第41話 知らない街の歩き方
そのまま通りの先へ足を向けると、屋台から甘い匂いが漂ってきた。
キツキは、少しだけ足を止めた。
丸い生地を鉄板の上で焼いている。表面に薄く蜜のようなものが塗られ、焦げる手前の甘い匂いが風に乗っていた。
食べてみたい。
そう思って腰のあたりに手をやりかけたところで、キツキは小さな革袋の重みを思い出した。
この世界に来た時から持っている革袋には、まだ硬貨が残っている。日用品を少し買ったくらいで、大きく使った覚えはない。
けれど、いつまでもそれだけで済むはずもない。
今すぐ困るわけではないにしても、どこかで金を稼ぐことも考えなければならないのだろう。
そう思うと、何も考えずに硬貨を減らす気にはなれなかった。
結局、キツキは屋台の前から少し離れた。
そこから少し歩くと、通りはさらに賑やかになった。
学院生向けの明るい店に混じって、冒険者らしい人間の姿も増えてくる。大きな荷物を背負った男、腰に短剣を下げた女、何かの素材が入っているらしい袋を店先に置いている集団。
学院の近くなのに、学院だけの街ではない。そのことが、歩くほどに分かってくる。
「だから、今日はいい日なんだって!」
人混みの向こうで、ひときわ大きな声が上がった。
キツキがそちらを見ると、屋台通りの端に、頭ひとつ抜けた大柄な男がいた。
乱れた橙色の髪を揺らしながら、片手に木の杯らしいものを持っている。顔つきはかなり迫力があるのに、声はやけに楽しそうだった。
周りの人間も、特に怯えている様子はない。
「朝から元気だな、あの人」
近くにいた学院生が、笑い混じりに言った。
「昨日もいたぞ」
「じゃあ、いつも元気なんだな」
そんな会話が聞こえて、キツキは少しだけ力を抜いた。
絡まれるような雰囲気ではなさそうだ。
大柄な男は、店主に何か言われて豪快に笑っている。その笑い声が通りに響き、何人かが呆れたように振り返った。
この街にも、いろんな人がいるらしい。
屋台通りを抜けると、通りの雰囲気が少し変わった。
武器や防具を扱っているらしい店が増えてくる。壁には短剣が並び、革鎧が吊るされ、見慣れない金属の部品が箱に入れられていた。
その先に、大きな看板が見えた。
冒険者ギルド。
その文字を見た瞬間、キツキは思わず足を止めた。
異世界に来たのだと分かってからも、実感のわかないことは多かった。
けれど、その名前だけは、妙に分かりやすく胸に刺さった。
冒険者。
魔物を討伐して、依頼を受けて、仲間と一緒に知らない場所へ向かう。
物語の中で何度も見たような言葉が、今は石造りの建物の看板に刻まれている。
「……あるんだ」
小さく呟いてから、キツキは建物の入口を見た。
中に入るつもりはなかった。
ただ、少しだけ覗いてみたいと思った時には、足はもう入口へ向かっていた。
冒険者ギルドの中は、思っていたよりも広かった。
入ってすぐの場所には大きな掲示板があり、紙が何枚も貼られていた。その前では、冒険者らしい人たちが足を止めたり、短く言葉を交わしたりしている。
奥にはカウンターがあり、女性の受付が冒険者らしい男と何かを確認している。壁際の卓には、武器を置いたまま話し込んでいる者たちがいた。
学院の教室とは、まるで空気が違う。
魔法の成績や授業の予定ではなく、もっと直接的な生活の匂いがする場所だった。
キツキが入口近くで立ち止まっていると、近くの卓にいた年季の入った冒険者が、こちらを見て片眉を上げた。
「ギレルの嬢ちゃん……いや、坊主か。可愛い顔してるから迷っちまったよ」
「……坊主で合ってます」
思わずそう答えると、男は愉快そうに笑った。
「わりぃわりぃ。ギレルの子が一人で来るのは珍しいからな」
「あ、いや、ちょっと見てみたくて」
「見学か。なら、邪魔にならないところで見ていきな」
「はい」
言われるまま、キツキは一歩だけ中へ入った。
思っていたより、強く咎められることはなかった。
ギレルの制服を着ているからなのか、ただの見学だと思われているからなのかは分からない。けれど、少なくとも今すぐ追い出されるような雰囲気ではなかった。
掲示板の前まで行く途中、カウンターの方から入口へ向かって、一人の冒険者が歩いてくるのが見えた。
外套のフードを深くかぶった、細い人影だった。
背は150cm後半だろうか。手には、身長に対して少し長く見える杖を持っている。装飾は派手ではないが、使い込まれていることだけは分かった。
その人影が、キツキの横を通り過ぎる。
ちょうどその時、入口から入ってきた風が、外套の端を揺らした。
フードが少し後ろへ落ちる。
深い青の髪が、肩から背中へ流れた。
少女だった。
同い年くらいに見える。
かなり綺麗な顔をしているのに、不思議と明るさより先に、冷たさのようなものが目に入った。疲れているようにも、ずっと遠くを見ているようにも見える。
外套も装備も使い込まれているのに、立ち姿だけは妙に崩れていなかった。
一瞬、目が合った。
深い青の瞳が、キツキを見る。
けれど、少女は何も言わなかった。
キツキも、何も言えなかった。
少女はそのままフードを戻し、ギルドの外へ出ていく。
扉が閉まってから、近くの冒険者たちが小さく話す声が聞こえた。
「フィリンか」
「また1人で片づけてきたのか」
「17でクラス3だろ。下手に声かける方が怖いって」
「実際、失敗してるところ見たことないしな」
フィリン。
17でクラス3。
その2つだけが、キツキの耳に残った。
フィリンが出ていったあとも、ギルドの中の空気はすぐには戻らなかった。
いや、戻らなかったようにキツキには見えた。
実際には、冒険者たちはすぐにそれぞれの話へ戻っている。受付も、次の書類に目を落としていた。誰かが立ち上がり、誰かが笑い、卓の上で硬貨の鳴る音がする。
ただキツキだけが、少し遅れていた。
また1人で片づけてきた。
失敗しているところを見たことがない。
冒険者たちの短い言葉が、頭の中で遅れてつながっていく。
さっきすれ違った少女は、若くしてクラス3に届き、1人で依頼をこなしている冒険者らしい。
同い年くらいに見えるのに、立っている場所がまるで違う。
学院の中で、成績や演習やクラスのことを考えている間にも、外には外の基準で生きている人がいる。
そのことが、妙に胸に引っかかった。
その引っかかりを抱えたまま、キツキは掲示板の前に立った。
紙には、依頼の内容と報酬らしい金額が書かれていた。
採取、運搬、護衛、討伐。
中には、聞いたことのない魔物の名前もある。期限や必要人数も、依頼ごとに書き添えられていた。
冒険者。
それは物語の中の響きだけではなく、ここではちゃんと仕事なのだ。
魔物を相手にして、知らない場所へ行って、それで金を稼ぐ。
少し前なら、それだけで胸が躍ったかもしれない。
けれど今は、掲示板に並んだ文字を見ても、その依頼票を自分が手に取る姿は想像できなかった。
クラス1相当の出力。
前衛としても未熟。
魔法への恐怖も残っている。
そんな自分が依頼を受けるのは、現実味がなかった。
「……見るだけだな」
小さく呟いて、キツキは掲示板から離れた。
受付の方に行くことはしなかった。
登録するつもりもない。
今の自分は冒険者ではなく、ギレル魔法学院の生徒だ。10日後には、ダンジョン実地訓練も控えている。
それだけで、今は十分すぎる。
キツキはもう一度だけギルドの中を見渡してから、外へ出た。
扉を開けると、通りの明るさが戻ってくる。
さっきまでの空気が少し濃かったせいか、外の風がやけに軽く感じた。
そのまま歩き出そうとして、キツキは店先から聞こえた声に足を止めた。
「なあ、もう少しだけ安くならないか。頼むよ。こっちも今日は懐が寒くてな」
どこかで聞いたような声だった。
見ると、通りの向かいにある魔道具店の前で、さっき屋台通りで騒いでいた大柄な男が、店主に向かって両手を合わせていた。
店先には、金属と硝子が組み合わさった、用途のよく分からない壊れた魔道具が置かれている。男はそれを指さしながら、もう一度頼み込んだ。
「なあ、これ、どうせ壊れてるだろ。もう少しだけでいいんだ」
「昨日も同じことを言ってただろ」
「今日は、昨日よりも懐が寒いんだ」
「胸を張って言うな」
店主は呆れたように返していたが、本気で迷惑がっているようには見えなかった。
男の方も、横柄に値切っているわけではない。むしろ、妙に腰が低い。
顔つきの迫力と、頼み方の柔らかさが噛み合っていなかった。
変な人だな。
キツキはそう思っただけで、通りの先へ視線を戻した。
まだ見ていない店が、いくらでも並んでいる。
せっかくここまで来たのだから、目に入るものをもう少しだけ見て回りたかった。
それからキツキは、しばらく通りを歩いた。
何か大きな目的があったわけではない。
見慣れない果物を並べた露店を眺めたり、訓練用の手袋を手に取って値段だけ見て戻したり、屋台の前でしばらく迷った末に、結局小さな焼き菓子を一つだけ買ったりした。
焼き菓子は、まだ少し温かかった。
表面の蜜が指に残る。焼けた生地の香ばしさの奥に、学院の食堂では出てこない素朴な甘さがあった。
屋台の前で少し迷って、自分で硬貨を出して買った。
それだけで、少しだけ嬉しかった。
学院にいる時は、いつも次にやることが目の前にあった。試験、訓練、治療、演習。ひとつ終わっても、すぐ次が来る。
正式所属が決まった今も、10日後にはダンジョン実地訓練がある。
気づけば、休むより先に、次の課題を見ていた気がする。
けれど今は、知らない街を歩いている。それだけで、少し息がしやすかった。
ふと、冒険者ギルドで見た青い髪の少女のことが頭に浮かんだ。
けれど、それを今すぐ考え込む必要はない。
キツキは指先に残った蜜を拭い、もう少しだけ通りを歩いた。
店先をいくつか覗き、行き交う人の声を聞き、見覚えのない道を一本だけ曲がって戻った。
空が少し傾き始めた頃、キツキは学院へ戻る道を歩いていた。
焼き菓子は、もう食べてしまった。
手の中には何も残っていない。買い足したものも、持ち帰れる成果もない。
それでも、出てきた時より少しだけ足取りは軽かった。
ダンジョンまで、あと10日。
やることは、たぶん山ほどある。
それでも今日は、訓練でも評価でもない道を、自分で選んで歩いた。
知らない店も、知らない仕事も、知らない人の名前もあった。
この世界を、ほんの少しだけ、自分の足で知ることができた。
そのことが、不思議と少し嬉しかった。
――次は、何を見られるだろうか。
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