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第32話 少し、話があるの

 歩いて行けない距離ではなかった。


 けれど、レニアは迷わず学院の門の近くで足を止め、控えていた者に短く何かを告げた。しばらくして、黒塗りの馬車が音も少なく近づいてくる。


 キツキにとって、この世界で初めて乗る馬車だった。


 しかも、それは庶民が荷物と一緒に揺られていくようなものではない。扉の縁には細い銀の装飾があり、座席は深い色の布で張られている。腰を下ろすと、思っていたよりずっと沈んだ。


 向かいに座るレニアは、当然のような顔をしていた。


「……これ、いくらかかるんだ?」


「何を言っているの?」


「え?」


「私の馬車よ」


「あ。なるほど」


 なるほど、で済ませていい話なのかは分からなかった。


 馬車は学院から少し離れた高級街へ入り、大きな通りから一本奥まった場所で止まった。


 白い石壁の一階に、細い魔法灯がひとつ灯っているだけの入口だった。大きな看板もなく、知らなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうだった。


 けれど、レニアは迷わなかった。


 馬車が止まると、扉の外にいた給仕が静かに頭を下げる。レニアが降りるのに合わせて、入口の扉が内側から開いた。


 キツキは一拍遅れて馬車を降りた。


 足を下ろした石畳まで、なんとなく高そうに見える。


「行くわよ」


「あ、はい」


 レニアは当然のように店へ入っていく。


 キツキもその後に続いた。


 中に入ると、外の通りの音が少し遠くなった。


 白とベージュで整えられた店内には、魔法灯と小さなキャンドルの光が落ちていた。磨かれた木のテーブルも、布張りの椅子も、近くを通る給仕の足音も静かで、かすかにハーブの香りが混じっている。


 レニアはその空気の中で、少しも足を止めなかった。


 案内に出てきた給仕は、レニアの顔を見て、名前を尋ねる前に一礼した。


 それだけで、ここがレニアにとって初めての店ではないことは分かった。


 キツキは、こんな店に入ったことがなかった。この世界に来る前の人生を含めても、ない。


 案内された席は、店の奥まった窓際だった。外から見えにくく、それでいて街の灯りが少しだけ見える。


 レニアは迷わず椅子に腰を下ろした。


 キツキも向かいの席に座る。


 その時点で、背筋を伸ばすべきなのか、普通に座っていいのか、もう分からなくなっていた。


 席についてすぐ、キツキは目の前に並んだ銀器を見下ろした。


 どれをどう使えばいいのか、まったく分からなかった。


 分からないまま動くたびに、レニアが短く教えてくれる。


「それはまだよ」


「あ、はい」


「外側から」


「そ、外側」


「そこまで力を入れなくていいわ」


「入れてるつもりはないんだけどな」


 言いながら、自分でも肩に力が入っているのは分かった。


 向かいのレニアは少しも迷わない。銀器を取る手も、給仕へ礼を返す声も、最初からこの店に馴染んでいる。


 やっぱり王女なんだなと、こういう時に思う。


 そのことを忘れていたわけではない。けれど、同じテーブルで向かい合っていると、自分との差が急に形を持つ。


 それでもレニアは、キツキのぎこちなさを笑わず、ただ、必要な時だけ短く教えてくれた。


 最初の皿が運ばれてきた。


 薄く切られた熟成生ハムの横に、岩塩を振ったメロンが添えられている。砕いた緑の実と細い香草が、皿の上に少しだけ散っていた。


 それは、レニアがこの店でよく選ぶ一品だった。


 レニアは迷わず銀器を取り、生ハムとメロンを小さく合わせて、口に運ぶ。


 その瞬間、レニアの表情がかすかにほころんだ。


 キツキはそれに気づいた。


「それ、好きなのか?」


 聞くと、レニアは手を止めた。


「……どうしてそう思うの」


「いや、今ちょっと嬉しそうだったから」


「そう見えた?」


「少しだけ」


 レニアは一度だけ視線を落とし、それから何でもないことのように言った。


「嫌いではないわ」


「好きって意味だな」


「勝手に言い換えないで」


 そう言いながらも、レニアは否定しきれていなかった。


 キツキも見よう見まねで、生ハムとメロンを合わせる。


 それを口に運ぶまで、レニアは何も言わずにこちらを見ていた。いつものように平然としているようで、視線だけは少しも外れない。


 感想を待っているのだと気づいて、キツキは少しだけ緊張した。


 塩気と甘さが、一緒に広がった。知らない組み合わせなのに、変ではない。むしろ、かなりうまい。


「……これ、すごいな」


「でしょう」


 返事は早かった。その声には、隠す気があまりなさそうな得意げな響きがあった。


 キツキはもう一度皿を見て、それからレニアを見た。


 レニアは何でもないような顔をしている。それが余計に、少しおかしかった。


 そのあとも、皿は静かに運ばれてきた。


 給仕は料理の説明をしてくれたが、キツキの頭に入ったのは半分くらいだった。香草、貝、黄金色の香辛料、南の海。言葉だけなら分かる。けれど、目の前の皿と向かいのレニアを同時に見ると、どちらに意識を向ければいいのか分からなくなる。


 浅い皿に盛られたリゾットは、薄い金色をしていた。


 貝と小さな海老が散り、上から細く削られたレモンの皮が落とされている。湯気に混じって、海の匂いと香草の匂いが立った。


 レニアは給仕の説明を聞き終えると、軽く礼を返した。


 それだけの動きなのに、妙にきれいだった。


 キツキは少し遅れて、自分も頭を下げる。


「そんなに固まらなくてもいいわ」


「……固まってない」


「さっきから返事が遅いけど」


「料理の情報量が多いんだよ」


 言い訳のつもりだったが、半分は本当だった。


 キツキはレニアの手元を見てから、同じように銀器を取る。今度は間違えなかった。たぶん。


 口に運ぶと、思っていたよりもずっと濃い味が広がった。けれど重くはない。貝のうまみと、香草の匂いと、あとからくるレモンの苦みが、順番に舌へ残る。


「……これも、うまいな」


「そう」


 レニアは短く返しただけだった。


 けれど、少しだけ満足そうに見えた。


 キツキはもう一口食べてから、ふと手を止めた。


「今日のこと、まだ変な感じがするよ」


 言ってから、ここでその話をしてよかったのか少し迷った。


 レニアはすぐには答えなかった。リゾットを一口食べ、銀器を皿の端に置いてから、キツキを見る。


「正式な評価はまだよ」


「ああ」


「でも、あの壁はちゃんと間に合っていたわ」


 短い言葉だった。


 それだけで、さっきまで訓練場に置いてきたはずの音が、少しだけ戻ってくる。


 重い音。氷壁に走った白い筋。右手の奥に残った痛み。


 けれど、今はその前に温かい皿があって、向かいにはレニアがいる。


「……うん」


 キツキは、ようやくうなずいた。


 レニアはそれ以上その話を続けず、ただ、次の一口を食べるように、視線で促した。


 キツキはそれに従って、もう一度銀器を取った。


 訓練場の空気は、まだ身体のどこかに残っている。それでも、食事が進むにつれて、キツキの肩から少しずつ力が抜けていった。


 最初は、どの銀器を使うのか。どのタイミングで手を動かすのか。給仕にどう返事をすればいいのか。そんなことばかり気にしていた。


 けれど、皿が変わるたびにレニアが短く教えてくれて、分からないことがあっても大きな失敗にはならないと分かってくると、少しだけ周りを見る余裕ができた。


 そして、その余裕ができたせいで、別のことに気づいてしまった。


 レニアが、あまりにもこの場所に合っている。


 白い皿も、薄く光るグラスも、テーブルに落ちるキャンドルの火も、全部がレニアのために置かれているみたいだった。


 その向かいに自分が座っていることだけが、少しだけ不思議だった。


 場違いなのは分かっている。この席に座っているのが自分でいいのか、まだ少し分からない。


 それでもレニアは、そんなことを気にした様子もなく、同じテーブルの向こうにいた。


 料理が運ばれてくるたびに、皿の色が変わる。香りが変わる。給仕の説明に合わせて、レニアが小さくうなずく。


 そのどれもが、絵になった。


 訓練場で見ていた時のレニアとは違う。けれど、別人というわけでもない。


 背筋は伸びていて、声はいつも通り端的で、表情も大きくは崩れない。なのに、おいしそうに食べる時だけ、ほんのわずかに目元がやわらぐ。


 それを正面から見ている。


 高級街の奥にある、たぶん自分だけでは一生入らなかったような店で、好きな人と向かい合って食事をしている。


 そこまで考えたところで、キツキは急に落ち着かなくなった。


「どうしたの」


 レニアが聞いた。


「いや」


「また何か間違えた?」


「たぶんそれは大丈夫」


「たぶん?」


「今はそこじゃなくて」


 キツキは一度、視線を皿に落とした。


 正面を見続けると、顔に出そうだった。


「……ちょっと、すごいなと思って」


「……料理が?」


「それもあるけど」


 レニアが不思議そうにこちらを見る。


 こんな場所で、こんなふうに好きな人と食事をしていることが、さっきからずっと信じられない。


 そんなことを、その本人に言えるわけがなかった。


「全部、かな」


 結局、キツキはそんな曖昧な言い方をした。


 レニアは少しだけ首を傾けたが、それ以上は追及しなかった。


 ただ、小さく息を吐いて、次の皿へ視線を向ける。


「なら、ちゃんと味わいなさい」


「はい」


 返事をしながら、キツキは思った。今日は、さすがに良いことが起きすぎている。


 そう思っているところに、最後の皿が運ばれてきた。


 赤い柑橘を添えたビターチョコレートのムースだった。


 白い皿の中央に、艶のある濃い色のムースが置かれている。横には赤い果実の煮込みと、細かく砕かれた焼き菓子のようなものが添えられていた。小さな塩の結晶が、魔法灯の光を受けてかすかに光っている。


 給仕の説明は聞こえていた。


 けれど、皿の上の色と、向かいにいるレニアの方が、ずっと強く意識に残った。


 甘い。けれど、苦い。そこに柑橘の酸味が入って、最後に塩が少しだけ残る。


「……これ、すごいな」


「さっきも言っていたわ」


「語彙が追いつかないんだよ」


 キツキがそう言うと、レニアは小さく息を吐いた。


 呆れたようにも聞こえたが、怒ってはいない。


 そのままレニアもムースを口に運ぶ。


 キャンドルの火が、銀色の髪の端を淡く照らしていた。グラスの縁に映った光も、白い皿も、赤い果実の色も、全部がその仕草に合っている。


 どこを切り取っても、絵になりそうだった。


 キツキは、少しだけ視線をそらした。見ていないと惜しい気がするが、見続けていると落ち着かない。


 手元のムースをもう一口すくって、口に運ぶ。


 甘さと苦みが舌に残る。


 異世界に来てから、怖いことも、分からないことも、逃げ出したくなることもあった。


 今日だって、少し前までは魔力弾を前にしていた。


 それなのに今は、こんな店で、レニアと向かい合ってデザートを食べている。


 さすがに、幸せすぎるのではないか。


 そんなことを考えたところで、給仕が静かに近づいてきた。


 給仕は小さな帳面のようなものを手に、レニアのそばで足を止めた。声をかけず、一礼して差し出す。


 キツキは一瞬で現実に戻った。


 支払いだ。


 帳面の端に並んだ数字の一部がチラッと見えると、キツキは固まった。


 さっきまで浮いていた気分が、音を立てずに落ちていく。


 レニアは、そんなキツキを不思議なものを見るような目で一度見た。


 それから何事もなかったように帳面を取る。中身を確認し、給仕から差し出された細い筆を受け取った。


「いや、待って」


「何を?」


「その、支払い。俺が出すよ」


 キツキはそこで、少しだけ背筋を伸ばした。


 レニアは筆を持ったまま、静かにこちらを見る。


「あなたに払えるの?」


「……」


 言葉が止まった。


 払える、とは言えなかった。


 さっき見えた数字の一部だけで、もう無理だと分かっていた。


「……無理です」


 伸ばしていた背筋が、そこで小さく崩れた。


「そう」


 レニアはそれ以上何も言わず、帳面に署名した。


 あまりにも自然な動きだった。


 キツキがもう一度何か言うより先に、給仕は静かに帳面を受け取り、深く一礼して下がっていく。


「……すみません」


 情けなさと、ありがたさが同時に来た。


 どちらか片方なら、もう少し簡単だった気がする。


「いいわ。私が誘ったんだもの」


「でも」


「今日くらいは、素直に受け取っておきなさい」


 その声はいつものように端的だったが、突き放す響きではなかった。


 レニアは席を立った。


 キツキは少しだけ口を閉じて、それからうなずいた。


「……ごちそうさまです」


「ええ」


 レニアは短く返して、入口の方へ歩き出した。


 キツキも慌てて席を立つ。


 店を出ると、頬に当たる風が冷たかった。


 さっきまでの魔法灯とキャンドルの明るさが、扉の向こうに遠ざかっていく。通りには人の声もあるはずなのに、店の中にいた時より、夜の静けさの方が近く感じた。


 馬車は少し離れた場所で待っていた。


 キツキは自然とそちらへ足を向けかける。


 けれど、レニアは馬車へ向かわなかった。


「レニア?」


「少し歩くわ」


 そう言って、レニアは大通りとは反対の方へ歩き出した。


 キツキは一拍遅れて、その後を追う。


 石畳に靴音が落ちる。


 高級街の奥は、学院の近くとは空気が違っていた。建物の窓には控えめな灯りがともり、通り沿いの魔法灯も、明るすぎないように絞られている。騒がしくはない。けれど、どこか人の気配はある。


 キツキは隣を歩くレニアを見た。


 食事の時と同じように、背筋は伸びている。けれど、さっきまでの得意げな響きは、もう声にも表情にも残っていなかった。


 レニアの唇が、一度だけ小さく動いた。


 けれど、言葉にはならない。


 何かを言うタイミングを探しているように、キツキには見えた。


 キツキは口を開きかけて、少し迷った。


 自分から何か言った方がいいのかもしれない。けれど、先に口を開いたら、今の空気を壊してしまう気がした。


 レニアは何も言わない。


 ただ、歩く速度だけが、いつもより少しだけ遅かった。


 その沈黙のせいで、キツキの中にあった浮つきが、妙な方向へ形を変え始める。


 食事のあと。


 夜の高級街。


 馬車には乗らず、二人で歩いている。


 その並びに、キツキにも思い当たるものはあった。


 いや、思い当たってはいけない気もした。


 けれど、期待するなという方が無理だった。


 レニアが足を止めた。


 通りの先、少し開けた場所から、街の灯りが低く広がって見える。


 キツキも足を止める。


 レニアはしばらくその灯りを見ていた。


 キツキは、その横顔から目を離せなかった。


 何かを言われるのを待っているだけの時間が、やけに長い。期待するなと、さっきから何度も思っている。


 それでも、レニアが黙っているほど、胸の奥が落ち着かなくなっていく。


 やがて、レニアはこちらを向かないまま言った。


「少し、話があるの」


 その瞬間、キツキの心臓が大きく跳ねた。

ここまで読んでくださってありがとうございます!


基本、毎日2話更新です!


続きが気になる、また読みに来てもいい、と思っていただけましたら、

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