第37話 引かなかった一歩
班別実技演習を翌日に控えた放課後、学院の空気は少し浮いていた。
掲示板の前には、何度も足を止める生徒がいる。まだ班分けは出ていない。それでも、明日には誰と組むのか、誰の隣で動くことになるのか、誰もが気にしていた。
キツキも例外ではなかった。
ただ、以前のように自分だけが場違いだと思うことは、少し減っている。正式にSクラス所属になった。それだけで何かが急に上手くなるわけではないが、少なくとも、そこにいていい理由はできた。
だからといって、落ち着くわけでもない。
キツキは放課後の人の流れから少し外れ、鍛錬区画へ向かった。
ブロムに言われた構えや呼吸のことが、頭の端に残っている。魔法を撃つにも、体を使う。分かったつもりでいて、まだ何一つ身についていない。
軽く体を動かすだけのつもりだった。
だが、鍛錬区画の一角で足が止まる。
レニアがいた。
細い炎が、彼女の掌の上で揺れている。
炎そのものは小さい。けれど、それを見つめるレニアの横顔には、いつもの余裕がなかった。
声をかけようとして、キツキは口を閉じた。
レニアは、こちらに気づいていない。
掌の上に灯った炎を細く伸ばし、標的へ向けて放つ。赤い線が空気を裂き、標的の表面を浅く焼いた。
当たっている。
外れてはいない。
けれど、キツキにはそれが成功に見えなかった。
レニアの呼吸が浅い。炎を消したあとも、肩がわずかに上下している。表情はいつも通り整っているのに、足元だけが少し頼りなかった。
もう一度、炎が灯る。
今度は先ほどより細い。無理やり形を絞っているように見えた。
キツキは一歩、踏み出しかけて止めた。
大丈夫か、と聞くのは簡単だ。けれど、その言葉を今かけていいのかは分からなかった。
レニアは、自分で向き合うと決めたのだ。
心配だからという理由だけで近づけば、その場所まで勝手に踏み込んでしまう気がした。
それでも、何もせずに離れることもできなかった。
なら、せめて理由を作ればいい。
水の差し入れくらいなら、不自然ではないはずだ。
そう考えている時点で、話しかけるための言い訳を探しているだけなのかもしれない。
それでも、何の理由もなく近づくよりはましだと思った。
キツキは鍛錬区画を離れ、購買へ急いだ。
◇
水の入った瓶を手に、キツキは鍛錬区画へ戻っていた。
ただの差し入れだ。そう自分に言い聞かせる。話しかける理由がほしかっただけだと分かっているから、余計に落ち着かない。
気づけば、足が少しだけ速くなっていた。
だが、鍛錬区画の一角が見えたところで、その足が止まる。
レニアの前に、別の生徒が立っていた。
セドリック・ヴァルグラン。
上級生の制服を乱れなく着こなし、いつものように穏やかな顔でレニアに向き合っている。
「通りかかったところ、少し気になるご様子でしたので」
セドリックの声は柔らかかった。
「明日の実技を前に、何か悩まれているのであれば、不遜ながら、私にもお力になれることがあるかもしれません」
レニアは表情を崩していない。
ただ、手の中の炎はすでに消えていた。浅く上下する肩と、わずかに遅れる返事だけが、さっきまでの鍛錬の重さを残している。
「お気遣いは結構です」
「そうおっしゃらずに。私も一応、クラス4に届いた身です。殿下が望まれるなら、静かな場所で少しお話を伺うこともできます」
殿下。
その呼び方に、レニアの赤い瞳がほんの少しだけ冷えた。
遠くには、まだ鍛錬を続けている生徒の姿がある。
何人かは、セドリックとレニアの方へ一瞬だけ視線を向けた。だが、相手はフォルテア王国の伯爵家に連なる上級生で、レニアは王女だ。
そこへ口を挟める生徒はいない。
すぐに、誰もが自分の標的へ視線を戻した。
見ていないふりをする空気だけが、そこに残る。
キツキは水の瓶を握り直した。
以前なら、ここで止まっていたと思う。
相手は上級生で、貴族で、クラス4で。自分は、何も言えずに距離を測るだけだったかもしれない。
けれど、今は違う。
キツキは一度だけ息を吐き、2人の方へ歩き出した。
「レニア、言ってた水、買ってきたぞ」
レニアは、一瞬だけキツキを見た。
それから、キツキの手にある水の瓶を見る。
ほんのわずかな間があった。
その間に、セドリックの視線がキツキへ向く。
キツキは、できるだけ何でもない顔をした。うまくできている自信は、あまりなかった。
「……ええ」
レニアは短く答えた。
そして、いつものように表情を整える。
「ありがとう。助かったわ」
キツキは内心で息を吐きかけたが、まだ早いと思ってこらえた。
「失礼」
セドリックの声が、穏やかに割り込んだ。
怒っているようには聞こえない。だが、その穏やかさの分だけ、言葉はきちんと場を止めた。
レニアがキツキを見て、水の瓶を見て、それから答えるまでのわずかな間。
セドリックは、それを見逃していなかった。
「君が正式にSクラスに所属したことは聞いている。まずは、その点について祝意を述べよう」
「……ありがとうございます」
「だが、正式な所属となったからこそ、振る舞いにはこれまで以上の責任が伴う」
セドリックは、ゆっくりとキツキの手元へ視線を下げた。
「平民の1年生が、王女殿下の鍛錬の場へ不用意に立ち入る。たとえ善意であっても、周囲がどう見るかは考えた方がいいだろう」
キツキは言葉を探した。
言い返したいことはある。
けれど、何を言えば正しいのかは、すぐには分からなかった。
その前に、レニアが口を開いた。
「私が頼んだのです」
短い一言だった。
セドリックの視線が、レニアへ戻る。
「水を持ってくるよう、私が彼に頼みました。ですから、不用意に立ち入ったわけではありません」
レニアの声は乱れていない。
表情も、王女として人前に立つ時のものに戻っている。
ただ、その赤い瞳だけが、セドリックをまっすぐ見ていた。
「何か問題がありますか、先輩」
セドリックは、すぐには答えなかった。
穏やかな笑みは崩れていない。
けれど、その沈黙だけで、空気が少し重くなる。
「殿下がそう仰るのであれば、私から申し上げることはありません」
セドリックは静かに言った。
「ただ、明日の班別実技演習を前に、あまり無理はなさらない方がよろしいかと存じます。殿下のお身体は、殿下お一人だけのものではありませんから」
レニアの眉が、ほんのわずかに動いた。
キツキにも、それは分かった。
セドリックの言葉は丁寧だった。けれど、その丁寧さが、レニアを勝手に別の形へ押し込めているように聞こえた。
「ご忠告として、受け取っておきます」
レニアは短く返した。
「それから、君」
セドリックの視線が、今度はキツキへ向く。
口調が、わずかに変わった。
「正式にSクラスの一員になった以上、今まで以上に見られる立場だ。殿下のそばにいるなら、なおさらな」
「……はい」
セドリックの視線が、キツキの持つ水の瓶へ落ちる。
ほんの一瞬だけ、笑みが薄くなった。
「殿下はお優しい方だ。だからこそ、周囲の者が線を引かなければならない」
穏やかな声だった。
だからこそ、その言葉は、キツキの立つ場所を静かに狭めていく。
「本来なら、殿下が落ち着いて話せる場を整えるべきだった。こうして人目のある場所で、殿下に余計な気遣いをさせるべきではない」
レニアの赤い瞳が、わずかに細くなる。
けれど、セドリックはそれを不快とは受け取っていないようだった。
「親しさと無遠慮を履き違えないことだ」
キツキは瓶を持つ手に力を入れた。
言い返したい。
だが、今ここで言い返すことが、レニアのためになるのかは分からなかった。
セドリックは、それ以上は続けなかった。
レニアに向き直り、深くはないが形の整った礼をする。
「では、失礼いたします。明日の実技演習で、殿下がよい結果を残されることを願っております」
「……ええ。お気遣いなく」
レニアは表情を変えずに返した。
セドリックはもう一度だけキツキへ視線を寄せ、それから鍛錬区画を離れていった。
その姿が入口の向こうへ消えるまで、レニアは表情を崩さなかった。
けれど、見えなくなった瞬間、小さく息を吐く。
「……本当に、嫌な奴」
低く落とした声だった。
キツキは一瞬、返事に迷った。
レニアがそこまで露骨に誰かを嫌う言葉を口にするのを、聞いたことがなかったからだ。
レニアは水の瓶を持ち直し、乱れかけた表情をいつもの形へ戻した。
「……乗ってくれて助かった」
結局、キツキは先にそのことを言った。
「よくあんなことを思いついたわね」
「思いついたというか、口が先に動いたというか」
「でしょうね」
レニアは短く返し、キツキの手元へ視線を落とす。
「それで、その水は本当に買ってきたの?」
「ああ。それは本当だよ」
「そう」
レニアはキツキから水の瓶を受け取った。
その表情は、さっきより少しだけ穏やかに見えた。
けれど、瓶を持つ手がわずかに下がり、水の重みに引かれたように、レニアの肩が落ちた。
次の瞬間、体の軸がふっと外れる。
「っ、レニア!」
考えるより先に、キツキは手を伸ばしていた。
とっさに、レニアの肩を支える。
倒れないようにしただけのはずだった。
けれど、キツキの手はもう彼女の肩に触れている。
触れている。
触れてしまっている。
訓練着越しに触れた肩は、細く、柔らかく、思ったよりも熱を持っていた。
レニアは、急なキツキの行動に一瞬だけ目を瞬かせた。
何が起きたのか分からないような、きょとんとした顔だった。
その顔が、すぐ近くにある。
傾いた拍子に流れた銀髪が、キツキの視界の端をかすめた。額に残った汗と、乱れた息と、その奥にある青い薔薇を思わせる香りが、近すぎる距離にあった。
キツキの頭が、一瞬だけ止まる。
レニアも、遅れて状況を理解したように、すぐには動かなかった。
わずかな沈黙のあと、レニアが先に視線を外した。
「……別に、あなたがいなくても倒れなかったわ」
「い、いや、今のは倒れるだろ」
「倒れないわよ」
たぶん、本当にそうだったのだと思う。
レニアの足は、きちんと床を捉えていた。倒れかけたというより、ほんの一瞬、限界を越えた体が揺れただけだった。
それでもキツキは、先に手を伸ばしていた。
そう思ったところで、二人の距離がまだ近いことに気づく。
肩に置かれたキツキの手は離れていない。
レニアも、それを今さら意識したように、ほんの少しだけ息を止めた。
ふと、レニアは自分が汗をかいていることを思い出した。
近すぎる距離にいるキツキを、ほんの少しだけ押し返す。
「それと、近いわ」
「あ! ごめん」
キツキは慌てて手を離した。
レニアは瓶の栓に手をかけ、小さく息を整える。
「……けど、水は受け取っておくわ」
そう言って、レニアは水を一口飲んだあと、また標的の方へ視線を戻す。
「……まだ続けるのか?」
キツキが聞くと、レニアは水の瓶を下ろした。
「ええ。少しだけ」
「無理はするなよ」
「……あなたに言われなくても分かっているわ」
いつもの返しだった。
それでもキツキは、すぐには動かなかった。
レニアも、一度だけキツキを見る。
さっき肩を支えられた時の距離を、思い出したように、ほんの少しだけ視線を外した。
「……早く行きなさい」
「え」
「見られていると、気が散るわ」
「あ、ああ。わかった」
キツキは素直にうなずいた。
レニアに触れた感覚は、まだ指先に残っている。ここで余計なことを言えば、自分でも何を口走るか分からなかった。
だから、少しだけ迷って、それから鍛錬区画を離れた。
足音が遠ざかる。
レニアはしばらくその背中を見ていた。
つい先ほどまでキツキが立っていた場所から、少しだけ熱が引いたような気がした。
それが鍛錬の熱なのか、別の何かなのかは分からない。
レニアはすぐに視線を戻して、掌を上げる。
細い炎が灯った。
いつもなら、その瞬間に指先の奥から震えが戻ってくる。息が浅くなり、足に力が入る。
けれど、その時は違った。
さっきまでの震えは、なぜか戻ってこなかった。
レニアは炎を見つめたまま、わずかに目を細める。
一つの考えが、頭の端に触れた。
けれど、すぐに首を横に振る。
「……まさかね」
小さく呟いて、レニアはもう一度、炎を標的へ向けた。
明日の班別実技演習は、もう目前だった。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
基本、毎日2話更新です!
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