。焼き菓子を2つ取る。干し果物の袋も取る。
「……結構いくな」
「うん」
「うん、じゃないんだけど」
キュルは返事の代わりに、棚の端に置かれていた小さな瓶へ手を伸ばした。
透明な瓶の中に、淡い琥珀色の飴がいくつも入っている。
「それもか?」
「うん」
「瓶に入ってるけど」
「きれい」
「高いやつじゃないのか?」
「おいしい」
理由になっているようで、なっていなかった。
キツキが言葉に詰まっている間にも、キュルは選んだ菓子を抱えて売店の台へ向かった。
止めるタイミングを、完全に逃した。
売店のふくよかな女性は、台に並べられた菓子を見ても特に驚かなかった。
「今日は多いね」
「うん」
「今日は、って何だ」
キツキが思わず口を挟むと、売店の女性は小さく笑った。
「支払いは、そっちでいいのかい?」
「うん」
「俺に確認してくれないんだな……」
キュルは返事をしなかった。
否定もしなかった。
その沈黙のまま、菓子が1つずつ数えられていく。
キツキは、合計額が告げられるまでの間、妙に落ち着かなかった。
高いものばかりではない。だが、数がある。花蜜飴の小瓶だけは、明らかにほかより少し値が張った。
礼としては、たぶん多い。
けれど、お礼をすると決めたのは自分だ。
ここで引き下がるのも、それはそれで格好悪かった。
キツキは革袋を取り出し、硬貨を数えた。
支払いを終えると、菓子は紙袋にまとめられた。
キュルは当然のように、その紙袋をキツキの方へ寄せた。
「持つのも俺なのか?」
「うん」
「そうか……」
どうやら、そこは決定事項らしい。
キツキは紙袋を受け取った。
片手で持てないほどではない。けれど、お菓子にしては明らかに重い。
紙袋を抱え直したところで、キュルが制服の袖を引いた。
「ん?」
「こっち」
「ここで食べるんじゃないのか?」
「こっち」
説明はなかった。
キュルは当然のように歩き出した。
キツキは一度だけ売店を振り返り、それから小さく息を吐いて、紙袋を抱えたまま後を追った。
売店の甘い匂いと、紙袋のこすれる音が、少しずつ背中側へ遠ざかっていく。
キュルが向かったのは、中央棟から少し外れた場所にある中庭だった。
そこには、淡い白色の幹を持つルミナ樹が1本立っている。枝先の薄い葉は、昼過ぎの光を受けて、ほとんど透けるように見えた。
日曜だからか、人影は少ない。
遠くの回廊を歩く生徒が何人か見えるだけで、中庭の中央はほとんど空いていた。
キュルは迷わず、ルミナ樹を囲む低い石の縁に腰を下ろした。
「ここで食べるのか?」
「うん」
キツキが紙袋を下ろすより早く、キュルは中から菓子を取り出し始めた。
小袋の菓子。焼き菓子。干し果物。花蜜飴の小瓶。
並べてみると、やはり少し多い。
「……これ、昼飯じゃないよな?」
「お菓子」
「それは分かってる」
キュルは袋を1つ開けると、中の菓子を自分の口へ運んだ。
そのまま、もう1つ取り出して、キツキの方へ差し出す。
「ん」
「……どうした?」
「あげる」
「買ったの、俺だけど」
「あげる」
「そうか……ありがとう?」
理屈はよく分からない。
けれど、ちょうど小腹も空いていた。キツキは差し出された菓子を受け取って、そのまま口に入れた。
思っていたより、甘い。
焼き目の香ばしさの奥に、蜜のような味がじんわり広がった。疲れていたせいか、それが妙においしく感じる。
ふと見ると、キュルがじっとこちらを見ていた。
もしかして、感想を待っているのだろうか。
「……うまいな、これ」
キュルは一度だけ、満足そうに瞬きをした。
「うん」
キュルは短く答えると、自分の分をもう1つ口に入れた。
その時だった。
「……何をしているの」
声に振り返ると、中央棟側の回廊から、レニアがこちらを見ていた。
キツキは、口の中に残っていた菓子を慌てて飲み込んだ。
「ちょ、いや、これは、その」
「これは?」
「違う。いや、違わないけど。お礼で」
「お礼?」
「おいしい」
キュルが短く言って、袋からもう1つ菓子を取り出した。
動揺しているのは、たぶんキツキだけだった。
レニアの視線が、キツキとキュルの間を一度だけ行き来した。
「……どういう状況なの」
問い詰めるほどではない。けれど、流すほどでもない声だった。
キツキは自分でも何を否定したのか分からないまま、今日のことを短く説明した。
「前衛の動きを練習したかったんだけど、相手が見つからなくてさ。結局、水と風を少し試してたら、キュルが見ててくれて」
「見てあげた」
「それで、助言の礼にお菓子を買うことになった」
「……そう」
レニアの返事は短かった。
少しだけ、声が硬い気がした。
「前衛の動き、ね」
「ああ。ブロムみたいには、全然いかなくてな」
レニアはそこで、少し黙った。
視線がキツキの顔から、キュルの手元へ落ちる。
2人の間に置かれた菓子が、妙に目についた。
別に、責めるようなことではない。キュルが何かを気にしている様子もないし、キツキが慌てている理由も、レニアにはよく分からない。
分からないのに、声だけが少し硬くなった。
その硬さを振り払うように、レニアは別のことを考えた。
今朝、新聞を閉じたあとから、ずっと頭の隅に残っていたものがある。
実地訓練まで、あと9日。
訓練区画の中だけで準備を整えたつもりになっていいのか。そう考えて、野外訓練の申請を考えていた。
けれど、それをそのまま言う気にはならなかった。
「……なら、いい方法があるわ」
「いい方法?」
「前衛の経験を積みたいなら、野外訓練を使えばいいでしょう」
「野外訓練?」
「学院の管理区域で、低位の魔物や周辺の問題に対応する課外訓練よ」
「それって、依頼とは違うのか?」
「違うわ。報酬を目的に受けるものではないもの」
「じゃあ、何のために行くんだ?」
「学院の外で動く経験を積むためよ。内容次第では評価にも残る」
野外訓練という言葉で、キツキは中央棟の掲示板にあった課外活動の案内を思い出した。
つい昨日、便利そうだと思って見ていたばかりだ。
まさか、こんなに早く申請する側になるとは思っていなかった。
「どうしてもと言うなら、私が連れていってあげてもいいわ」
「……え、いいのか?」
「必要なのでしょう?」
「いや、前衛の経験を積みたいとは言ったけど」
「似たようなものよ」
そうだろうか。
キツキには少し違う気もしたが、レニアはもう次の話へ進んでいた。
「行くなら、水曜日ね」
「水曜日?」
「実地訓練前の調整日よ。通常授業はないわ。予定表にあったでしょう」
「ああ……あれね」
言ってから、キツキは少しだけ目をそらした。
正直、ちゃんと覚えてはいない。
「見ていなかったの?」
「い、いや? 見たけど……細かいところまでは」
よく分からない見栄を張ってしまった。
レニアは小さく息を吐いた。
「確認しておきなさい」
「……はい」
「申請には、目的と参加者を書く必要があるわ」
「目的と参加者……」
「表向きは、管理区域内の低位魔物への対応と、周辺被害の予防。実際には、実地訓練前の確認ね」
「そういう書き方でいいのか?」
「そういうものよ」
キツキには分かったような、分からないような話だった。
「参加者は、私とあなた。……ただ、それだけだと少し偏るわね」
「偏る?」
「私は後衛、あなたは前に出て動く側になるでしょう。もう1人、全体を見られる人がいた方がいいわ」
言われて、キツキは菓子を食べているキュルを見た。
今日の鍛錬でも、キュルはキツキには見えていないものを、当たり前のように見ている時があった。
前に出るなら、そういう目が近くにあった方がいい。
「なら、キュルはどうだ?」
キュルが、菓子を持ったまま目だけを上げた。
「何が?」
「野外訓練。行くか?」
「いいよ」
「早いな」
「うん」
その短い返事を聞いて、レニアの眉がほんの少しだけ動いた。
「あなた、いつもエリルと一緒にいるけれど、大丈夫なの?」
キュルは、菓子を口へ運びかけた姿勢のまま止まった。
誰が見ても、今の今まで忘れていた顔だった。
「……聞いてみないと分かんない」
「今、即答していたわよね」
「うん」
「それでいいのか?」
「分かんない」
分からないらしい。
キツキは少しだけ不安になったが、キュルはもう一度菓子を口に入れていた。
「なら、キュルは仮で書いておくわ。エリルに確認して、駄目なら外す。それでいいでしょう」
「うん」
キュルは迷いなくうなずいた。
レニアはそれ以上追及せず、考えを切り替えるように視線を落とした。
「これで参加者は決まったわね。仮だけれど」
「本当にもう申請するのか?」
「水曜日に行くなら、明日には出す必要があるわ」
「早いな」
「遅くしてもいいことはないでしょう」
「それは、まあ、そうだけど」
「行き先は、学院の管理区域の中から見繕っておくわ」
「そこまで決めるのか」
「申請するなら必要でしょう。細かいところは、私の方で整えておくわ」
「細かいところ?」
「学院の外へ出る以上、確認することはいくつかあるのよ」
レニアはそれ以上、詳しくは言わなかった。
けれど、少なくとも行き先も手続きも、その場の思いつきだけで進めるつもりではないらしい。
「ただ、参加者だけは確認しておく必要があるわ。キュル、明日の朝までにエリルに確認を取ってちょうだい」
「うん」
「……本当に分かっているの?」
「分かってる」
キュルはそう言って、花蜜飴の小瓶を手に取った。
返事だけはしっかりしていた。
レニアも少しだけ何か言いたそうにしたが、結局それ以上は続けなかった。
「私は申請書の確認をしてくるわ」
「俺も行った方がいいか?」
「今はいいわ。明日、内容を確認してもらうから」
「分かった」
「それと、予定表も」
「……はい」
もう一度念を押された。
キツキがうなずくと、レニアは中庭を出ていった。歩く速さに迷いはなく、中央棟側の回廊へまっすぐ戻っていった。
その背中を見送りながら、キツキは小さく息を吐いた。
「何か、すごい勢いで決まったな」
「うん」
「エリルには、ちゃんと聞けよ」
「夜、聞く」
「忘れないよな?」
「たぶん」
「そこは言い切ってくれ」
キュルは返事をせず、紙袋の中をのぞいた。
菓子はまだ残っている。
というより、かなり残っている。
「……で、これはどうするんだ」
「食べる」
「全部?」
「あとで」
今すぐ全部食べるつもりではないらしい。
それが分かっただけでも、少し安心した。
キュルは花蜜飴の小瓶を、大事そうに紙袋へ戻した。
その仕草だけは、いつもより少し丁寧だった。
キツキはそれを見て、さっきの菓子の甘さを思い出す。
水曜日に学院の外へ出ると言われても、まだ実感は薄い。
けれど、決まってしまったものは、たぶん動き出す。
キツキはもう一度、レニアが消えた回廊の方を見た。
◇
その日の夜、女子寮の部屋で、キュルは椅子に座ったまま、花蜜飴の小瓶を少し傾けた。
瓶の中で、淡い琥珀色の飴が小さく揺れる。
エリルは本を閉じて、キュルの方を見た。
「それ、どうしたの?」
「もらった」
「誰に?」
「キツキ」
エリルの動きが、そこで少しだけ止まった。
「……キツキに?」
「うん」
「どういう流れで?」
「見てたら、くれた」
「それだけだと、分かんないよ。キュル」
キュルは少し考えてから、昼間のことをぽつぽつと話した。
エリルは最後まで聞いてから、もう一度、花蜜飴の小瓶を見た。
「そっか。お礼だったんだ」
「うん」
「よかったね」
「うん」
キュルは短く答えた。
けれど、その返事はいつもより少しだけ早かった。
エリルはそれに気づいたように、目元を少しゆるめた。
「それで、何か他にもある?」
「水曜日、外に行く」
「……外?」
「キツキと、レニア」
エリルは、今度こそはっきりと目を瞬かせた。
「キュルから誘ったの?」
「キツキが言った」
「ああ、そういうこと」
エリルは納得したようにうなずいた。
キュルが自分から誰かを誘うところまでは、まだ少し想像しにくい。けれど、キツキが言い出して、キュルが乗ったのなら分かる気がした。
「外ってことは、野外訓練?」
「うん」
「レニア姫も一緒なんだよね?」
「うん」
エリルは少しだけ考えた。
キツキとレニアが一緒に学院の外へ出る。その場にキュルもいる。
心配がないわけではない。
けれど、少なくとも、キュルが教室と寮だけで閉じているよりは、ずっといい。
「いいよ。行っておいで」
「うん」
「ただし、見たことはちゃんと教えてね」
「うん」
「危ないことはしないこと」
「うん」
「本当に分かってる?」
「分かってる」
昼にも似たようなことを聞かれた気がする。
キュルはそう思ったが、口には出さなかった。
代わりに、花蜜飴の小瓶を開けて、中から1つ取り出した。
淡い琥珀色の飴を口に入れる。
「これおいしい」
「……そっか」
エリルは少し笑って、それから机の上の小瓶へ視線を落とした。
「気をつけて行っておいで」
「うん」
淡い琥珀色の飴が、灯りを受けて小さく光っている。
キュルが何を見るのか。
キツキとレニアが、学院の外でどう動くのか。
それはまだ、誰にも分からない。
ただ、水曜日の予定だけは、もう動き始めていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
基本、毎日2話更新です!
続きが気になる、また読みに来てもいい、と思っていただけましたら、
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