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第34話 同じ場所から

 翌朝、教室に入ったキツキは、いつもより少しだけ足を止めた。


 窓際の席に、レニアがいた。


 すでに席についていて、机の上に広げた紙へ視線を落としている。銀色の髪が朝の光を受け、肩のあたりで静かに揺れていた。


 昨日の夜のことを思い出しても、もう胸は変な跳ね方をしなかった。


 勝手に期待していたものとは違ったけれど、それでも、レニアは自分の弱さを少しだけ見せてくれた。


 何も進まなかったわけではない。


 たぶん、別のところへ進んだのだ。


 そう思うと、少しだけ足が軽くなった。


 キツキは迷ったあと、レニアのすぐ隣ではなく、少し近い席へ向かった。


「おはよう、レニア」


 声をかけると、レニアが顔を上げた。


「ええ。おはよう」


 短い返事だった。


 それだけだったのに、拒まれなかったことに、少しだけ息がしやすくなる。


 キツキは席に座り、鞄を下ろした。


 その少しあとで、教室の入口から明るい声が聞こえた。


「おはよー。みんな朝から真面目だねー」


 エリルだった。


 キュルを連れて、いつものように軽く手を振りながら教室に入ってくる。何人かのクラスメイトに声をかけ、それから自然な足取りでキツキの後ろの席へ回った。


 椅子を引く音がする。


「おめでとう、キツキ」


 背後から言われて、キツキは振り返った。


「ん? 何が?」


「さあ。なんだろうね」


 エリルは楽しそうに笑った。


「いや、今おめでとうって言ったよな」


「言ったね」


「何のことだよ」


「すぐに分かるんじゃない?」


 キツキは眉を寄せた。


 分かる、という言い方は、何も知らない者のそれではなかった。


「エリル」


 レニアが、机の上の紙から視線を上げる。


「あなた、何か知っているの?」


「どうだろ」


 エリルは頬杖をつき、少しだけ首を傾けた。


「少なくとも、私から言うことじゃないかなぁ」


 その隣で、キュルが静かに席についた。


 彼女はエリルを一度だけ見て、それから何も言わずに机の上へ本を置く。


 キツキは小さく息を吐いた。


 エリルがよく分からないのは、いつものことだ。だから、今は深く考えないことにした。


 ちょうどその時、教室のざわめきが少しだけ薄くなった。


 入口に、ガルドが立っていた。


 特に声を張ったわけではない。けれど、教室の空気は自然とそちらへ向いた。何人かの生徒が姿勢を正し、机の上に出していた本を閉じる。


 ガルドは教壇まで歩き、教室を見渡した。


「授業の前に、いくつか伝えることがある」


 低い声だった。


 キツキは、なんとなく背筋を伸ばした。


 ガルドの視線が、そこで止まる。


「キツキ」


「は、はい」


 名前を呼ばれた瞬間、教室の中の視線がいくつかこちらへ集まった。


 キツキは立つべきか迷ったが、ガルドが片手で制した。


「そのままでいい」


「あ、はい」


「仮配属の評価確認が終わった。お前のSクラス仮配属は、今日付で解除される」


 胸の奥が、一瞬だけ冷えた。


 解除。


 その言葉だけが先に耳に残る。


 けれど、ガルドは続けた。


「以後、キツキは正式にSクラス所属とする」


 教室の空気が、小さく揺れた。


 誰かが息を呑む音がした。


 短いざわめきが、机の間を渡っていく。


 仮が外れたのか、と呟く声があった。何の評価だと言いたげに眉を寄せる生徒もいた。


 キツキ自身も、たぶん似たような顔をしていたと思う。


「……正式に」


 自分の声が、少し遅れてこぼれた。


「そうだ」


 ガルドは短くうなずいた。


「ただし、勘違いはするな。課題が消えたわけではない。むしろ、ここからが本番だ」


「はい」


 返事は、思ったより素直に出た。


 嬉しい、より先に、足元を確かめたくなるような感覚があった。


「続ける」


 ガルドは教室全体へ視線を戻した。


「実践訓練場の一部安全確認が完了した。近く、1年Sクラスの班別実技演習を再開する」


 実践訓練場、という言葉に、キツキの指先が少しだけ固まった。


 けれど、ガルドの話はそのまま続いていく。


「班はこちらで決める。仲の良い者同士で固まる授業ではない。前衛、後衛、支援、相性。そういうものを見て組む」


 キツキは、思わず息を止めた。


 正式にSクラスになった。


 その実感が胸に落ちるより早く、次の予定が積まれていく。


「それに先立ち、今日の授業は予定を変更する」


 ガルドの声に、教室のざわめきが少しだけ引いた。


「この後、訓練区画へ移動し、適性確認を行う。班を組む前に、今のお前たちがどこに立っているかを見る」


 そこで、隣の気配が少しだけ変わった。


 レニアが、机の上の紙から完全に目を離していた。


 姿勢はいつも通り整っているが、その目だけは、さっきまでとは違う場所を見ている。


「……ちょうどいいわ」


 小さな声だった。


 キツキが横を見る。


 昨日の夜の言葉が、少しだけ頭をよぎった。


「ちょうどいいって、何が?」


 キツキが小声で聞くと、レニアは視線を前に向けたまま答えた。


「こっちの話よ」


 それ以上は言わなかった。


 けれど、その横顔は、どこか静かに燃えているように見えた。


「各自、準備しろ。5分後に移動する」


 その一言で、教室の空気がまた変わった。


 椅子を引く音が、あちこちで鳴る。机の上の本が閉じられ、鞄の留め具が鳴り、さっきまでのざわめきが、今度は移動のための音に変わっていく。


 正式所属。


 班別実技演習。


 適性確認。


 言葉だけなら、どれも理解できる。


 けれど、それらが全部自分に向いているのだと思うと、キツキは少しだけ立ち上がるのが遅れた。


「キツキ」


 声をかけられて顔を上げる。


 ブロムがこちらを見ていた。


 いつものようにまっすぐで、余計な含みのない目だった。


「おめでとう、キツキ。君が逃げずに積み上げてきた結果だと思う」


 その言葉は、席を立つ生徒たちの音の中でも、はっきり届いた。


「お、おう。ありがと」


 キツキは少し遅れて返した。


 うまく笑えたかは分からない。けれど、ブロムのことだから、きっと本心で言ってくれているのだろう。


「これで正式に同じクラスだね」


「今までも同じ教室にはいたけどな」


「でも、意味は少し違うだろう?」


 ブロムが穏やかに言う。


 キツキは、そこでようやく小さく息を吐いた。


「……まあ、そうだな」


 仮ではない。借り物でもない。ここにいていいと、少なくとも学院からは認められた。


 それだけなら、たぶんここまで胸は熱くならなかった。


 キツキが仮配属のままでいたくなかった理由は、もう少し単純で、もう少し情けない。


 レニアのそばにいても迷惑にならないように、隣に並ぶにはまだ遠くても、せめて同じ場所に立てるように。


 そのために、正式に認められたかった。


「浮かれてばかりもいられないわよ」


 近くから、レニアの声がした。


 見ると、レニアはもう席を立っていた。


 いつも通りの顔で、けれど目だけはまっすぐ前を向いている。


「班別実技演習が始まるなら、今まで以上に準備が必要になるわ」


「分かってる」


「ならいいわ」


 短いやり取りだったが、その声は冷たくなかった。


 仮配属の時から、レニアはキツキを遠ざけたりしなかった。


 それどころか、勝手にこちらが距離を置こうとした時には、ちゃんと止めてくれた。


 気にしなくていいと、そう言ってくれた。


 それでも今は、前より少しだけ胸を張って、その近くにいられる気がした。


「……でも、今だけはちょっと浮かれてもいいだろ」


 キツキが言うと、レニアは一瞬だけ目を細めた。


「訓練区画に着くまでなら」


「短くないか?」


「十分でしょう」


 その返事に、キツキの口元が緩んだ。


 教室の後ろで、エリルも席を立つ。


 楽しそうに笑ってはいる。けれど、その目はキツキたちだけに留まっていなかった。


 レニアの反応。ブロムの言葉。キツキの遅れた立ち上がり。それから、正式所属という言葉に揺れた教室の空気。


 エリルは歩き出す前に、ほんの少しだけ目を細めた。


 入学名簿に、キツキという名前はあった。


 平民籍。孤児出身。家名なし。それだけなら、珍しい話ではない。


 けれど、エリルが事前に拾っていた情報の中に、その名前の中身はほとんどなかった。


 それなのに今は、レニアの視線を変え、ブロムから祝福の言葉を受け、学院の手続きで正式な席を得ている。


 中身の薄かった名前が、確かな輪郭を持つ名前たちの動きを少しずつ変えている。


 エリルは細めた目を戻し、いつもの笑みのまま、何も言わずに歩き出した。


 キュルは小さくあくびをひとつ噛み殺してから、何事もなかったようにその横へ並ぶ。


 キツキは、その視線には気づかないまま、鞄を持って席を立った。


 教室を出ると、廊下にはすでにSクラスの生徒たちの足音が流れていた。


 キツキもその流れに混じり、訓練区画へ向かう。


 正式にSクラス生になった。仮ではなく、借り物でもなく、ようやく同じ場所から始められる。


 レニアやブロムたちが立っている場所は、まだずっと高い。


 それでも、そこへ向かう列の中に、自分もいる。


 怖さが完全に消えたわけではない。


 けれど、今日はそれより少しだけ、嬉しさの方が勝っていた。


 そして、そこでキツキは気づいた。


 班別実技演習。適性確認。前衛、後衛、支援。


 どこに立つにしても、今の自分には大きく足りないものがある。


 防ぐことは、少しだけできた。けれど、それ以外はどうだ。


 誰かと並んで戦うにしても、前に立つにしても、後ろから支えるにしても、たぶん避けては通れない。


 攻撃魔法。


 キツキは、廊下を歩きながら、ゆっくりと視線を落とした。


「……攻撃魔法、1つも知らないかも」


 小さくこぼれた声は、訓練区画へ向かう足音の中に紛れた。

ここまで読んでくださってありがとうございます!


基本、毎日2話更新です!


続きが気になる、また読みに来てもいい、と思っていただけましたら、

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