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第33話 小さな涙の粒

 その頃、西区の古びたバーには、客が二人しかいなかった。


 薄い魔法灯の下で、店主が紙束をカウンターに置く。酒瓶の並ぶ棚は古く、壁の木目には長い年月の傷が残っていた。けれど、その夜、エリルは店の古さにも酒の匂いにも目を向けなかった。


「これで全部?」


 紙束に指を置いたまま、エリルが聞いた。


「今のところはな」


 店主は短く答え、それ以上は何も言わなかった。


 少し離れた席では、キュルが両手でカップを持ち、湯気の立つ飲み物を少しずつ口に運んでいる。視線だけは、エリルの手元に向いていた。


 エリルは一枚ずつ紙をめくった。


 名前のない依頼。消えた仲介人。接触先の候補。どれも決定的ではない。けれど、並べて見ると、同じ方向を指している。


 エリルの指が、一つの名前の上で止まった。


 ブロム・アステリオン。


「勇者候補に近づこうとしてる」


 キュルがカップを置いた。


「……ブロム?」


「うん。まだ確証はないけどね」


 エリルはそう言った。


 軽い言い方のはずなのに、そこにいつもの遊びはなかった。


 紙の端を押さえる指に、わずかに力が入る。


 店主はそれを見ても、何も聞かなかった。


「でも、いよいよ本格的に動き出したのかもしれない」


 エリルは紙から目を離さずに言った。


「クルエルヴェール」


 その名を口にした時、いつもならエリルの口元にある薄い笑みは、どこにも見えなかった。



「少し、話があるの」


 レニアの言葉のあと、キツキはすぐに返事ができなかった。


 心臓が、さっきまでとは違う音を立てている気がする。


 レニアは、まだこちらを見ていない。街の灯りを横顔に受けたまま、何かを選ぶように、少しだけ唇を結んでいた。


 風のせいかもしれない。


 灯りのせいかもしれない。


 けれど、レニアの頬が、ほんの少し赤く見えた。


「えっと」


 キツキは声を出した。


 思っていたより、変な声だった。


「な、何?」


 聞き返した瞬間、自分でも分かるくらい、余計な期待が混じっていた。


 レニアはようやくこちらを向いた。


 その顔は真剣だった。


 いつもの無駄のない表情とは違う。何かを決めて、ここまで来た人の顔に見えた。


 レニアは、キツキをまっすぐ見ていた。


「あなたを見ていたら、黙っていられなくなったの」


「……え」


 キツキの中で、何かがさらに跳ねた。


 さっきまで勝手に膨らませていた期待が、急に輪郭を持ち始める。


 本当に、そういう話なのかもしれない。そう思ってしまうくらい、レニアの声は真剣だった。


 レニアはそんなキツキの内側など知らないまま、言葉を続ける。


「今日の訓練場で、あなたは前に出たわ」


「……あ」


 前に出た、という言葉が、今のキツキには妙に違う意味を持って聞こえた。


 勇気を出して、何かを伝える。


 そんなふうに、勝手につながってしまう。


 レニアは視線をそらさない。


「あの時、怖くなかったわけではないでしょう」


 キツキは、すぐには答えられなかった。


 胸の奥は、まだ別のことでうるさかった。


 だから、少しだけ格好をつけた。


「……まあ、少しは」


 レニアの目が、静かに細くなる。


「少し?」


「……いや、かなり」


 言い直すと、思っていたより簡単に本音が出た。


「それでも、あなたは前に出たわ」


 レニアは静かに言った。


「逃げようと思えば、逃げられたはずよ。失敗したと言えば、それで済んだかもしれない。途中で無理だと言うことだって、できたかもしれない」


「それは……」


 キツキは言いかけて、止まった。


 たぶん、できた。


 怖かった。逃げたかった。自分がやらなくてもいい理由なら、いくつかは作れた。


 けれど、そうしなかった。


 今になって思い返すと、少しだけ遠いことみたいに感じる。あの時の自分は、怖がりながら、それでも壁を出していた。


 レニアは、キツキの返事を急がなかった。


 ただ、夜の風の中で、まっすぐこちらを見ている。


「あなたは、怖いまま前に出た」


 その言葉で、胸の奥にあった期待が、少しだけ別の形へ傾いた。


 甘い言葉ではない。


 胸が浮くような話でもない。


 けれど、軽い話でもなかった。


 キツキはそこでようやく、自分が勝手に期待していたものが、少しずつ違う形へ変わっていくのを感じた。


「それを見て、思ったの」


 レニアは一度、街の灯りへ視線を戻した。


 頬に残っていた赤みは、灯りのせいだったのかもしれない。


 それでも、声だけははっきりしていた。


「私も、このままではいられないって」


 キツキは、すぐには何も言えなかった。


 胸の奥で勝手に膨らんでいたものが、少しだけ行き場を失う。


 けれど、レニアの声があまりにも真剣で、それを残念だと思うことさえ、少し違う気がした。


 レニアは一度、口を開きかけた。


 けれど、すぐには続かなかった。


 指先が、ゆっくりと手のひらの内側へ折り込まれる。


「私にも、避けているものがあるわ」


 その声は、普段より少し低く聞こえた。


 レニアは街の灯りを見たまま、続ける。


「今までは、それでもよかった。少なくとも、そう思うことにしていた」


 その横顔は静かだった。


 けれど、いつものように何でもない顔ではなかった。


「でも、今日あなたを見て、分からなくなったの」


「俺を?」


「ええ」


 レニアはうなずいた。


「あなたは怖くても前に出た。それなのに、私は目を逸らしたままでいいのかって」


 風が通り過ぎる。


 キツキは、返す言葉を探した。


 レニアが何から目を逸らしているのか、キツキには分からない。


 だからこそ、簡単に頑張れとは言えなかった。


 レニアは、その沈黙を責めなかった。


「だから、しばらくは私も、自分の鍛錬に向き合うつもり」


 そこで、レニアはようやくキツキを見た。


「今までのように、あなたの鍛錬に付き合える機会は減ると思う」


「……そっか」


 思っていたより、声が小さくなった。


 恋愛の話ではなかった。それはもう分かっている。


 けれど、そのことよりも、今の言葉の方が少し胸に来た。


 今まで通りではなくなる。


 レニアと訓練場で向かい合う時間が、減る。


 そう思っただけで、胸の奥が少し沈んだ。


 レニアは、その反応を見て、わずかに眉を動かした。


「勘違いしないで」


「え?」


「あなたの鍛錬を、もう見ないと言ったわけではないわ」


 レニアの声は、いつものように端的だった。


 けれど、少しだけ急いでいるようにも聞こえた。


「ただ、私も自分の鍛錬に時間を使わなければいけない。それだけよ」


「……ああ」


 キツキは息を吐いた。


 胸の奥に落ちていたものが、少しだけ軽くなる。


 レニアが自分の反応を見て、言葉を足してくれたのだと分かった。


 それが、思っていたより嬉しかった。


「なんだ」


「……なによ」


「いや、もう必要なくなったのかと思った」


 口にしてから、少しだけ恥ずかしくなった。


 レニアの眉が、わずかに寄る。


「そんな簡単に、あなたを切り離すつもりはないわ」


「……はい」


「勝手に終わったことにしないで」


「すみません」


 謝りながら、キツキは少しだけ笑ってしまった。


 怒られている。


 けれど、さっきよりずっと息がしやすかった。


 レニアはしばらくキツキを見ていた。


 それから、小さく息を吐いて、腕を組む。


「まったく」


 呆れたように言って、少しだけ横を向いた。


 けれど、その横顔は怒っているというより、調子を崩されたように見えた。


 少しの沈黙のあと、レニアはまたキツキを見た。


「あなたが前に出たから、私も前に出る」


 レニアは言った。


「それだけの話よ」


「それだけって」


 キツキは思わず聞き返した。


 それだけ、で済ませるには、レニアの声は真剣すぎた。


 レニアは少しだけ視線を落とす。


「簡単なことだとは思っていないわ」


 その手が、また少し握られる。


「だからといって、ずっと避けていていい理由にはならないでしょう」


 キツキは、その言葉に何も返せなかった。


 何を避けてきたのかも、どれくらい怖いことなのかも、まだ分からない。


 それでも、レニアが今、本気でそこへ向かおうとしていることだけは分かった。


 だから、軽くうなずくことはできなかった。


 レニアは顔を上げる。


「だから、私は進むわ」


 レニアの話は告白ではあったが、キツキが勝手に期待していたものとは違っていた。


 恋愛の話ではなかった。


 それでも、レニアは自分の弱さを少しだけ見せてくれた。


 信頼されたのだと決めつけるには早い。


 けれど、それを自分に話してくれたことが、嬉しかった。


「……そっか」


 キツキはようやく言った。


「うん。分かった」


 レニアは少しだけ目を細める。


「本当に分かったの?」


「たぶん」


「たぶん?」


「いや、全部は分かってない。何を避けてるのかも、何が怖いのかも、俺には分からないし」


 キツキは一度、街の灯りを見た。


 それから、もう一度レニアを見る。


「でも、レニアが本気なのは分かった」


「……そう」


 レニアは短く返した。


 それだけだった。


 けれど、その声は思っていたよりやわらかかった。


 レニアは一度だけ視線を落とし、すぐに何でもない顔をする。


 隠したつもりなのだろう。


 でも、キツキには、少しだけ嬉しそうに見えた。


「じゃあ」


 キツキは少しだけ考えてから言った。


「俺もちゃんと進まないとな」


 レニアがこちらを見る。


「あなたはもう進んでいるでしょう」


「いや、そういうかっこいい意味じゃなくて」


「……どういうこと?」


「レニアに置いていかれないように、って意味」


 言ってから、少しだけ照れくさくなった。


 けれど、今度はごまかさなかった。


 レニアは一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。


「よく分からないけど、勝手に競争にしないで」


「でも、負けたくないから」


「何に?」


「何にだろうな」


「……ごまかしたわね」


「俺だって分かんないよ。だけど、たぶん大事なやつ」


 レニアは、疑うような目でキツキをジッと見た。


 キツキは、答えの代わりに街の灯りを見る。


 しばらくして、レニアは小さく息を吐いた。


「……まあいいわ」


 それ以上は聞かなかった。


 少しの間、二人は並んで街の灯りを見ていた。


 高級街の夜は静かだった。

 

 石畳には魔法灯の光が落ち、二つの影が並んで伸びている。


 片方はまっすぐに立ち、もう片方はその隣で、どこか落ち着かないように揺れていた。


 夜風は冷たい。


 それでも、さっき店を出た時とは少し違って感じた。


「戻るわよ」


 レニアが言った。


「ああ」


 キツキはうなずく。


 恋愛の話では、なかった。


 その事実だけが、少し遅れて胸の奥に落ちてくる。


 ――そううまくはいかないよな。


 もしこの瞬間が一枚の絵になるなら、夜空と石畳ばかりの静かな絵の端に、小さな涙の粒がひとつだけ描き足されていたと思う。


 もちろん、実際には泣いていない。


 断じて泣いてはいない。


 ただ、キツキの足取りだけが、ほんの少し遅れた。


 馬車の待つ方へ歩き出したレニアの背中を、呆然と見つめた。その背中は、いつも通りまっすぐだった。


 手を伸ばせば届かない距離なのに、胸の奥では、少しだけ隣に近づいた気がした。


「……やっぱ好きだなぁ」


 小さくこぼれた声は、誰にも届かないまま、夜の街に消えた。

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