第33話 小さな涙の粒
その頃、西区の古びたバーには、客が二人しかいなかった。
薄い魔法灯の下で、店主が紙束をカウンターに置く。酒瓶の並ぶ棚は古く、壁の木目には長い年月の傷が残っていた。けれど、その夜、エリルは店の古さにも酒の匂いにも目を向けなかった。
「これで全部?」
紙束に指を置いたまま、エリルが聞いた。
「今のところはな」
店主は短く答え、それ以上は何も言わなかった。
少し離れた席では、キュルが両手でカップを持ち、湯気の立つ飲み物を少しずつ口に運んでいる。視線だけは、エリルの手元に向いていた。
エリルは一枚ずつ紙をめくった。
名前のない依頼。消えた仲介人。接触先の候補。どれも決定的ではない。けれど、並べて見ると、同じ方向を指している。
エリルの指が、一つの名前の上で止まった。
ブロム・アステリオン。
「勇者候補に近づこうとしてる」
キュルがカップを置いた。
「……ブロム?」
「うん。まだ確証はないけどね」
エリルはそう言った。
軽い言い方のはずなのに、そこにいつもの遊びはなかった。
紙の端を押さえる指に、わずかに力が入る。
店主はそれを見ても、何も聞かなかった。
「でも、いよいよ本格的に動き出したのかもしれない」
エリルは紙から目を離さずに言った。
「クルエルヴェール」
その名を口にした時、いつもならエリルの口元にある薄い笑みは、どこにも見えなかった。
◇
「少し、話があるの」
レニアの言葉のあと、キツキはすぐに返事ができなかった。
心臓が、さっきまでとは違う音を立てている気がする。
レニアは、まだこちらを見ていない。街の灯りを横顔に受けたまま、何かを選ぶように、少しだけ唇を結んでいた。
風のせいかもしれない。
灯りのせいかもしれない。
けれど、レニアの頬が、ほんの少し赤く見えた。
「えっと」
キツキは声を出した。
思っていたより、変な声だった。
「な、何?」
聞き返した瞬間、自分でも分かるくらい、余計な期待が混じっていた。
レニアはようやくこちらを向いた。
その顔は真剣だった。
いつもの無駄のない表情とは違う。何かを決めて、ここまで来た人の顔に見えた。
レニアは、キツキをまっすぐ見ていた。
「あなたを見ていたら、黙っていられなくなったの」
「……え」
キツキの中で、何かがさらに跳ねた。
さっきまで勝手に膨らませていた期待が、急に輪郭を持ち始める。
本当に、そういう話なのかもしれない。そう思ってしまうくらい、レニアの声は真剣だった。
レニアはそんなキツキの内側など知らないまま、言葉を続ける。
「今日の訓練場で、あなたは前に出たわ」
「……あ」
前に出た、という言葉が、今のキツキには妙に違う意味を持って聞こえた。
勇気を出して、何かを伝える。
そんなふうに、勝手につながってしまう。
レニアは視線をそらさない。
「あの時、怖くなかったわけではないでしょう」
キツキは、すぐには答えられなかった。
胸の奥は、まだ別のことでうるさかった。
だから、少しだけ格好をつけた。
「……まあ、少しは」
レニアの目が、静かに細くなる。
「少し?」
「……いや、かなり」
言い直すと、思っていたより簡単に本音が出た。
「それでも、あなたは前に出たわ」
レニアは静かに言った。
「逃げようと思えば、逃げられたはずよ。失敗したと言えば、それで済んだかもしれない。途中で無理だと言うことだって、できたかもしれない」
「それは……」
キツキは言いかけて、止まった。
たぶん、できた。
怖かった。逃げたかった。自分がやらなくてもいい理由なら、いくつかは作れた。
けれど、そうしなかった。
今になって思い返すと、少しだけ遠いことみたいに感じる。あの時の自分は、怖がりながら、それでも壁を出していた。
レニアは、キツキの返事を急がなかった。
ただ、夜の風の中で、まっすぐこちらを見ている。
「あなたは、怖いまま前に出た」
その言葉で、胸の奥にあった期待が、少しだけ別の形へ傾いた。
甘い言葉ではない。
胸が浮くような話でもない。
けれど、軽い話でもなかった。
キツキはそこでようやく、自分が勝手に期待していたものが、少しずつ違う形へ変わっていくのを感じた。
「それを見て、思ったの」
レニアは一度、街の灯りへ視線を戻した。
頬に残っていた赤みは、灯りのせいだったのかもしれない。
それでも、声だけははっきりしていた。
「私も、このままではいられないって」
キツキは、すぐには何も言えなかった。
胸の奥で勝手に膨らんでいたものが、少しだけ行き場を失う。
けれど、レニアの声があまりにも真剣で、それを残念だと思うことさえ、少し違う気がした。
レニアは一度、口を開きかけた。
けれど、すぐには続かなかった。
指先が、ゆっくりと手のひらの内側へ折り込まれる。
「私にも、避けているものがあるわ」
その声は、普段より少し低く聞こえた。
レニアは街の灯りを見たまま、続ける。
「今までは、それでもよかった。少なくとも、そう思うことにしていた」
その横顔は静かだった。
けれど、いつものように何でもない顔ではなかった。
「でも、今日あなたを見て、分からなくなったの」
「俺を?」
「ええ」
レニアはうなずいた。
「あなたは怖くても前に出た。それなのに、私は目を逸らしたままでいいのかって」
風が通り過ぎる。
キツキは、返す言葉を探した。
レニアが何から目を逸らしているのか、キツキには分からない。
だからこそ、簡単に頑張れとは言えなかった。
レニアは、その沈黙を責めなかった。
「だから、しばらくは私も、自分の鍛錬に向き合うつもり」
そこで、レニアはようやくキツキを見た。
「今までのように、あなたの鍛錬に付き合える機会は減ると思う」
「……そっか」
思っていたより、声が小さくなった。
恋愛の話ではなかった。それはもう分かっている。
けれど、そのことよりも、今の言葉の方が少し胸に来た。
今まで通りではなくなる。
レニアと訓練場で向かい合う時間が、減る。
そう思っただけで、胸の奥が少し沈んだ。
レニアは、その反応を見て、わずかに眉を動かした。
「勘違いしないで」
「え?」
「あなたの鍛錬を、もう見ないと言ったわけではないわ」
レニアの声は、いつものように端的だった。
けれど、少しだけ急いでいるようにも聞こえた。
「ただ、私も自分の鍛錬に時間を使わなければいけない。それだけよ」
「……ああ」
キツキは息を吐いた。
胸の奥に落ちていたものが、少しだけ軽くなる。
レニアが自分の反応を見て、言葉を足してくれたのだと分かった。
それが、思っていたより嬉しかった。
「なんだ」
「……なによ」
「いや、もう必要なくなったのかと思った」
口にしてから、少しだけ恥ずかしくなった。
レニアの眉が、わずかに寄る。
「そんな簡単に、あなたを切り離すつもりはないわ」
「……はい」
「勝手に終わったことにしないで」
「すみません」
謝りながら、キツキは少しだけ笑ってしまった。
怒られている。
けれど、さっきよりずっと息がしやすかった。
レニアはしばらくキツキを見ていた。
それから、小さく息を吐いて、腕を組む。
「まったく」
呆れたように言って、少しだけ横を向いた。
けれど、その横顔は怒っているというより、調子を崩されたように見えた。
少しの沈黙のあと、レニアはまたキツキを見た。
「あなたが前に出たから、私も前に出る」
レニアは言った。
「それだけの話よ」
「それだけって」
キツキは思わず聞き返した。
それだけ、で済ませるには、レニアの声は真剣すぎた。
レニアは少しだけ視線を落とす。
「簡単なことだとは思っていないわ」
その手が、また少し握られる。
「だからといって、ずっと避けていていい理由にはならないでしょう」
キツキは、その言葉に何も返せなかった。
何を避けてきたのかも、どれくらい怖いことなのかも、まだ分からない。
それでも、レニアが今、本気でそこへ向かおうとしていることだけは分かった。
だから、軽くうなずくことはできなかった。
レニアは顔を上げる。
「だから、私は進むわ」
レニアの話は告白ではあったが、キツキが勝手に期待していたものとは違っていた。
恋愛の話ではなかった。
それでも、レニアは自分の弱さを少しだけ見せてくれた。
信頼されたのだと決めつけるには早い。
けれど、それを自分に話してくれたことが、嬉しかった。
「……そっか」
キツキはようやく言った。
「うん。分かった」
レニアは少しだけ目を細める。
「本当に分かったの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「いや、全部は分かってない。何を避けてるのかも、何が怖いのかも、俺には分からないし」
キツキは一度、街の灯りを見た。
それから、もう一度レニアを見る。
「でも、レニアが本気なのは分かった」
「……そう」
レニアは短く返した。
それだけだった。
けれど、その声は思っていたよりやわらかかった。
レニアは一度だけ視線を落とし、すぐに何でもない顔をする。
隠したつもりなのだろう。
でも、キツキには、少しだけ嬉しそうに見えた。
「じゃあ」
キツキは少しだけ考えてから言った。
「俺もちゃんと進まないとな」
レニアがこちらを見る。
「あなたはもう進んでいるでしょう」
「いや、そういうかっこいい意味じゃなくて」
「……どういうこと?」
「レニアに置いていかれないように、って意味」
言ってから、少しだけ照れくさくなった。
けれど、今度はごまかさなかった。
レニアは一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。
「よく分からないけど、勝手に競争にしないで」
「でも、負けたくないから」
「何に?」
「何にだろうな」
「……ごまかしたわね」
「俺だって分かんないよ。だけど、たぶん大事なやつ」
レニアは、疑うような目でキツキをジッと見た。
キツキは、答えの代わりに街の灯りを見る。
しばらくして、レニアは小さく息を吐いた。
「……まあいいわ」
それ以上は聞かなかった。
少しの間、二人は並んで街の灯りを見ていた。
高級街の夜は静かだった。
石畳には魔法灯の光が落ち、二つの影が並んで伸びている。
片方はまっすぐに立ち、もう片方はその隣で、どこか落ち着かないように揺れていた。
夜風は冷たい。
それでも、さっき店を出た時とは少し違って感じた。
「戻るわよ」
レニアが言った。
「ああ」
キツキはうなずく。
恋愛の話では、なかった。
その事実だけが、少し遅れて胸の奥に落ちてくる。
――そううまくはいかないよな。
もしこの瞬間が一枚の絵になるなら、夜空と石畳ばかりの静かな絵の端に、小さな涙の粒がひとつだけ描き足されていたと思う。
もちろん、実際には泣いていない。
断じて泣いてはいない。
ただ、キツキの足取りだけが、ほんの少し遅れた。
馬車の待つ方へ歩き出したレニアの背中を、呆然と見つめた。その背中は、いつも通りまっすぐだった。
手を伸ばせば届かない距離なのに、胸の奥では、少しだけ隣に近づいた気がした。
「……やっぱ好きだなぁ」
小さくこぼれた声は、誰にも届かないまま、夜の街に消えた。




