第42話 さっきより、まし
日曜の朝、レニアの部屋には、いつもより紙が1枚多く置かれていた。
それは、フォルテア王国から取り寄せている新聞だった。王都の政情や各地の動きを知るため、届いたものには目を通すようにしている。
その紙面の上に、見慣れた紋章と、見慣れた名前が並んでいた。
シエラ・フォルテア。
フォルテア王国第二王女。
地方都市近郊で発生した魔物被害への対応。避難誘導、負傷者の救援、討伐隊への支援。記事はその一つ一つを簡潔に並べ、最後に、クラス6の王女が現地に立ったことの意味を大きく扱っていた。
レニアは、しばらく紙面から目を離さなかった。
姉の名は、王都では珍しくない。だが、こうして遠い街の朝にまで届くほどの実績は、ただ名前があるだけでは残らない。
指先で、新聞の端を押さえる。
薄い紙に載った短い記事が、レニアの前に、姉の積み上げてきたものを置いていく。
ダンジョン実地訓練まで、あと9日。
例年通りなら、前衛、後衛、支援の3人1組で行われる。
後衛に求められるものは、分かっている。見誤らず、外さず、崩さないこと。
それを果たさなければならない。
レニアは新聞を閉じた。
折り目を乱さないように整える。けれど、指先はしばらく紙の端に残ったままだった。
◇
鍛錬区画には、日曜の朝でも人の気配があった。
授業で使う訓練区画とは違い、ここにいる生徒たちは、それぞれの目的で身体を動かしている。標的に向けて魔法を撃つ者。木剣を振る者。
キツキは、その中にレニアの姿を探した。
いればいいと思っていた。いなければ、自分の練習をするだけだ。そう考えていたはずなのに、銀髪が見えないと分かるまで、思ったより時間を使っていた。
「……まあ、そりゃそうか」
小さく息を吐いて、肩の力を抜いた。
レニアには、キツキの知らない時間がある。
昨日歩いた街に、学院の外の生活が続いていたように、彼女にも、キツキの見えていない場所で積み重ねているものがあるのだろう。
そう思うと、少しだけ背筋が伸びた。
近くでは、数人の生徒が休憩しながら話していた。
「ブロム、また評判上がったらしいな」
「前にあったフォールン絡みの件だろ。勇者候補って、やっぱり違うよな」
「でも、あいつ、その話になると顔が変わるぞ」
「そうなのか?」
「1回見た。いつもの顔じゃなかった」
キツキは、少しだけそちらを見た。
噂は噂だ。ブロム本人がいない場所で考えても、分かることはない。
生徒たちの話題は、すぐ別のものへ流れていった。
キツキも視線を戻す。
今は、噂を追いかけるよりも、自分の課題に集中するべきだ。
ブロムの動きを真似るなら、まず相手が必要だ。前に立つ練習は、ひとりで足を動かしているだけでは分からない。敵役がいて、後ろに守る相手がいる。そうなって初めて、自分がどこに立つべきか分かる。
キツキは近くにいたクラスメイトに声をかけた。
「悪い。少しだけ相手してもらえないか?」
返ってきたのは、悪意のない困った顔だった。
「ごめん。今日は自分の確認だけで手いっぱいで」
「ああ、いや。こっちこそ急に悪い」
別の生徒にも声をかけたが、そちらも似たような反応だった。すでに相手を決めている者もいれば、同じ動きを何度も繰り返す予定を崩したくない者もいる。
断られて当然ではあった。
ダンジョン実地訓練まで、あと9日。誰もが、自分の課題を抱えている。
それでも、3人目にやんわり断られたあたりで、キツキは少しだけ目を細めた。
「……俺、人望ないのか」
口にしてみると、冗談の形にはなった。
ただ、完全に冗談というわけでもなかった。
正式にSクラス所属になった。けれど、それで急に周囲がキツキの扱い方を決められるわけではない。仮所属だった生徒が正式に残り、何度も騒ぎの中心に近いところにいた。
たぶん、そのあたりを理由に、距離を測られているのだろう。
誰が何を気にしているのか、キツキにも全部は分からない。
キツキは小さく息を吐いて、視線を上げた。
その時、鍛錬区画の端にある低い壁の影で、薄い水色が見えた。
最初は、布か何かが落ちているのかと思った。
違った。
キュルだった。
屋外の石畳の上、ちょうど日陰になる場所を選んで、横向きに寝転がっている。射線からは外れているし、人の通り道でもない。邪魔ではない。だが、だからといって、そこで寝る理由にはならない。
――ならないよな?
キツキは一度、周囲を見た。
誰も気にしていない。
それはそれで、どうなんだ。
「……何してるんだ?」
キツキが近づいて声をかけると、キュルは目だけを動かした。
「寝てる」
「それは分かるけど」
「じゃあ聞かないで」
短い返事だった。
キツキは少しだけ言葉に詰まり、それから鍛錬区画の方を指した。
「暇なら、少し相手してくれないか」
「やだ」
「早いな」
「やだ」
キュルは起き上がらなかった。銀灰色の瞳だけが、ぼんやりこちらを見ている。
「前に立つ動きで、ちょっと困ってるんだ。うまい前衛って、どう動くか知ってたりしないか?」
「分かんない」
「全然か?」
「エリル以外と、組んだことない」
それは断り文句というより、ただの事実のように聞こえた。
キツキは肩を落とした。
「そっか。じゃあ、しょうがないな」
「うん」
キツキは、しばらくキュルを見下ろしていた。
起き上がる気配はない。手伝う気もなさそうだった。
「……分かった。邪魔して悪かったな」
「うん」
「そこは否定しないんだな」
「しない」
短い返事だった。
キツキは小さく息を吐いて、標的の方へ戻った。
前衛の練習は、ひとまず諦めるしかなかった。相手がいなければ、ブロムの動きを真似ようとしても形だけになってしまう。
なら、今1人でできることをやるしかない。
キツキはキュルのことをいったん脇へ置き、標的の前に立った。
右手を上げる。
火は、やめておいた。
理由をはっきり言葉にできたわけではない。ただ、今ここで火に触れると、別のことまで考えそうだった。
代わりに、水を選ぶ。
小型氷壁を作った時の感覚なら、まだ少しだけ残っている。先に形を決めて、そこに魔力を通す。氷と水は同じではないが、何もないところから始めるよりは近い気がした。
手のひらの前に、小さな水の弾が浮かぶ。
そこまでは、できる。
キツキは息を吸い、魔力をもう一段押し込もうとした。
水弾が、ばしゃりと崩れた。
「……まあ、そうなるよな」
もう一度。
今度は形を崩さないように意識する。輪郭を強く保ち、内側に魔力を通す。だが、水は重く膨らんだだけで、標的に飛ぶ前に足元に落ちた。
水音が、妙に情けなく響いた。
次を試そうとしたところで、低い壁の影から声がした。
「押しすぎ」
キツキは振り返った。
キュルは、さっきと同じ姿勢で横になっていた。寝ていると思っていたが、銀灰色の目だけがこちらを見ている。
「……起きてたのか」
「うん」
「寝てるようにしか見えなかったけど」
「寝てない」
同じ調子で返された。
キツキは水で濡れた足元を見てから、もう一度キュルに視線を戻す。
「押しすぎって、押さないと飛ばないだろ」
「違う」
「何が」
「ぎゅってして、抜く」
「……説明する気あるか?」
「ある」
「今ので?」
「うん」
キツキは額に手を当てた。
分からない。
分からないが、少しだけ引っかかった。
押し込む。押し出す。さっきから、自分はそればかり考えていた。水弾を強くするために、外へ外へと魔力を動かそうとしている。
小型氷壁の時は、そうではなかった。
先に形を決めた。そこに、通した。
キツキはもう一度、右手を上げる。
水を集める。丸める。押し出すのではなく、決めた形の中を一瞬だけ通す。
手のひらの前で、水弾が小さく締まった。
次の瞬間、それは標的まで飛んだ。
乾いた音ではなかった。水がぶつかっただけの音でもなかった。
標的が、鈍く揺れる。
キツキは、息を止めた。
「……今の」
「さっきより、まし」
キュルはそれだけ言った。
褒められたのかどうか、分からない。
だが、少なくとも失敗と同じではなかった。
キツキは手のひらを見つめたまま、もう一度感覚をなぞる。押し出すのではなく、形を決めて、通す。
たまたまかもしれない。
そう思ったので、もう一度水を集めた。今度はさっきよりも慎重に、形を決めるのに時間をかける。だが、水弾は崩れなかった。
標的まで飛ぶ。
今度も、標的は鈍く揺れた。
「……今のも?」
「さっきより、まし」
「それ、褒めてるのか?」
「まし」
「答えになってない」
「なってる」
キツキは小さく息を吐いた。
まだ、使えるとは言えない。発動まで時間がかかりすぎるし、戦いの中で同じことができるかも分からない。
それでも、一回きりではなかった。
キツキは、もう何度か試した。形を決める前に押し出せば崩れ、輪郭を固めすぎれば重くなって落ちる。少し焦るだけで、手のひらの前に集めた水は簡単に散った。
それでも、何度目かには標的まで届いた。鈍い音がして、標的が揺れる。
遅いし、粗い。狙いも、まだ甘い。
だが、水だけは、少しずつ同じ形に戻れるようになっていた。
「さっきより、まし」
低い壁の影から、また同じ評価が飛んできた。
「はいはい。ありがとな」
「はいはいじゃない」
「じゃあ何だ」
「まし」
「それは聞いた」
「聞いてない」
キュルは横になったまま、目だけでこちらを見ている。
褒められているのかどうかは、やはり分からない。
けれど、少なくとも見当違いではないのだろう。さっきからキュルの言葉は、妙に外れていなかった。
なら、同じ感覚を、別の形にも通せるかもしれない。
今度は、手元に風を集めた。
風は水より軽い。形が見えにくい。輪郭を決めたつもりでも、すぐに外へ逃げようとする。
キツキは、水弾の時よりもさらに時間をかけて、風を小さく圧縮した。
形の中に、魔力を通す。
手のひらの前で風が跳ねた。
風の弾は標的へ走ったが、中心を外れ、下端をかすめるように当たってほどけた。
「……今のは?」
「雑」
「ましから下がったな」
「さっきより、まし」
「え? 雑なのに?」
「雑だけど、まし」
褒められたのか、違うのか。
キツキには判断がつかなかった。だが、駄目だと言われたわけではないらしい。
それが、少しだけおかしくて、笑ってしまった。
水は遅い。それでも、同じ形に戻れるようになってきた。
風は違う。形を作れたと思った瞬間に逃げる。通したつもりの力が、標的に届く前にほどけていく。
どちらも戦いの中で使えるかと聞かれれば、まだ首を縦には振れない。
それでも、昨日までとは違う。
もう一度、風を試そうとして、キツキは指先がわずかに重いことに気づいた。
魔力が減った感覚はない。だが、集中し続けたせいか、肩と首のあたりに鈍い疲れが溜まっている。胸の奥も、少しだけ熱い。
それでも、ここで止めるには、まだ足りない気がした。
「……もう一回」
「やめた方がいい」
低い壁の影から、また声がした。
キツキは手を止める。
「なんでだ?」
「もっと雑になる」
「今でも雑だったんだろ」
「もっと」
「……それは、嫌だな」
その姿勢で言われると説得力があるのかないのか分からなかったが、キツキは手を下ろした。
横になったままのキュルは、もう何も言わない。銀灰色の目だけが、こちらを向いている。
ずっと見ていてくれたのだと、今さら分かった。
「……少し分かった気がするよ。たぶん、キュルのおかげだと思う」
「うん」
少しだけ間を置いて、キュルは言った。
「お菓子」
「……え?」
「お礼」
「……今ので要求するのか」
「する」
「お菓子なんて持ってないぞ」
「じゃあ、買って」
「今から?」
「うん」
キュルはそこで、ようやく上体を起こした。
あまりにも当然のように動き始めたので、キツキは返事に詰まった。
エリルの隣にいる時のキュルは、もっと遠くに見えていた。必要な時だけ短く答え、興味のないものには薄く反応する。そういう少女だと思っていた。
今も、たぶん大きくは変わっていない。
ただ、横になったまま勝手に見て、分かりにくい言葉を投げて、最後に菓子を買わせようとしてくる。
それだけだった。
キュルはもう、当然のように歩き出そうとしている。
「キュル」
「何」
「さっきの、もう少し分かるように言えたりするか?」
「ぎゅってして、抜く」
「それはもう聞いた」
「じゃあ、それ」
「……」
たぶん、キュルなりにはそれで全部なのだろう。
キツキは小さく笑って、足元に落ちた水の跡を見た。
前衛の練習はできなかった。風も、使えると言えるほど安定していない。
けれど、水は少しだけ形になった。
1人で続けていたら、もっと難航していた気がする。
キツキは1度だけ標的を振り返り、それからキュルの後を追った。
ダンジョン実地訓練まで、あと9日。
その前に、なぜかキュルと2人で学院内の売店に向かうことになった。
菓子を選ぶのはキュルだ。
少しだけ財布の中身が心配になったが、キュルにも、遠慮する良心くらいはあるはずだ。
そう思いたかった。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
基本、毎日2話更新です!
続きが気になる、また読みに来てもいい、と思っていただけましたら、
ブックマークしていただけると励みになります!!!




