第40話 休みの日の一歩
ダンジョン実地訓練の日程は、翌朝には中央棟の掲示板に貼り出されていた。
その日は土曜日で、本来なら授業はない。
それでも告示の前には、何人かの生徒が足を止めていた。
実施日は、10日後。
昨日ガルドが口にした言葉は、朝になると正式な予定としてそこに貼り出されていた。
キツキも、その中に混じって告示を見ていた。
10日。
長いのか、短いのか、すぐには判断できなかった。
ただ、昨日の訓練区画で見たブロムの背中と、自分がうまく前に立てなかった感覚は、まだ足の裏に残っている。
やることはある。
前衛としての動きも、後衛の射線も、支援との位置取りも、何もかも足りていない。そう思えば、10日という時間は短すぎる気がした。
けれど、そこでふと、キツキは別のことにも気づいた。
この世界に来てから、休みらしい休みを取った覚えがない。
入学して、試験を受けて、訓練場で倒れて、治療室に運ばれて、復帰して、仮配属を外すために動いて、正式にSクラスになって、また演習が始まった。
休んでいたと言えるのは、治療室のベッドにいた時間くらいだ。
だが、あれを休息と呼ぶのは、さすがに違う気がした。
告示の下には、課外活動に関する案内も並んでいる。
研究会の活動日、演習室の使用申請、提出物の期限。その中に、野外訓練という文字があった。
学院の許可を受けた生徒が、管理区域で低位の魔物を相手に実地経験を積むための制度らしい。参加人数、目的、行き先、帰還予定を書いて申請する。許可が下りれば、単独でも複数人でも出られるとある。
便利そうではある。
前衛として経験を積みたいなら、たぶんこういうものを使うべきなのだろう。
それは分かる。
分かるのに、今すぐ申請書に手を伸ばす気にはなれなかった。
予定を見て、課題を見て、次にやるべきことを探す。
この世界に来てから、ずっとそればかりしている気がする。
休みたいと思った途端、訓練の案内が目に入るあたり、この学院は本当に容赦がない。
掲示板から少し離れたところで、キツキは息を吐いた。
街へ出るなら、今日しかない気がした。
そう思ってから、自分の服装に気づいた。
今日は、制服を着ている。
休日なのに、と一瞬思ったが、そもそもキツキには、街へ出られるような私服がほとんどなかった。寝間着で歩くわけにもいかない以上、結局いつもの制服になる。
それもどうなんだろう、と思わなくはない。
そんなことを考えていると、中央棟の入口近くに、レニアの姿が見えた。
休日の中央棟は、平日よりも人が少ない。そのぶん、銀色の髪と、すっと伸びた立ち姿はよく目立った。整った横顔も、静かな人の流れの中では、いつもより近寄りがたく見える。
レニアも告示を見に来たのか、それとも鍛錬へ向かう途中だったのかは分からない。けれど、迷いなく歩く姿は、いつもと変わらなかった。
キツキは一度、声をかけるか迷った。
街のことを少し聞きたい。
それは嘘ではない。けれど本当は、レニアと2人で街を歩けたらいいと思っていた。
そう考えた瞬間、少しだけ声をかけづらくなる。
ダンジョンまであと10日しかないのに、何を浮かれているんだろう。
――でも、声をかけるくらいならいいよな?
断られるとしても、何もしないまま後悔するよりはいい気がした。
「レニア」
呼ぶと、レニアは足を止めた。
「何」
いつもの短い返事だった。
それだけで、少し安心する。
「その、今日、少し街を見て回ろうと思ってるんだけど」
言ってから、キツキは自分の声が少し上ずったことに気づいた。
「ミザルのこと、俺、まだ全然詳しくないから。よかったら、少し教えてくれないか」
レニアはすぐには答えなかった。
赤い瞳が、ほんの少しだけキツキから外れる。
それから、中央棟の奥へ続く廊下を一度だけ見る。訓練区画へ向かう方角だった。
断られる。
そう思ったのに、その間が思ったより長かった。
「……私も、詳しいわけではないわ」
「え、そうなのか?」
「ええ。学院の周りを少し知っている程度よ」
レニアはそこで、また少しだけ黙った。
何かを言うか迷っているようにも見えたし、最初から決めていたことを言い直しているようにも見えた。
「今日は、鍛錬があるの」
「あ、そっか」
思ったより早く、キツキは頷けた。
残念ではあった。
けれど、それなら仕方がないとも思えた。レニアにも、今やるべきことがある。
「じゃあ、また今度」
「ええ」
レニアは短く答えた。
それから、ほんの少しだけ何かを言いかけたように見えた。
だが、結局そのまま口を閉じる。
キツキも、それ以上は引き止めなかった。
レニアはいつものように背筋を伸ばし、訓練区画の方へ歩いていった。
その姿が見えなくなってから、キツキは小さく息を吐いた。
断られた。
仕方がないと分かっていても、少しだけ肩が落ちる。
街を案内してほしかったのも本当だが、それ以上に、レニアと歩いてみたかった気持ちが残っていた。
「……まあ、ダメ元だったしな」
自分に言い聞かせるように呟いて、キツキはその場を離れようとした。
そこで、階段の近くにブロムの姿を見つけた。外出用らしい上着を羽織っている。
「ブロム」
声をかけると、ブロムがこちらを振り向いた。
「キツキ。おはよう」
「おはよ。今日って、何か予定あるか?」
聞いてから、少し雑な誘い方だった気がした。
ブロムは一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん。今日は実家から呼ばれていてね。少し戻らないといけないんだ」
「実家?」
「うん。ダンジョン実地訓練の告示が出たから、その関係もあると思う」
アステリオン家の勇者候補。
そう聞けば、キツキにも何となく察しはついた。ブロムには、休日でも呼ばれるだけの立場がある。
「そっか。じゃあ仕方ないな」
「誘ってくれたなら、嬉しいんだけど」
ブロムはそう言って、少しだけ眉を下げた。
「また別の日でもいいかな」
「ああ。もちろん」
キツキは頷いた。
レニアに続いてブロムにも断られたが、今度は最初から諦めがつきやすかった。
むしろ、ブロムの方が申し訳なさそうにしているせいで、こちらが変に気を遣いそうになる。
「実家、気をつけてな」
「ありがとう。キツキも気をつけて」
そう言って、ブロムは階段を下りていった。
その背中を見送ってから、キツキはもう一度息を吐く。
レニアは鍛錬。
ブロムは実家。
休日とは何だったのか。
「連敗だね」
横から楽しそうな声がした。
振り向くと、エリルが壁に軽く背を預けてこちらを見ていた。その少し後ろに、キュルもいる。
「……見てたのかよ」
「たまたまね」
「絶対たまたまじゃないだろ」
「落ち込んでるところまでは、たまたま見えたかな」
エリルは悪びれずに笑った。
キュルは眠そうな目のまま、キツキを見ている。
「キツキ。私たちが付き合ってあげようか?」
「え、ほんとに?」
思わず声が明るくなった。
その瞬間、エリルの笑みが少し深くなる。
「無理だけどね」
「なんで一回期待させたんだよ」
「いい顔見せてくれるかなーって」
「ひどい……」
横から、キュルが短く言った。
「キツキぼっち」
「……」
思ったよりまっすぐ刺さった。
「ぼっち」
「2回言わなくていい」
エリルは楽しそうに肩を揺らした。
「ここの生徒は、休みの日でも忙しいからね」
「どうやらそうみたいだな。身にしみたよ」
レニアも、ブロムも、エリルとキュルも。
休みの日だからといって、何もないわけではない。
「じゃあ、私たちも行こうか」
エリルがそう言うと、キュルは小さく頷いた。
「キツキ」
「ん?」
「迷子、ほどほどに」
「迷う前提で言うな」
キュルは返事をせず、エリルの後ろについて歩き出した。
2人の姿が廊下の奥へ消えてから、キツキは中央棟の入口の方を見た。
外の光が、扉の向こうから差し込んでいる。
結果だけ見れば、完全に一人だ。
けれど、不思議と足は重くなかった。
誰かに連れていってもらうわけでも、誰かの予定に混ぜてもらうわけでもない。
自分で行き先を決めて、自分の足で歩く。
それだけのことが、この世界に来てから、ほとんどなかった気がする。
今日は、訓練でも評価でもない。
ダンジョンまであと10日。
その前に少しくらい、知らない街を歩いてもいい気がした。
そう決めると、キツキは中央棟の入口へ向かった。
扉を抜け、正門までの道を歩く。
正門では、門のそばにいた学院関係者らしい男が一度こちらを見ただけで、特に何も言われなかった。どうやら、休日の外出そのものは咎められることではないらしい。
学院の外に出ると、道の空気が変わった。
石畳の通りには、キツキと同じようにギレルの制服を着た生徒の姿がちらほらあった。外出用の服を着ている者もいる。
見知った顔はなかったが、同じ学院の生徒が街の中を普通に歩いているだけで、キツキは少しだけ安心した。
少しだけ肩の力が抜けると、通りの両側に並ぶ店が目に入った。
学院生向けらしい軽食の屋台、筆記具を扱う小さな店、訓練用の手袋や革の防具を吊るした店。
屋台の前では、制服姿の生徒が紙袋を受け取り、友人らしい相手に中身を1つ分けていた。革防具の店では、店主が吊るした手袋の紐を直している。
そのさらに向こうには、魔物素材を扱っているらしい店もあった。牙や爪のようなものが束にされ、見慣れない色の皮が丸めて置かれている。
甘い匂いと、革の匂いと、香辛料のような匂いが混ざっていた。
キツキは思わず足を緩める。
ここには、訓練場や教室では聞こえない声があった。
店の呼び込み、笑い声、誰かが誰かを呼ぶ声。
それらが通りのあちこちから重なっている。
知らない店。知らない匂い。知らない人の声。
そのどれもが、学院の外にも自分の知らない世界が続いているのだと教えてくる。
キツキは、そのまま通りの先へ視線を向けた。
もう少し、この街を歩いてみたかった。
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